高校三年生になり高校最後の夏が終わった十月。受験モードの周りに負けじと勉強をする私には小さな楽しみがある。

学校からの帰り道、人で賑わう大通りから路地に入り少し歩くと私のお気に入りの喫茶店がある。白髪が混じった初老の男性がマスターをしているこの店はちょうど去年の今頃に見つけたのだ。
外の白い壁には蔦が這っていて葉に隠れてしまいそうな窓から見える落ち着いた雰囲気の店内は違う世界のように見えてワクワクしたのを覚えている。

真黒の少し錆び付いたドアを思いっきり引くとチリンチリンと鈴が鳴る。

カウンターの奥でコーヒーカップを磨いているマスターに「こんにちは」と挨拶をすると彼は目じりにしわを寄せながらにっこりと笑った。

お店の一番奥。
カウンターに一番近くてあの窓から一番遠いテーブル席へと真っ直ぐ向かう。

「今日もカフェモカでいいかな?」

いつも座る席までマスターがおしぼりと水を持ってやってくる。
コーヒーは苦くて飲めない私はいつもカフェモカを頼んでいた。マスターのカフェモカは私のためか他で飲むそれより少し甘めで私はそれが大好きなのだ。

「お願いします!」
「はい、ちょっと待っててね」

そう言ってカウンターに戻るマスターを見届けるとガサガサと鞄の中から勉強道具を取り出した。

週に二回、学校が終わったらこの店のこの場所で勉強をする。そして今日、木曜日は特別な日だった。

ソワソワしながら参考書をめくっていると小さく笑う声が聞こえ顔を上げる。そこにはテーブルにカフェモカを置きながら優しく笑うマスターがいた。

「嬉しそうだね」と言われ、落ち着かない原因を見透かされているようで恥ずかしくなる。熱の集まる頬をぱたぱたと両手で仰いでいるとチリンチリンと鈴が鳴り澄んだ綺麗な声が店内に響く。

「こんにちは」
「いらっしゃい」
「今日もブレンドコーヒーを一つお願いします」
「ちょっと待っててね」

注文を受けマスターが移動すると私の前がひらけてあの窓際の席に座る彼が目に入った。

サラサラの濃い青の髪に少し長いまつげ。白い肌にはグレーのシンプルなニットがよく似合っている。窓から入る光がキラキラしてあのテーブルだけが現実から切り離されてしまったようだった。

そう、私の木曜日の楽しみは彼を見ることだ。

受験生になるまではあの席から窓の外を眺めるのが私の楽しみだった。でも三年生になりここで勉強をするようになって、日差しの入る窓際はあまり集中できなかったので渋々奥の席に座るようになったのだ。

私が座らなくなってから少ししたある日、彼があの席に座っていた。初めて見たときは絵本から出てきた王子様じゃないかってぐらい綺麗だなと思った。

彼も毎週木曜日にお店に来ているようで、気付いたらあの席は彼の特等席になっていた。
最初はお気に入りの席を取られてしまったようで複雑な気持ちだったが今となっては窓際に座る王子様を真っ直ぐ見られるこの席が私の特等席だった。

相変わらずに綺麗な人だな。なんて考えながら、ぼーっと彼を見ていると窓の外を眺めていた視線がふっとこちらを向いた。

バチリと目が合い心臓が大きく鳴る。

今まで何度も彼を見ていたけれど彼が振り向き目が合ったのは初めてだった。

あまりにも唐突すぎて状況を理解できない私の脳は、何を思ったのかじっとこちらを見つめる彼に小さく手を振った。
動揺した私の不可解な行動は彼にとっても予想していなかったもののようで少し目を開いて瞬きを繰り返すとふわっと笑い手を振り返してきた。

「っ!?」

細められた目にだんだんと熱くなる顔やどんどん速く大きく鳴る鼓動がバレてしまいそうで気を紛らわそうとカフェモカの入ったマグカップを口元へ運ぶ。
ごくりと喉を鳴らして飲んだカフェモカはいつもより甘く舌に残っているような気がした。

