一話

 大学進学を機に一人暮らしをすることにした。別に家から通えない距離ではなかったけど、通学だけで三時間はちょっとなあ、と思って。
 両親の実に軽い「いいんじゃない?」という一言と、父方の叔母夫婦の「それならうちの近所に家借りなよ、不安だから」という謎の心配、そして従弟の「姉ちゃん引っ越してくんの⁉︎ やったー!」という電話越しでも分かる純粋な喜びに後押しされた私は、特に迷うこともなく大学から電車で三十分ほど離れたアパートの一室を借りた。

 六畳一間のワンルームに風呂トイレ付き。叔母夫婦と従弟の暮らす家からはバスで四駅。近くにスーパーもコンビニもあるし、駅もバス停も徒歩十分圏内だし、好立地と言っていいだろう。多少治安の悪い地区らしいが、その分家賃が安かったので私的にはそこも高ポイント。


 上京初日に引っ越し会社のトラックが高速道路で爆発炎上して、実家から持ち込もうとしていた家具や衣類やその他諸々が全てダメになるというハプニングはあったものの、それもまた新生活のスパイスなのだと思えば耐えられそうだった。
 嘘。耐えられなかった。これから始まる大学生活への期待を胸に奮発して買ったスカートもバッグもコスメも燃えてしまったことが悲しくてちょっと泣いた。

 泣いてたら、大家さんが「ひとまず今夜はこれ使いな」と布団一式を貸してくれて、お隣さんが「実家から送られてきて持て余してたから、良かったら食べて」とダンボールいっぱいのみかんを分けてくれた。東京の人って案外優しい……。
 「下のゴミ捨て場でたまに派手な格好の男が酔っ払ってることあるけど、絶対カタギじゃないから無視しなさいね」とわざわざ教えてくれた大家さんとお隣さんにお礼を言って、布団一式とみかんを抱えて部屋に戻った私は一旦仮眠を取った。辛い現実から目を背けるためである。

 両親には一応連絡をしたが、「代わりの服とかは送ってあげられるけど、家具はそっちで自分で買いなさい」と返ってくるだけだった。その時点で私は既に家具を自力で組み立てることを考えて面倒になってしまい、現実から逃げることにしたのだ。


 それで、仮眠から目覚めたら夜中の二時だった。寝た時は確か夕方ぐらい。夏だから日が落ちるのが遅くて、まだ外は明るかった。だけど今は真っ暗だ。文字通り真夜中。

 カーテンも例に漏れず爆発して何も掛かっていない窓から差し込む月明かりは眩しい。この家にはまだ時計もないので携帯で時間を確認して、叔母夫婦から届いていた何通かのメールを読みながらみかんを食べた。
 「今日の晩御飯ハンバーグだけど食べに来る?」というメールが届いていたのが今から七時間前。ちょうど私は爆睡していた頃だ。そうじゃなきゃ二つ返事で叔母夫婦の家へと向かっていたことだろう。ハンバーグ大好き。

 ふたつめのみかんに手を伸ばしながら、携帯を閉じて部屋を見渡す。実家から持ち込んだ家具たちが設置されれば手狭に感じたかもしれない部屋は、トラックに載せずに自分で持ってきたキャリーケースとウエストポーチ、それから大家さんに借りた布団一式とお隣さんに貰ったみかんの入ったダンボール箱しか置かれておらず、広々としている。なぜって持ち込まれるはずだった家具たちが爆発炎上したからである。初日から波乱万丈すぎだ。

 明日は家具を選びに行かなきゃな、と考えて、なんだか憂鬱な気分になった。楽しい一人暮らしの幕開けがこれって、どうなんだろう。こんなことになるぐらいなら片道三時間かかったとしても実家から通った方が良かったんじゃないかな。往復だと六時間で、それだけで一日の四分の一終わるけど。
 これもホームシックなのかな……とため息をついたのと同じタイミングで、グーッとお腹が鳴った。……みかんだけじゃ、足りない。

