これが遺言でいい
なにかと問題の多い場所で生まれ育ったが、思い出せる範囲では生活に致命的な不自由を感じたことはなかったと思う。
情報を分け合える仲間さえいれば食料にも雨風を避ける場所にもさして困らなかったし、雑多に移り変わる街の様相にも飽きが来ることはなかった。そして大人になった今、ギラギラと光る高価な物品を差し置きたった一冊の書物に食指が動くのは、文字の羅列を眺めて時間を潰していた幼少の頃の癖のせいだろう。
あの街では、生きるために必要なものはどれも劣悪ではあったが全て空から降って来て、オレたちの生活をそれなりに潤した。ときには虫の住処となった胎児なんていう何の足しにもならないものや、それどころか健康を脅かしかねない産業廃棄物やらが降って来たものの、劣悪なりにオレたちは生かされていた。しかし今思えば五体満足とは言い難い住人が多かったから、そういうやつらはやたらと足場の悪いあそこでの生活をどんな風に感じていたか分からない。
──分からないし、何より興味もない。弱者に明日は来ないのだ。路上でくたばった人間の懐を漁るとき、オレたちは四つ足の獣と何ら変わらない。罪悪感なんて高尚な痛みはここで暮らしていく限り知り得ないもので、知ってはいけないもので、それを知覚してしまった瞬間もう元の生活に戻ることは出来ない恐ろしい呪いのようなものだ。例え誰であろうとここで朽ちれば例外なく他者の糧となる。
残酷で非道徳的な方法でもって生き長らえてきたこの命はどれだけ醜悪な臭気を放っているのだろう。そんな命でも、いつかは誰かを救うのだろか。
窓の向こうを流れゆくネオンの眩しさに目蓋をこじ開けられた。車内に満ちた沈黙がじっとりと肌に纏わりついて、体勢を変えることすら億劫だ。濡れた路面に反射する光の道筋を目線でなぞる。ドアにもたれるように軽く体を傾ければ、鈍色の鎖が冷たい音を立てた。その、鎖の先。膝が触れ合うほどの至近距離で物言わず佇む鎖野郎の生白い手は固く握られたまま小さく震えている。
つい今しがた、スカートから伸びた足を揃えて座る淑やかなその様からは想像だに出来ない激しい殴打を食らわされたばかりだった。対向車のヘッドライトに目を眇める度、頬骨の辺りを中心にして鈍い痛みが広がる。怒りに任せて執拗に振り上げられた拳、その瞳の奥では動揺が揺れているように見えた。
感情の昂りによって緋色に濡れる美しい双眸。望郷の念と怨恨を孕む鮮烈な輝きに見下ろされて、あのときの残党だとすぐに分かった。
「何を見ている」
膝の上に置かれた拳を見つめていたのが癪に触ったらしい。しかし雨で滲んだネオンを見送るよりも興味をそそるものがすぐ隣にあるのだから仕方がない。改めて横顔を観察していると、つんと尖った鼻先に分かりやすく皺が寄った。
彼らは独自の言語を用いて高山に集落を築く、非常に排他的な民族だった。
見目の変わる特異な体質は今でこそ人体収集家の枠を越え、目にした者すべてを惹きつけるような魅力を持つが、鮮やかな緋色は古く遡れば凶兆のシンボルとして忌み嫌われていた時代もある。誹りを受け疎外されるうちに強く根付いた外界への嫌悪は、集落外への好奇心を捨てさせたはずだ。
しかしコイツのように年若い連中のなかには閉塞感の拭えない生き方に疑念を抱く者だって少なくはなかったと思う。枯れ木のような村長たちが閉じられた場で一生を終えようとしている理由に思い至らないのは、想像力が欠如しているせいじゃない。若者とはいつの時代も得てしてそんなもんなのだ。それを罪や単なる未熟さだとは到底思えない。
何を見ている、という直接的な非難は一度きりだった。しかし瞬きの頻度や呼吸の浅さから、不躾な視線に際限なく苛立ちを募らせているのがよく分かる。
「気に障ったかな。滅多にお目に掛かれない美術品が目の前にあるもんで、つい」
世界七大美色のひとつ、鮮烈に色付くアイリスが僅かに震えた。反り返った睫毛に縁取られた目蓋は瞬かず、血の気のない頬の上で澄み切った白目が徐々に潤む。
決して激昂させたかったわけではない。小ぶりな顔に浮かべられた壮絶な表情がただただ美しいと思った。また殴りかかってくるだろうか、しかしその予想に反してクラピカはのろのろとこちらに顔を向けただけだ。
「瞳の色もその顔立ちも、まるで精巧なビスクドールをみているようだ」
変装用のウィッグで押し潰されていた髪はところどころほつれたまま薄い肩を滑って、きつく寄せられた眉根が言外にオレを詰る。
静まり返っていた運転席からしらじらしい舌打ちが響いた。ハンドルを握っている細面の男とルームミラー越しに目が合う。攻撃の予備動作のように肘を軽く引いたクラピカを、男は語気荒く呼び止めた。
「……なんとでも言え、お前の言葉風情じゃ、私は壊れない」
ああ、そう。揺らいでいるくせに。
その眼窩に嵌まる緋の目は、きっとこの世で一等値の張る緋色だ。色濃く淀む憎しみの凝りが眼底に潜むからこそ、ひとをこうも惹きつける。瞳に付随する禍々しさは、人々の内側で培われた共通認識によって描かれる神の様相よりもずっと神々しく、しかしぎらぎらと光る眼光は手負いの獣のそれにも似ていた。何よりも、オレよりも、冷たい鎖に縛られているのは恐らくコイツのほうだ。
白い喉がこくりと小さく上下する。歩道に群れる傘の森が、クラピカの背後をのろのろと行き過ぎていった。
「別に、壊そうだなんて思ってないさ」
信じないよな。いいんだ、それで。
この世の何もかもが、あの街にはあった。
ありとあらゆる混沌を受容するあの街には、何もなかった。
多くを望むことのない住民たちは今日もあの街で夜を過ごす。廃棄される万物に縋り頼って、ときには誰かを糧にして。連れ立った仲間たちは一体外へ何を求めてオレと共にあの街を離れたのか。しかしそれを覚えている団員が果たしているのだろうか。……あとで、聞いてみよう。
目が眩むような夕焼け。霧を裂く真っ白い陽光。スクラップを照らす月明かり。指先で少し触れただけで削れる土壁の建物。積もり積もった廃棄物を踏みしめたときの不安定な感触。脳裏に浮かぶそのどれも、凡そ望郷の二文字で片づけられるほど清々しいものではない。忌むべき記憶のほうが、多分多いし。
ひどく強張って揺れる緋色のアイリスを、オレはいつか懐かしむのだ。見知った街並みに誰かの背中を探すように、目が覚めてしまった夜半に夢の残滓をかき集めるように。
だったら、そちらのほうが余程望郷という刹那的な感傷に近しい。
痛々しいほどに青ざめてより造り物めいたその横顔に、いくら不躾な視線を送ろうとも、もう緋色の瞳はオレを映さなかった。
(0巻を読む前のものなので捏造の塊)