幸福かと言われれば肯定。




 クロロ=ルシルフルと言う男は、嘗て悪名高き盗賊団の長だった。
 なんの因果かその強固なはずであった繋がりが跡形もなく雲散霧消し、団員も皆散り散りになって遂には団長とそう呼ばれなくなってからも、時折迷い込む夢の中でクロロは必ず「団長」だった。
 
 生温い夜だ、湿気がひどくて寝苦しい。こんなふうに入眠に苦労する日にはよく「団長」の夢を見る。経験則上眠りたくはなかった。まんじりともせず幾度も寝返りをうっていたが気が付けば意識を少々失っていたらしい。
 クロロはひどい夢と現実の境目でハッと息を呑んで、気管を圧迫した酸素の塊にむせ返った。身体を折り曲げて浅い呼吸に喘ぐクロロの背中に、なにか柔らかいものが触れる。なにか、誰かの手のような。
 そう思い立ってはじめて、背後でマットレスに乗り上げた何者かの存在に気が付いた。ここ数年、このアパートでくだらない生活を送っているのはクロロ一人だ。客をあげたことなどただの一度もない。
 
 おおきくもんどりうって、クロロは身体に絡まっていたシーツや読みかけの本と共に床の上に転がり落ちた。一瞬遮断された視界に目を白黒させて、頭からかぶさっていたブランケットを勢いよくはぎ取る。咳は依然止まらない。
「うわー、大丈夫?」
 ベッドにはクロロ以外の人間がいた。しかも喋りかけて来た。自分がここにいるはずのない人間だと言う自覚なんて一切ないような、穏やかな声音で。
 
 ひゅう、と無様な音を立てて、クロロの喉が鳴る。
 ベッドの端に座っていたのはシャルナークだった。そんなはずはないが、シャルナークだ。生理的に滲んだ涙越しの視界だって、彼の姿を見間違えるわけがない。嘗ての団員は、行き場のない手をそろそろとベッドに下ろす。
「てゆーか、そんな寝ぼける? スゴイ音したけど」
 シャルナークはベッドの上からクロロに手を差し伸べた。これは夢か、じゃなきゃこの部屋の異常な湿気にやられて遂にクロロのナイーブな気が違ってしまったのだろう。シャルナークは死んだのだ。旅団が瓦解するずっと前に死んだ。思い出したくもない有様で、彼は自分の元から去った。
「……クロロ、ヘンなとこ打った?」
 シャルナーク(暫定)の言う通りだ。強かに打ち付けた箇所がすべて痛いので夢とは考えにくいが、打ち所が悪かったのなら仕方がない。納得出来る。
 しかし脳のバグとは言えもう一度シャルナークに会うことが叶うとは。旅団の再結成を願うことはなかったが、団員に会いたいと思ったことは数知れない。
 もしかすると差し伸べられた手に触れられやしないだろうか、もしも触れられたのだとしても、それでも幻覚は幻覚だろうか。質量のある幻はもう既に実体で、即ちここに在るものだ。他の誰にも見えなくたって、今だけは、クロロにとっての現実になり得る。依ってクロロはその手を掴むことが出来なかった。この鮮烈な再会を幻覚だと自覚することが、今の彼にとってはあまりにも恐ろしかった。最後に別れた日のことも、最後に交わした言葉も何だったかよく思い出せないのに、弛緩したシャルナークの肢体の重さばかりが腕に蘇るようで、クロロは手のひらにきつく爪をたてた。
 
 シャルナークはといえば、薄い唇をぱくぱくと動かして口の端をゆるりと持ち上げた。なに? きこえない。先ほどクロロを苛んだ夢の中で、やはり彼は団長だった。耳障りだ、耳障りで仕方がない。失ったものを嫌でも想起させるその響きが。
 クロロはこれまで不特定多数の人間からあまりにも多くのものを奪ってきたが、自身の被った喪失をその代償だと受け止められるほど出来た人間ではない。彼がそれに気が付いたのは「奪われた当事者」になったそのときだ。あまりにも遅い気付きだった。なにせ欲しがるばかりのクロロのことを咎めるような人間は、どこにもいなかった。
「ほら、あがって」
 シャルナークの大きな手のひらが、手首に絡まる。
 
 ああ、覚める。
 
 ハッとして顔をあげたクロロの真剣な眼差しに、シャルナークは逡巡してからなんとなく笑ってみせた。丸い指先がクロロの腕に食い込む。すこし痛いくらいの力でもって引き上げられて、クロロはもたもたと肘と腕を使ってベッドの上に舞い戻った。
「……お前、本当に幻覚か?」
「ちょっとマジでやばいねクロロ、病院行く?」
「だってシャル、おまえ、死んだだろ」
 クロロはついにそう口にした。これこそが忌々しい現実だ。悪夢のようだって、信じられなくたって、シャルナークは死んだ。だからここにいるわけがない。触れられるわけがない。
「死んだって、俺が? どうして死んだの?」
「どうして、って、そりゃ」
 ────あれ。
「そりゃあ、なに」
 熱を持った痛みがひいていく。代わって胃の腑が引っ繰り返ったような不快感が、クロロの肌を粟立たせた。
 
 どうして、って、なんだ。
 死んだって、誰が。
 
 頭の中が微かに揺れて、クロロは前のめりになる。眩暈と言うには優しすぎるそれは幸いすぐに消え失せたが腹の奥は依然ざわついたままだ。
「嫌な夢でも見た?」
 シャルナークは真面目な顔でクロロを覗き込む。
 ……嫌な夢、そうだ。悪夢を見ていた。既に散り散りになりかけていた残滓をかき集めるのには少し時間がかかったが、シャルナークは続きを急き立てたりはしなかった。深い碧色の瞳で、ただクロロの表情を窺う。

「そう、そうだよ、」 
 色のない夢の中で、クロロは団長と呼ばれていた。その呼称はいつだって例外なく耳障りで、胸中にひろがる苦い後悔に息を詰まらせる度にクロロは跳ね起きて奥歯を噛んだ。
 のろのろと顔をあげたクロロは徐に唇を湿らせる。
「夢を見てた、ひどい夢」
「うん。どんな」
 お前が死ぬ夢、そう答えようとしてクロロはすんでのところで言葉を噛み潰した。
 朝の訪れを予感させる蒼い夜がひたひたと部屋に満ちて、ふたりの間の沈黙をゆっくりとさらっていく。

「────忘れた」

 夢と現実の区別もつけられないままに彼はぬるい微睡みの連続のなかで絶望をやり過ごす。
 退屈で、滑稽で、悲惨で、幸せな男。クロロ=ルシルフルは、嘗て悪名高き盗賊団の長だった。


天国かと問われれば沈黙。