 フライパンとかお鍋とかお玉とか、あとは食器とか、そういうものも全部爆発炎上してしまって今この家にはない。電気ガス水道は開通してるけど、調理器具がないから料理は絶望的。そんな状況で手っ取り早く食事をするならコンビニかスーパーか……コンビニの方が近いか。
 こんな時間に食事をするのはどうなのかと思わなくもないが、今日は移動でカロリーを消費したはずだから多分大丈夫だろう。明日の朝ごはんも買っておきたいし。

 ウエストポーチに財布と携帯だけを入れて家を出る。鍵もしっかり閉めて、無くさないようにズボンのポケットに入れた。実家は北関東の片田舎で、周りの家に住んでる人たちも気の知れた人たちばっかりだったから鍵なんて滅多に閉めなかったけど、東京じゃそれじゃダメだと叔母に言い聞かされたのだ。数分鍵を開けて留守にしただけで泥棒に入られるかもしれないらしい。それは怖い。今この家に盗むものとかほとんど何もないけど。

 一度ドアノブを捻ってしっかり鍵が掛かっていることを確認してから、静かに廊下を歩いて階段を降りた。深夜二時に起きてる人なんて早々いないだろう。引っ越し初日から騒音トラブルなんてごめんだ。
 息すら潜めて階段を降りきり、ほっと息をつく。そうしてなんとなく大家さんとお隣さんの話を思い出してアパートに併設されているゴミ捨て場の方を見たら、スーツ姿の黒髪の男が体を丸めて寝っ転がっていた。こ、これが例の……。離れていても分かるぐらい酒臭い。

 あれ、でも大家さんとお隣さんは「派手な格好の男」って言ってた気がする。もしや違う人……? と怖いもの見たさでちょっとゴミ捨て場に近付いてから、「いや、違う人だったとしても深夜にゴミ捨て場で酔い潰れてる人がろくな人なはずないでしょ」と考えて踵を返してちょっと小走りでコンビニに向かった。大家さんも「今は女の人しか住んでない」って言ってたし、このアパートの住人でないことは確か。引っ越し初日、ただでさえも災難なことが起きてしまったのに、自分から変な酔っ払いに関わりに行くなんて絶対ごめんだ。


 +


 夜ご飯用のおにぎりと、朝ごはん用のおにぎりと、それから五本入りのチョコチップスティックパン。あとは水二本が入った袋を揺らしながらアバートに戻ってきたら、酔っ払いはまだゴミ捨て場で転がっていた。さっき見た時とは若干違う体勢になっているので、どうやら死んではいないらしい。

 風に乗って香る酒臭さに顔を顰めながら、行きと同様に出来るだけ足音を殺して階段を上る。一、二、と意味もなく段数を数えていれば、ふと後ろの方から「しんちゃん……」という呟きと、鼻を啜るような音が聞こえてきた。思わず足を止めて振り返る。今のはゴミ捨て場の……と思ってそちらを見れば、やはりゴミ捨て場で寝っ転がっている男がもぞもぞと寝返りを打ちながら「しんちゃん……」と涙声でボヤいていた。

 『しんちゃん』というのは、あの酔っ払いの彼女だろうか。寝ながらその名前を呼んで泣いちゃうって、もしかしてフラれたのかな。階段の真ん中の方で足を止めたまま、思案する。フラれたからってこんな所で寝なくても……。


 手に持ったコンビニ袋を見下ろす。この中には二本の水がある。なにかに使うかもと思って念の為に二本買ったけど、家には既に水道が通っているから、まあなくても何とかなるだろう。