そろそろと手を下ろした時にはもう彼の視線は窓の外へと戻っており、少し残念なようで安心したようななんとも言えない気持ちのままノートを開いた。



*



あの日から彼は目が合うと手を振ってくれるようになった。そのうち軽くではあるが挨拶を交わすようにもなった。

「こんにちは」
「さようなら」
そんな些細な言葉にも小さな表情の変化にもドキドキしていて木曜日の放課後は早く喫茶店に行きたくて仕方がなかった。

今にも雨が降り出しそうな重い色の空の木曜日、今日はホームルームが長引いてしまいいつもより遅い時間にお店のドアを引く。

チリンチリン

窓際の席に彼が座っていないのは外から確認済みだ。彼も今日は遅れているのだろうか。と考えながら奥の席へと顔を向ける。

私の特等席。
入り口から一番奥のカウンターに一番近くてあの窓から一番遠いテーブル席。
その隣の席にはコーヒーカップを片手に読書をする彼が座っていた。

「いらっしゃい」といつものように声をかけてくれるマスターに「カフェモカお願いします」と伝えて足早に奥の席へ向かう。

近づく私の気配に気付きゆっくりと顔を上げた彼の瞳に私が映った。髪の色と同じ吸い込まれしまいそうな深い青に囚われたように動けずにいるとふっと瞳が細められた。

「こんにちは」

少し首を傾げながら笑う彼は本当に綺麗で、窓際でなくても絵本から出てきた王子様のようだった。

「こ、こんにちは」

思っていた以上に細い自分の声に苦笑いしながら席へ着けば彼は息を吐くようにもう一度小さく笑うとスッと手元の本へと視線を戻した。

先程から主張の激しい心臓を誤魔化すように鞄を開ける。慌てていたとはいえ適当に投げ込まれてしっちゃかめっちゃかな鞄の中を見て小さく首を横に降る。

ぐちゃぐちゃの鞄の中が隣の彼に見えないように勉強道具だけを器用に取り出していく。
途中カフェモカを持ってきてくれたマスターと目が合いウィンクをされたが私にそんな余裕はなかった。

一通り準備が終わり参考書をめくった。

「…………」

店内はマスターの好きなクラシックがひかえめに流れるいつも通りの落ち着いた空間なのに、私の心臓はドキドキと大きく鳴っていた。

ちらりと隣に視線だけを移せば真剣に本を読む彼が座っている。
いつもの窓際の席ではなく私の横にいるのだ。

彼から視線を外して思ったよりまつげ長いな。なんて思いながらカフェモカを一口口に含めば、いつもと同じ少し甘めの味と鼻を通るコーヒーの香りにうるさかった心臓もだんだんと落ち着いてくる。
もう一口飲んで小さく息を吐くと隣から「ふふっ」と笑う声がした。

弾かれたようにそちらを見れば、口元に手を当てて笑いを堪える彼がいた。

「あ、あの?」

突然のことに動揺しおもわず声をかけると優しい声が返ってくる。

「あ、ごめんね。僕のことが気になってあまり集中出来てないみたいだったから……ここに座ってたら邪魔かな?」
「え?」

「冗談だよ」と彼はいつもの綺麗な笑顔ではなく子供のように楽しそうに笑った。

「でも、じっと見られると照れちゃうから程々にしてもらえると嬉しいな」
「へっ!?」

徐々に熱が集まる顔とまた速くなり始めた鼓動を誤魔化すように口を開いた。

「な、なんで今日はこちらの席なんですか?」

私が質問をしてくるとは思ってもなかったのか彼は驚いたように目を開いて数度瞬きを繰り返す。

この表情、前にも見たな。
初めて目があった日もこんな表情をしていたことを思い出す。

「んー……占いが一位だったから、かな?」

彼からの想定外の返答に今度は私がきょとんとする番だった。

「うらない?」
「そう。思い出話をすると良いことあるよってね」
「はあ」

よく分からない理由に首を傾げていると彼はまた子供のようにクスクスと笑い「あのね」と続ける。

「去年の冬にあの席から窓の外をとても楽しそうに眺めてる女の子を見つけてね。キラキラした目で外を見ているからあの窓を通した世界はどう見えるんだろうって気になったんだ。でもある日ぱったりと見なくなっちゃって……思い切って自分で座ってみた」

突然始まった話に驚くも身に覚えのある話にざわざわと心が騒ぎ出す。

「……ど、どうでした?」
「想像よりずっも普通の景色だったかな。でも、今はずっとその窓に映ってたそのカフェモカと君の方が気になるかな」

「いつも美味しそうに飲んでたよね」とにっこり笑う彼の瞳は真っ直ぐに私を見ている。何か言わなくてはと口を開くが言葉は喉に張り付いてしまったのか出てこない。
魚のようにパクパクと口を動かしていると彼はぱたんと本を閉じて立ち上がった。

「あ、今日は予定が入っててもう行かなきゃ。もっとお話ししたかったけど、ごめんね。」
そう言って背を向けた彼に慌てて声をかける。

「あ、あの!来週は……!」
「僕は月岡紬」
彼は半身で振り返り綺麗に笑った。

チリンチリン
月岡さんは相当急いでいたのか「よろしくね」と付け加えると足早に店を出ていった。

来週は月岡さんと二人で窓際の席に座るのもありかもしれない。
まずは私の自己紹介から始めよう。

そんなことを考えながらマグカップの中身を飲み干した。

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