六話

 お友達の家から引き上げてきたというダンボール箱を私の部屋に持ってきたあの日から、わかささんは週に二回ほどのペースで家にやってくるようになった。大抵はほろ酔い状態で、朝食のパンと追加のお酒と少しのつまみを持って。
 ろくでなしを甘やかすとろくな事にならない、と私が認識したのは、わかささんが当然のように家に上がり込むどころか自分用の布団一式を家に持ち込んだ日のことである。いつも夕方か夜に来るのにその日はお昼に、それも布団なんて抱えてやってきたわかささんに驚いて「それどうしたの」と聞いたら「床で寝ると次の日背中も腰も痛いから買った」と返ってきたのだ。自分の家から持ってきたとか、他の女の家から引き上げてきたとか、それならまだしも、「買った」! 私は戦慄した。
 わかささんと三度目に顔を合わせた日、家に泊めてやることにしたのは恐らく失敗だった。最終的にダンボール箱を家に置く許可を与えてしまったことも同じく失敗で、なんなら上京初日にわかささんを拾ったことだって失敗だったのだろう。判断ミスなんて可愛い言葉で表していいものじゃない。
 布団まで買ってこられたら追い出そうにも追い出せないじゃないか。それに女の家に上がり込むまでの手際が良すぎていて引く。他の人の家にもこうやって上がり込んできたんだろう。顔がいいだけのアル中のくせにモテるんだからムカつく。
 私はこの人が家に来ていることが大家さんやお隣さんや近所の人々にバレないかヒヤヒヤしてるっていうのに、わかささんは気楽なものだ。最近ではすっかり我が家に居着いてしまい、人の冷蔵庫に酒を溜め込んでいるし、家から職場に出勤していくこともある。
 泊まる場所として我が家を提供するうえで「誰にも見られないように気を付けること」と厳命してはいるが、朝のわかささんはともかく、夕方や夜の酔っている時のわかささんにその約束を守ることが出来ているのかどうかは怪しいところだ。ゴミ捨て場で寝ることはなくなったものの、うちに来るまでにどこかで何かやらかしていないとは限らない。そしてそれを誰かしらに目撃されていないという保証もない。
 多分私が諦めるしかないのだろうが、ギリギリまで諦めたくなくてしつこいぐらいにわかささんに「誰にも見られませんでしたよね?」と聞く日々だ。わかささんの「多分見られてない」という曖昧な返事が不安を加速させていっている。
 昨晩も私の質問に「平気だろ、多分」と謎に自信のある顔と声で答えていたわかささんは、布団の上で手足を丸めてスヤスヤと寝ている。現在午前九時。明日から大学がある私はこの何日かは起床時間を早めに調整しているが、そうでなければまだ寝ていたであろう時間だ。わかささんに関しても言わずもがな、普段がどうかは分からないがうちに泊まると日付が変わっても酒を飲んでいることがほとんどなので、いつもこれぐらいまでは熟睡である。
 朝食の食パンにマーマレードジャムを塗りたくりながら、扇風機の向きを軽く調整してわかささんに風が当たるようにしてあげる。こうして扇風機の風向きを調整してあげることにも、家に人がいることにも慣れてきてしまった。両親にも叔母夫婦にも言えない秘密の関係だなんて全くもって嬉しくない。ゴミ捨て場で酔っ払いを拾ったところから色々と間違えっぱなしだ。
 もしかしたら私にはヒモを飼う才能があるのかもしれない。自分の朝食は買ってきてくれるし、酒もツマミも自分で用意するし、お金をせびられたこともないから、ヒモとは言わないと思うけど。
 扇風機の風が直接当たるから肌寒く感じたのかサマーブランケットを引き寄せているわかささんを眺めながら、風量を調整してあげるかと食パンを皿に置いて手をそちらに伸ばす。そのタイミングで、わかささんの携帯が鳴った。思わず扇風機に伸ばしていた手を引っ込める。
 初期設定から変更していないと思われる携帯の着信音は二十秒ほど続き、切れた。そしてまた間髪入れずに鳴り出す。これは多分わかささんを起こした方がいいやつ。
 煩わしそうに寝返りを打って頭までサマーブランケットで覆ってしまったわかささんに膝歩きで近付いて、肩と思われるあたりを掴んで揺さぶる。「電話鳴ってる」と声を掛けてもわかささんは低い声で唸るだけで起きてこようとはしなかった。それどころかサマーブランケットの中で更に体を丸めて強引に睡眠を続行させようとしている。
 そうしている間にも電話は切れて鳴ってを繰り返し続け、私はだんだんと不安になってきていた。壁にかけたカレンダーを見る。意味もなく寝る前にその日の日付にバツ印を付けているカレンダーを見れば、今日が平日だと言うことは一目瞭然だった。いつもなら「明日仕事だるい」とか言うのに昨日は言わなかったから休みなんだと思ってたけど、もしかして今日仕事だったんじゃないの……?
 「ねえ」とさっきよりも強めに体を揺さぶったが、わかささんはもう唸ることもしなかった。携帯からは相変わらず着信音が鳴っている。
 ……これが職場からの電話だったとしたら、出ないのはまずいんじゃないだろうか。いや、絶対まずい。酒に酔うと女の人の家に上がり込むか他人の家のゴミ捨て場で爆睡するかのアル中を雇ってくれる職場はきっと貴重なはずだ。もしその職場をクビになってこの人が無職になったら……。
 最悪と言っても過言では無い事態を想像してごくりと唾を飲む。そのまま恐る恐る携帯に手を伸ばし、誰から電話が掛かってきているのかを確認する。『ベンケイ』さんだって。強そうな名前だ。

