四話

 酔っ払い基わかささんは、決して寝起きがいい方ではないらしい。ほんの三十分ほど前に起きた私が言えることではないが、十時過ぎにようやく起きたかと思えば、五分近くぼーっと壁を見つめていた。ゴミ捨て場で泥酔する辺り分かっていたことではあるが、時間を無駄にするのが上手な人だ。
 五分無駄にしてやっと頭が回ってきたのか部屋をぐるりと見渡して、その後に昨日買った食パンの残りを食べている私を見たわかささんは「ベッドとタンス置くとこの部屋狭いな」と呟いた。なんだコイツ……と思いながらも頷いておく。人の部屋のベッドで寝ておいて何言ってんだお前、という話は置いておき、狭いのは事実である。
 それにこの人が勝手にベッドで寝始めた時、全部諦めて寝かせたままにしたのは私。家主が私である以上無理矢理突き落として奪い返しても良かったけど、自分で歩こうとしない男を背負って歩くのが思っていたより重労働だったせいであの時の私にはそんなことをする気力は残っていなかった。
 総合すると結局は私自身の意思でベッドを譲ったわけだが、それでも新品のベッドを酔っ払いに使われたことに対して思うところはある。嫌味のひとつぐらいは許されるだろうとコップに入れた水を飲んでから口を開いた。

「家主ですらまだ一度も使ってないベッドの寝心地はどうでした?」
「それなり」
「いちいちムカつく……まあいいや。パン食べてさっさと帰ってください」

 嫌味が通用する人じゃなかったらしい。ため息をついて、ちゃぶ台の上に乗せていた五本入りのチョコチップスティックパンを指差す。パンとしか言われなかったからこの前と同じものを買ってきた。他のパンが食べたかったんだとしても、パンとしか言わなかったわかささんが悪い。
 自分の食べるもののついでとは言え、わざわざ買ってきてあげたことを感謝して欲しいぐらいだ。本当ならそこまでしてやる義理はない。拾ってあげたのだってとんでもない善意なのに、その上朝食を提供してあげるなんて、普通は有り得ない破格の扱いなんだから。
 そう思って私がむくれていると、わかささんはベッドの上で胡座をかいて頭を掻きながら「オレ朝は食わねー派」と今更なことを言ってきた。なんだコイツ!

「わかささんがパンないのかって聞いたから買ってきたんですけど!」
「そんなこと言ったっけ? っつーかオレお姉さんに名乗った?」

 なんにも覚えてないんかーい。
 もう、なに? 怒りよりも呆れの方が大きい。肩を落としてため息をつく。嫌だな、この人といるとため息が増えてる。
 怒る気力もなくなってしまったので、昨日の夜のことを説明してあげた。パンも名前も全部あなた本人が言ってきたことで、私がお節介を焼いたわけでも、免許証とかを覗いて名前を知ったわけでもない。名前に関しては「教えて」とは言ったけど……。
 わかささんは酔うと記憶が曖昧になるタイプの酒飲みらしい。説明を聴きながら首を傾げている。なら外で酒なんて飲むな。そんなに飲みたいなら家出だけ飲め。
 途中で歩き出して、キッチンの辺りを勝手に開け閉めして探し出したコップに水道水を注いだわかささんは、一息で一杯目を飲み干してから二杯目の水を注いで私の正面に座った。こんな勢いで飲酒してるんだとしたらそりゃゴミ捨て場で泥酔するほどに酔うわ。
 一晩経った程度じゃ薄れるはずもない噎せ返るような酒の匂いに、これをベッドで寝かせたんだと思うと憂鬱な気持ちになってくる。こんな人、床に投げておけば良かったかも。
 朝は食べない派と言ったくせに堂々とチョコチップスティックパンを食べ始めたわかささんにたいしてまたため息をついて、自分も食パンを食べる。いちごジャムが美味しいことだけが救いだ。

「よく分かんねえけどベッド貸してくれてありがとな。今手持ちねーからお礼は体でいい?」
「いいわけないですよね。何言ってるんですか? ……もしかして、これまでもそんなこと言って女の人の家に上がり込んでたんですか?」
「まあ」
「最低……穢らわしい……」

 東京の男女って爛れてる。
 目の前の酒臭い男が得体の知れない生き物に見えてきて、サッと自分の肩を抱いて距離をとる。「お礼は体で」なんて破廉恥な発言がすぐに出てくるぐらい女の人の家に入り浸ってるんだ。しかも発言の内容的に相手は不特定多数。
 本人はチョコチップスティックパンを食べながら「ケガラワシイだってよ」と笑っているが、こちらとしては全くもって笑い事じゃない。本当に変なの拾っちゃった。
 幸いにも積極的に手を出して来ようという雰囲気はなかったので、肩を抱いていた手で改めて食パンを手にして朝食を再開させた。追加のジャムを塗りたくりながら、目の前の男をじっと観察する。最初にまつ毛が長いと感じたのは間違いでもなんでもなく、まつ毛はバサバサのフサフサで、たれ目がちな瞳と合わさって可愛らしい印象を抱かせる。顔も整っているんじゃないだろうか。男の人にしては長い黒髪も不思議と似合っているし、これなら女なんて入れ食い状態なんだろう。東京怖ッ。
 本人はというと、観察することに慣れているのか私の視線なんて何も気にせずに、「穢らわしい」という言葉が謎にウケたようでまだ笑っている。人の住んでるアパートのゴミ捨て場で泥酔し、人のベッドで寝て、人に買わせたパンを食べながら気楽なものだ。並べてみると本当に酷い。
 ひとしきり笑ったあと、わかささんは「そういやお姉さんの名前は?」と聞いてきた。自分が名乗ったからお前も名乗れ、ということらしい。この人に個人情報教えるのなんか嫌だな……。でもお姉さんって呼ばれ方も嫌だし……。
 そのふたつの「嫌」を天秤にかけて、後者の方が重かったので仕方なく名前を教えた。最初は名字を教えたんだけど、「名前は?」と聞かれたから本当に仕方なく。
 何度か私の名前を呼んだわかささんは、にっこり笑う。

