五話

 上京してから五日間で二回も拾って家に持ち帰ってしまった酔っ払い──わかささんとの縁というのも、どうやらあの二回きりのものだったらしい。あれ以来アパートの下のゴミ捨て場には酔っ払いの影も形もなく、私は順調に東京での生活に慣れつつあった。
 ちょっと拾って部屋で寝かせて一緒に朝ごはんを食べただけの酔っ払いに情を抱くほど懐が深い人間でもない。最後に会ってから一週間も経った頃には酔っ払いとの奇妙な縁はほとんど過去のこととなり、夜中に気になって軽く扉から顔を出してゴミ捨て場に人が落ちていないかをチェックするだけになった。
 万が一またわかささんを拾ってしまって床で寝ることになったら堪らないからと延泊していた大家さんに借りた布団一式も、そろそろいいだろうと判断して今日返却してきた。そのタイミングで一応「このアパートって男子禁制とかじゃないですよね?」と聞いたのだが、たまたま今は女性しか住んでいないだけで男性の居住も全然セーフらしい。良かった。引っ越してきてすぐにルールを破るのは避けたいところだ。

 色めき立ったような、同時に心配しているような顔で「誰か呼びたい人でも出来たの?」と聞いてきた大家さんに、焦って「従弟が泊まりに来たいって……」と嘘をついてしまったのは双方に申し訳なく思っている。だけど大家さんは両親の連絡先も知っているので、わかささんのことがバレるとちょっといけない。彼氏でもなんでもない人を二回も家にあげたと知られたら、たとえ名前を知っていても両親は卒倒してしまいそうだ。
 叔母夫婦には酒臭さからバレてしまったけど、拾ったのではなく介抱したのだとこの週末でいい感じに誤魔化したので、両親に告げ口されるとしても多分ちょっとはマシな感じになる……はず。あれから拾っていないということにしておけば、何か言われても言い逃れはできる。
 休学をすることになった時に色々とあって両親には多大な心配をかけた。東京へもすんなりと送り出してもらえたものの、それは「何かあったら呼び戻せばいいや」のすんなりさだ。東京とあの田舎とじゃ東京の方が全然楽しいから、なるべく帰りたくない。
 大家さんに布団一式を返却するついでに買い出しに出掛けた帰り道、フレンチトーストを作るために買った諸々が入った袋を持って家路を歩く。授業が始まるまであと二週間ぐらい。気合を入れて買った服たちは家具と一緒に爆発炎上してしまったので、そろそろ買いに行かなければいけない。東京の方がお店が沢山あるからいいものが買えそうだとポジティブに捉えよう。
 今日は落ちてる酔っ払いを拾うこともなく平穏無事にアパートの前に辿り着いたのだが、仕事帰りの装いのまま大家さんと井戸端会議をしていたお隣さんに引き止められた。軽く頭を下げて近寄れば、「一人暮らしはどう?」と聞かれたので「楽しいです」と答えておく。求められていた返事がこれであっているか分からないけど。

「そう。それなら良かった。何かあったらすぐ言ってね」
「ありがとうございます。今度布団とみかんのお礼させてください」
「そんな、気にしないで。そうだ、今大家さんと話してたんだけどね、例の酔っ払い、行動パターンが変わったっぽくて十一時ぐらいにこの辺うろちょろしてるらしいの」

 嫌そうな顔で「きっとどこかの女の部屋に上がり込んで朝まで過ごしてるのよ」と言ったお隣さんに、「そうなんですか」と返す。その時間はあんまり外に出ないし、なんなら寝てるからその酔っ払いとは会う機会はなさそうだ。

「しかも髪も黒に染めてイメチェンしてたんですって! スーツっぽい格好で歩いてたって話も聞いたし……仕事クビになって就活でもしてるのかしらね?」
「あれ、あの酔っ払いって仕事してるんだっけ?」
「確かいくつか先の駅のあたりでジムかなにかやってるって話だったはず」

 ……全然会う機会が会ったし、知ってる酔っ払いだな。なんならその酔っ払いを部屋に上げたどこかの女は私のことである。
 突如黙りこくった私に大家さんとお隣さんが「どうしたの?」と声を掛けてくれたので、首を横に振って答える。その酔っ払いを拾って、それも二回も家に上げましたとか絶対言えない。
 何をやってるんだわかささんは。しかもあの人個人情報バレバレ。顔がいいから皆つい注目しちゃうんだろうか。
 下手したら私があの人を拾ったところまで誰かに見られていてもおかしくない。最悪だ。もう絶対拾わない。


