あいをまぜていたいのだろう


「星星之火、可以燎原」
 聞きなれないイントネーションの言葉が、脳を一切経由することなく耳を撫でる。
 フェイタンのくぐもった声で紡がれたそれはやけに耳馴染みのいい流れで、これが彼の母国語かとすぐに思い至った。聞きなれたはずのフェイタンの声がまるで知らない人間のもののようだ。扱う言語が変わっただけなのに。ちっとも理解出来ないそれは、言葉と言うよりも「ただの音」に近い。
 非常に遅ればせながら「話しかけられたのか?」と思いいたって、足溜まりの一室に運び込んだ簡素なマットレスの上で体を捻る。が、きつく眇められたフェイタンの目は膝の上の分厚い本を見つめている。ここからだと中身の確認は出来ない。まあ確認が出来たとてそれもまた多分わたしには理解出来ない文字の羅列だ。
「例え小さな火花でも、いつかは野を焼く炎になり得るいうことね」
「ああ、はい、ごめん。わたしに言ってたのか」
 わざわざその理由をわたしにも分かる言葉で説明し直したということは、つまりそういうことで。フェイタンは、あの綺麗っぽい言葉をわたしに向けて口にしたらしい。
「団長と、お前のことよ」
 無意識に背筋が伸びる。まさかフェイタンからその件に関して言及されるなどとは思ってもみなかった。シズクとクロロによる「団長とニーハって同じ家に帰ってるんですか?」「ああそうだよ」という悪気のないやりとりで一部の団員に露顕した疑惑(というか疑惑も何も一緒に暮らしているのは紛れもない事実なんだけど)に、一番興味がなさそうだったあのフェイタンが、わたしに対して今更何を言うことがあるんだろう。一番分かりやすく狼狽えていたフィンクスなんかは未だにすごくよそよそしいままだ。
「前にも言ったけど、いろんな事情があって帰る場所が同じなだけだよ。フェイタンに口出しされなきゃなんないような暮らし、別にしてない」
「一緒に暮らそうが生殖しようがそんなの好きにすればいい。けど、最近のお前目に余る。旅団の形がすこし変わった。自覚ないか?」
 生殖って言った? 今、生殖って言ってた?
 木製の椅子を軋ませて、フェイタンはゆらりと腰を上げる。
「いやいやちょっと、小さな火花って、はは……すごい嫌味。わたしがその、いつか野を燃やす炎になりかねないから、目障りってこと? それは流石にただの私情で物事を見すぎなんじゃないの」
「ハハ。後ろめたさはひとを饒舌にするものね」
 燃えるならひとりで勝手に燃えてろ。
 抑揚のない声でそう吐き捨てたフェイタンは羽織を翻して廊下の暗がりに溶けてしまう。ひとりで勝手に、だって。すごいこと言うじゃん。別にもうこれ以上言い返すつもりもなかったけれど一人にされればそれはそれでなんだか癪だ。
 よく考えろと言外に詰られたのか、話が通じるやつじゃないと見限られたのか分からなかった。「目に余る」とは、わたしの何を指していたのだろう。
 首の後ろが重たい。頭痛の予兆に天井を仰ぐ。知るか。知るか。あんなのただの難癖だ。対話を拒むためだけの暴言だ。しかし、心は妙に凪いだままなのだ。

 自分で汚したものは自分で片付ける、とか。互いの寝室には許可なく立ち入らない、であるとか。いくつかのルールを守りながらわたしとクロロは暮らしている。他の団員がどんな想像をしているのかはなんとなく伝わってくるものの、現実は皆が思い浮かべているような同棲生活とは多分程遠い。タイミングが合えばふたりで食卓につくし、テレビを観て同じフレーズで笑うこともあるし、映画の感想を語らうこともある。でもそれだけだ。
 クロロは極めて穏やかで口数が少なくてほんのすこし神経質。意外と料理なんかもするんだけど、拘りの強さが仇となるのか散々時間をかけたうえ味は微妙なことが多い。共用部の片付けが疎かになっていることを指摘すれば「よく使うものは常に手の届く場所にあった方が効率的」とか非常にそれっぽいことを言い出す。口喧嘩では勝ち目がないから、どんどん共用部分はクロロの私物で侵食されてきた。
 と、まあ、思い浮かぶそれらは“団長”と遠くかけ離れた姿ばかりだから、わたしたちの関係性により旅団の形が云々というフェイタンの訴え自体はどこか的外れな気がした。
 団長は団長で旅団という組織そのものを大切に思っているのだろうし、それと同時にクロロはクロロで大味な人生を過ごしているのだから、そこにわたしが加わる余地はない。つまりわたしの感情や行動がクロロないし旅団に影響を与えるなんてこと、あるわけがないのだ。

 気詰まりを抱えたまま足溜りを移動している最中、なにやら通話の最中らしいクロロとすれ違った。やわらかい輪郭の、すこしざらざらした声。日頃はわたしから喋りかけても大抵のことは「ウン?」とか「ああ」で済まされる。さては聞き流しているなと思うけどきちんと頭のなかには入っているらしくて、変なタイミングでレスポンスが返ってくることが多い。今日のことは勿論クロロに伝える気はない。ないけど。でも。
 振り返ってクロロの背中を見送る。筋骨隆々とはかけ離れたシルエットでも、少なくともわたしにとっては大きくて頼れる背中だ。わたしはいつもクロロの後ろ姿ばかりを見つめていて、まあ、つまるところわたしのほうはクロロと「そう」なるのも正直吝かではないわけである。何がきっかけだったかは分からない。でも、いろんな不可逆の積み重ねだった。クロロに焦がれることのないわたしを再現するためには彼と出会う前にまで遡らなくてはいけない。
 多分フェイタンが釘を刺してきたのはわたしのこういうところに気が付いていたからだ。肝心な局面で感情を御することが出来ず、いつか判断を誤るに違いないと確信しているような冷たさだった。誰かに焦がれる気持ちは、心で燻りひとを強くも弱くもするものだ。
 わたしのこの気持ちはクロロのなかにほんの少しの揺らぎも齎さない。残念ながら。ほんとうに、残念ながら。

 どうにも調べようのないあの涼やかな言葉を口のなかで反芻しつつ、曇天の下に出た。夜は冷えるかもしれない。あーもうぜんぶ放っておいて、トマトのスープが飲みたいな。できれば、クロロと。




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