「いい名前じゃん」
「はあ」
「テンション低。褒めてんだけど」
「家に変な人がいるからテンションも低くなる……」
「ひど」
「どちらかと言えば酷いのはあなたの方では?」

 パンも食べるしベッドも使うしなんか呼び捨てにしてくるし。あと酒臭い。
 はあと今日で何度目になるか分からないため息をついて、もう一枚の食パンにもいちごジャムを塗りたくっていく。実家の辺りでは見たことのないブランドのジャムだったから買ってみたけど、すごく美味しい。今度は別の味のジャムも買ってこよう。
 早く帰ってくれないかな……という期待を込めてわかささんを見たのだが、わかささんは私と目が合うなり「大学生なんだっけ?」と聞いてきた。なんで話題を振ってくるんだ。帰れよ……。

「まあ、一応。わかささんもそうですか? 見た感じ私とそんなに歳変わらなさそうだし」
「オレ? オレは社会人ってやつ」
「ええっ! それで⁉︎」
「マジでひでー」

 へらっと笑ったわかささんは、「歳は今年二十三」と続けた。思ってたよりちょっと上ぐらいか。十代でも通じると思う。
 それにしても、社会人。ゴミ捨て場で泥酔する人が……。

「ち、因みになんですけど、ご職業は……?」
「ボクシングジムのインストラクター。ここの二駅先な」
「へ、へー……」

 こんな人でも社会人になれるんだ、とかなり失礼なことを考えていれば、「暇だったら体験とか来いよ」とわかささんは言った。頷いておく。授業が始まるまで結構暇だし、従弟と遊んで自分の体力不足が不安になったから、本当に行こうかな。
 さっきの「朝は食べない派」という一言は何らかの嘘だったのではと疑いたくなるようなスピードでチョコチップスティックパンを食べ進めるわかささんが「大学って楽しいんだろ?」と聞いてきたので曖昧に首を傾げておく。

「わかささんは大学はいかなかったんですか」
「うん。っつーかオレ高校もまともに行ってねえし、大学とか選択肢にもなかったワ」
「ええ……」
「ダチとチーム作ってケンカばっかしてたんだよ。周りもみんなそんなん」
「それはそれで楽しそう」
「まあな」

 じゃあ初めて出会った日の夜に言っていた「しんちゃん」もその頃知り合った友だちなのかな。わかささんは酔ってた時のことは忘れる人のようなので、私の前で「しんちゃん」と泣いたことも忘れちゃってるんだろうから何も聞かないでおくけど。
 その頃のことを思い出したのか楽しそうに笑っているわかささんの顔を見つめながら、最初の質問への答えを考える。大学、楽しいのかな。

「私、この半年大学通ってないんですよね。入学だけしてそのまま休学しちゃって。だから楽しいのかはあんまり」

 そう呟いてジャムだらけの食パンを齧る。私自身としても突然の休学だった。そのタイミングで高校の友だちとも連絡を取らなくなっちゃったんだよね。だから大学が楽しいのかどうかはよく分からない。私の方が知りたいぐらいだ。
 逆にわかささんに「大学って楽しいんですかね?」と聞き返せば、「さあ?」と首を傾げられた。分かんないよね。そりゃそうだ。
 楽しいのかなあ、大学。最低でもこれから四年間は通うことになるんだから、せっかくだし楽しいといいけど。
 空になったチョコチップスティックパンの袋をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に放り投げたわかささんが立ち上がる。まだ半分残っている食パンを食べながら見上げれば、「風呂入りてーし帰る」とわかささんは言った。

「今度からはゴミ捨て場で寝るのやめてくださいね」
「ここ、いつもの居酒屋とオレん家のちょうど真ん中ぐらいなんだよな」
「それは理由になりません。あとそこにかけてるジャケットも持って帰って」

 片手でジャケットを指してそう言えば、わかささんは少し驚いた顔をした。

「適当に置いといてくれてよかったのに」
「そういうわけにもいきません。喪服って結構高いし、一回着て捨てるようなものでもないでしょ」
「でもオレらが会うのがあれっきりだったかもしれねーだろ」
「たしかに。でもまあなんとかなるかなって思ってました。いざとなったら捨てましたよ」
「さっきと言ってること矛盾してっけど」
「そう?」

 驚いた顔を呆れた顔に変えて、わかささんは「変なやつ」と呟いた。あなたに言われたくないです。

よつぼしいつか