 +


 って思ったのに!
 フレンチトーストを作ろうかと思ったが、案外レシピが複雑だったので諦めていつものようにジャムを塗りたくった食パンを食べていた時、インターホンが鳴った。特に何も荷物は頼んでいない。誰だろうとは思いつつも、大家さんかお隣さんがさっき言い忘れたことでもあったのかと予想して相手を確認せずにドアを開けた。そしたらダンボールを抱えたご機嫌な酔っ払いが、今までと比べると仄かな、それでも相当な酒臭さを放って佇んでいた。
 ドアを開けた私と目が合うなりにっこり笑った酔っ払いは、ダンボールを差し出してきた。反射で手を伸ばしてそれを受け取ってしまったのが失敗で、両手が空いた酔っ払いは片手で私の肩を押して後退させ、もう片手でダンボールの中から缶ビールを取り出すと勝手に部屋に入っていった。
 ……はあ?
 背後でドアがバタンと音を立てて閉まり、私が呆然としている間にも酔っ払い──わかささんは既に部屋のど真ん中に座り込んでちゃぶ台に肘をつきながらビールを飲み始めている。なに?
 何がなんなのか分からないままに腕の中のダンボールを見下ろす。服と焼酎と変な人形と変な柄のコップとチョコチップスティックパンと……。どういう組み合わせなの、これは。
 結構重さのあるダンボールを適当に部屋の隅に置き、勝手に食パンを食べて「甘すぎ」と文句を言っているわかささんを睨みながらドアの鍵を閉める。人の晩御飯を勝手に食べて文句を言うなんて最低だ。人の家に上がり込んでくるのももちろん最低。今日のこれは比喩抜きで「上がり込まれた」としか表現出来ない。

「これ不法侵入だし、私が通報したら逮捕されますからね」
「マジ? 朝食うパン買ってきたんだけど」
「それあなたの朝ごはんでしょ」

 元の場所に座って新しい食パンに手を伸ばしながら、文句を言ったくせにビール片手に食パンを食べているわかささんをまた睨んだ。私の分も朝ごはんを買ってきたって言うならまだしも、自分の食べるパンを買ってきたってだけで威張らないでほしい。
 それにこの人が家に入ってきたところを誰かに見られていたら困る。まだ夜の七時だし、駅から程近いこのアパートの前の道はこの時間こそよく人が歩いている。職場の情報さえ流出するほどにこの辺りで有名なこの人を家に上げているとバレたら絶対面倒なことになるだろう。
 先の二回はこれっきりだと思っていたから好きにさせていたが、ほろ酔い状態で自らの意思で家に来られた以上、しっかり言ってやらなければならない。そう決めて、居住まいを正してわかささんを見つめた。

「今日はなんの御用ですか」
「泊めて」
「やだ」
「なんでだよ」
「逆になんで?」
「……人肌恋しいから?」
「ほんっとに最低」

 首を傾げるところまで含めてわざとらしいし、これまでこうやって女の人の家に上がり込んできましたって感じがして本当に嫌。どうして私はこんな変な人拾っちゃったんだろう……。善行も程々にしなくては。
 私が本気で嫌がっていることが分かったのか、わかささんは片方の口角だけ上げて笑うと「冗談」と言った。

「死んだダチの部屋から引き上げてきた荷物なんだよ、それ」

 わかささんが指を指す方向には、服や焼酎が入っていたさっきのダンボール箱がある。

「部屋解約するから引き取ってくれって言われてさ。でも家に持って帰んのはなんか嫌だった」
「……だからうちに?」
「そ。たまたま通ったから、置いてくかーって」

 別にこの部屋は貸倉庫じゃないんですけど。
 そう言いたくなりながらも、その言葉は飲み込んで視線をちゃぶ台の上に向けて手を伸ばし、コップを手繰り寄せて口を付けた。フレンチトーストに使うはずだった牛乳は既に生温くなってきている。冷蔵庫から出した牛乳パックからコップへと注いでから結構時間が経っているからだ。
 こんなふうにして、寒い場所に置かれて冷たくなったものも、外に置いておけばいつかは温くなり、人肌の温度に近付いていく。牛乳も、ビールも。八月のこの暑さがあればそれは尚更のこと。
 だけど人の心はそうじゃない。八月の暑さは、傷付いて凍り付いた心を不思議と余計に凍りつかせていく。時の経過が傷を癒すだなんて嘘だと思ってしまうような痛みと、涙ですら凍り付くような冷ややかさだけがそこにはある。
 一度、二度とコップに口をつけて牛乳を飲んで、それから大きく息を吐き出した。追い出しにくくなることを言ってくれたものだ。これも全部作戦でわざとだったら許せない。
 ビール片手にぼんやりと窓の外を見つめているわかささんの横顔を見つめる。人の心についた傷は外からは見えない。どれだけ痛くても冷たくても、自分自身にすら見えやしないのだ。

「……大家さんに借りてた布団返しちゃったので、ベッドは私が使います。来客用の布団とかないですからね」
「同じベッドで寝れば良くね?」
「なんにも良くないです。床で寝てください」
「照れんなよ」
「これが照れてるように見えるの……?」

 別に同情とか共感とか、そういうんじゃない。今更この人を追い出して、その瞬間を近所の人たちに見られていても嫌だから。ただそれだけだ。

よつぼしいつか