「ねえわかささん、ベンケイさんって人から電話来てるよ。職場の人じゃないの? 出ないでいいの?」
「んー……」
「……代わりに出ますからね」
「んー……」

 ダメだ、まともな返事が返ってこない。サマーブランケットの中でまんじゅうみたいになっちゃってる。
 携帯を開き、ちょっと震える手で操作して着信に応じる。パスワードが設定されていなくて助かった。いや、全然助かってない。そもそも私がこんなことしてあげる必要だってないじゃないか。でも私が昨日の夜ちゃんと「明日仕事なの?」って聞いておけば……。
 そんなことを考えながらバクバクと跳ね回る胸をぎゅっと抑え、「あの」と声を上げる。あの、わかささんの職場の方でしょうか……。

「おいワカ!」
「ひぃっ」

 ギャンと響いた怒鳴り声に思わず悲鳴をあげて、耳から携帯を離す。し、心臓止まるかと思った。だいぶ話したのにそれでも聞こえてくる「お前どこで何やってんだ!」という怒声に半泣きになりながら「わかささん起きてよ」と呼んだのだが、まんじゅうはまんじゅうのまま。
 仕方なくもう一度耳に携帯を当てて、震える声のまま「あの!」と切り出した。どうして私がこんなことをしなくちゃいけないんだろう。泣きそう。

「あの、あの、今わかささんは寝てて……」
「……ワカの新しい女か?」
「そういうのではないです。ゴミ捨て場で拾っただけで……申し遅れました、私、吉野と言います。わかささんの職場の方でしょうか?」
「ああ。悪いんだが、ワカと電話変わってくれるか」
「はい」

 最初っから怒鳴ってきたから怖い人かと思ったが、案外話が通じそうな人で良かった。私がわかささんじゃないと分かった途端に怒鳴るのもやめてくれたし、私が電話に出た時に「ワカの新しい女か?」という言葉が出てきたあたり、多分いつもわかささんに振り回されているんだろう。
 耳と肩で携帯を挟み、安堵とちょっとの怒りを込めてわかささんの肩を叩く。わかささんは僅かに身動ぎして、サマーブランケットから顔だけ出した。