 少し迷ってから、せっかく真ん中まで登っていた階段を降りてゴミ捨て場の方へ向かった。だんだん濃くなる酒臭さは鼻を摘んで耐えて、すぐに走って逃げられるだけの距離ギリギリまで近付く。そのままコンビニ袋から水を一本取りだして、ゴミ捨て場を囲うブロック塀の上に置いた。寝言で泣きながら名前を呼ぶぐらい大好きな彼女にフラれた人に冷たくするほど私の人間性は終わってない。
 その途端に、覚醒しかけているのか、人の気配に敏い方なのか、酔っ払いは「うーん」と唸って眉を顰めた。このタイミングで起きるのかと慌てて、起きるな起きるなと祈りながら一歩後退った。大家さんとお隣さんが言っていた「派手な格好の男」がこの酔っ払いを指しているのかは定かでは無いが、この酔っ払いがゴミ捨て場で寝ている意味のわからない変な男であることに変わりはないのだ。

 しかし祈りも虚しく、酔っ払いは目を開けて眠たそうにぼんやりと私を見上げてきた。逃げなくてはと焦りつつ、酔っ払いのくせしてまつ毛長いなコイツと理不尽な怒りも覚える。なんで酔っ払いのくせに私よりまつ毛長いんだよ。本当に理不尽な怒りである。
 その長いまつ毛に包まれた瞳はぼんやりと私を見上げていた。ゴミ捨て場の隅に立っている街灯が眩しいのか仕切りに瞬きをしている。……水あげますぐらいは言っておいた方がいいやつか、これ。

「……あのー、その水、あげるんで」
「みず……」
「はい、水。……あーほら、お兄さんまつ毛長いし、またすぐ彼女できますよ。こんなとこで寝てないで元気出して」

 ぼんやりとした口調でオウム返しにされるものだから思わず会話を続けて励ましてしまったが、そのせいで若干眠気が飛んでしまったのか、酔っ払いは案外しっかりとした口調で「……彼女?」と聞き返してきた。いつでも逃げれるようにともう一歩後退りながら、返事を求められている気がしたので「はい」と頷く。話し掛けたの、失敗だったかな。

「さっき言ってましたよ、しんちゃんって」
「あー……彼女じゃねえよ」
「あ、そう……」

 じゃあアレか、セフレってやつか。実家の辺りにもそういう男女はいた。田舎だから娯楽が少なくてみんなすぐ恋愛に走るんだ。
 あの田舎にそういう男女がわんさかいたんだから、東京にだってそういう男女はいるんだろう。私がそう思ってちょっと嫌そうな顔をしている間にも、酔っ払いはへらっと笑って「彼女じゃなくてー」と間伸びした声で話し出した。

「真ちゃんはダチ」
「はあ……」
「オレ、真ちゃんのこと大好きだったんだけどさあ、置いてかれちまった」
「はあ……?」
「あーあ……」

 何言ってるんだ、この人……と私がめちゃくちゃ困惑しているのを気にもせず、酔っ払いは自分の話したいことだけ話してまた眠ってしまった。困惑したまましばらくその顔を眺めていたのだが、ポロッと目尻を伝っていく涙を見て何とも言えない気持ちになる。寝ながら泣くな。

 ダチ、大好き、置いていかれた。意味もなく酔っ払いの言葉を脳裏で反芻して、もう一度酔っ払いを見て、思わず「あっ」と声が出た。この角度から見てようやく分かったけど、この人の服、スーツじゃなくて喪服だ。

「な、なるほどー……」

 そういうことかあ……。後退った二歩分を前に出て、酔っ払いの顔をちょっと近くから覗き込む。寝ながら泣いちゃうほど大好きな友だちだったんだ。だからって酔っ払ってゴミ捨て場で寝るのはどうかと思うけど……。

 少し迷ってからブロック塀の上に置いたペットボトルをコンビニ袋の中に戻して、酔っ払いのそばにしゃがみこんで「ねえ」と声を掛けた。ゴミの匂いの染み付いた吹きっさらしのアスファルトの上で寝るよりかは、布団も何も無くても一応四方は壁で固められている畳の上で寝た方がいいでしょ。


 私と妖怪酔っ払い夜泣き男こと今牛若狭は、こんな風にして、どこにでもあるわけでもありふれているわけでもないおかしな出会い方をしたわけである。

よつぼしいつか