「ベンケイさんって人から電話来てるよ。代わってって」
「あと五分……」
「ダメだよそんなの……起きなさいってば」

 煩わしそうにサマーブランケットの中に引っ込んでいったわかささんからブランケットを取り上げようと奮闘していると、電話の向こう側でベンケイさんが深く重いため息をついた。思わずビクッと震えて背を伸ばす。

「起きねえか」
「はい……あの、今日お仕事の日でしたか?」
「いや、仕事は午後からだけど、ジムの鍵そいつに預けててよ。オレが家に入れねえ」

 哀愁漂う声で「鍵一緒だから……」と続けたベンケイさんに「あー……」と微妙な声が出た。それは困るやつだ。何度も電話を掛けもするし、出るまで掛け続けようとも思うだろう。
 視線を再び形成されたまんじゅうからちゃぶ台に移し、それっぼい鍵がないかどうか探す。これはこの部屋の鍵だし、こっちは形的にバイクのキーっぽいし……じゃあこれかこれのどっちかかな。
 つまみの袋のゴミと中身の入っていない缶ビールと一緒にちゃぶ台の上に置かれていた銀色の鍵をふたつとも手に取る。どちらかがわかささんの家の鍵で、もう片方がジムの鍵なはず。

「わかささん、起きて。起きなきゃ家から追い出しますよ。追い出してあなたの荷物ごとそこら辺に捨てます」
「……あと十分」
「勝手に時間伸ばさないの。あの、ベンケイさん、この人叩き起こしてそっちに行かせます。カフェとか入って待っててくれますか。お代もこの人に払わせるので」
「おお……今までの彼女とはタイプ違うな……」
「私別にこの人の彼女じゃないんで、まあ」

 でも違うって言われるとなんかムカつくな……とよく分からないムカムカを感じながらも、電話を切ってからわかささんの背中を叩く。起きろ!
 そこまでしてようやく、「痛い」と文句を言いながらも起き上がったわかささんは、「行きゃいいんだろ、行きゃ」とぶつぶつ文句を言いながらボサボサの寝癖頭のまま部屋を出ていった。行くと決めてからは早い。そんなに早く動けるならもっと早く動いて欲しかった。
 ベンケイさんに「今家出ました」と一言ぐらいメールでも送っておくか……と手の中の携帯を開いてから、「あっ!」と声を上げて立ち上がった。これ私の携帯じゃない!
 あの人携帯置いてっちゃった。バイクのキーも置きっぱなしだし、この後ここに戻ってくるつもりなのか? でも、そうだとしても携帯は持ってった方がいいんじゃ……。
 慌てて玄関に向かってドアを開けて廊下に飛び出したが、既にわかささんはどこにもいない。手摺りから身を乗り出して道路を見下ろしても、かなり遠くの方を歩いているそれっぽい人影が見えるだけだった。歩くの早いな!
 部屋に飛び込んで、靴箱の上に置いていたウエストポーチを引っ掴む。部屋の中まで戻ってちゃぶ台の上に乗せていた自分の携帯と家の鍵をウエストポーチに突っ込んで、食べ掛けの食パンを口に詰めた。
 タンスにしまうのが面倒でベッドの片隅に積んでいた洗濯済みのTシャツとスキニーに着替えながら、髪を適当に手ぐしで整える。メイクはもう諦めるしかないだろう。
 脱いだスウェットをベッドに放り投げて玄関に向かおうとしたタイミングで、床に落ちていた銀色の何かを踏みそうになった。「わっ」と声を上げて飛び退く。床に落ちてるものなんてほとんど踏んだら痛いものに決まってる。
 なんだなんだとそれをつまみ上げて目の高さまで持ち上げる。銀色の鍵。それもふたつ。……さっきまでちゃぶ台に乗ってた、推定わかささんの家の鍵とジムの鍵と思われるふたつの鍵だ。

「全部忘れてるじゃん!」

 何しに行ったの、あの人は!
 ギャンと叫んで家を飛び出す。長い一日の始まりである。

よつぼしいつか