八話

 ベンケイさん、すごくいい人だった。顔は怖いけど。
 わかささんたちの職場の最寄り駅で別れる直前に「今日は暑いから飲み物かなんか買え」とベンケイさんが渡してきた千円札で買ったサイダーを飲みながら、スーパーから家までの道を歩く。そういうところも気付いて気にかけることができるのは大人っぽくてかっこいい。顔の怖さもかっこよさの一部としていいんじゃないかな、と全体的に評価がプラスになりつつある。
 今日何となく話した感じだとわかささんの昔からの友達らしいけど、同い年の社会人でも全然違うなあと思った。二人とも大人っぽさはあるけど、大人っぽさの種類が微妙に違う気がする。わかささんはなんというか……うん。なんかね。
 でも、一ヶ月ぐらいの付き合いだけど、あの人のあの人らしさはなんとなく分かってきた気がする。多分ああいう適当さもあの人らしさってやつで、これまであの人を拾ってきた女の人たちもそういうところに惹かれていたのだろう。ダメ男が好きな女の人も世の中にはいる。
 周りから見たら私もその「ダメ男が好きな女」に見えかねないことには抗議したいが、わかささんが家に来なくなるまでは汚名返上は難しそうだ。私から追い出すことは、多分もうない。
 サイダーを飲みながらゆっくり歩く。途中のスーパーで買い物をするか迷ったけど、面倒だったからやめた。どうせ今日はわかささんももう来ないだろうから家でゆっくりしよう。あの人が二日連続で家に泊まりに来たことはないのだ。
 正午に近付いてきたこともあって日差しが眩しく、ただ歩いているだけでも喉が渇く。サイダー買って良かった。ベンケイさんのお金だけど。
 のんびり歩いていると、そのうちアパートが見えてきた。駅から程近い距離は歩きやすくて、やっぱりこのアバートを選んで正解だったと自分の判断を褒めたくなる。ゴミ捨て場で変な人を拾っちゃったけど、それを差し引いてもプラスになるぐらい立地がいい。
 今は誰も落ちていないゴミ捨て場を一瞥してから、一階にまとめて設置されているポストを開いて中身を確認した。ガスの引き落としの通知が一枚と、高校の同窓会のお知らせが一枚。裏返して差出人の名前を確認すれば、唯一引っ越し先の住所を教えた友人からだった。つまりは極々限られたメンバーしか来ない内々の同窓会ってことか、ともう一度ハガキをひっくり返して内容を改めて確認する。うーん、不参加で。
 山田の奴も、私がこういう集まりに参加するタイプじゃないのは知ってるくせによく送ってくるものだ。数ヶ月会っていない友人を思い出して少し笑いながら、ポストを閉めた。絶対行かない。
 そうと決めたらさっさと不参加に丸をつけて送り返そうと階段に足をかけた時に、一階の一番奥の部屋のドアが開いて人が顔を出した。階段に足をかけたままそちらを見る。大家さんだ。
 ぺこっと頭を下げて挨拶をすれば、大家さんもにこやかに挨拶を返してくれたあとで、その笑顔が曇って手招きされた。どうしたんだろうか。階段に乗せていた足を地面に下ろしてそちらに向かう。

「なにかありました? あ、今朝うるさかったですかね」

 そう言えばドタバタしてたんだったと謝れば、大家さんは慌てたように首と手を横に振って「違うのよ」と言った。違うんだ。じゃあ何?
 それ以上思い当たる節がない私が首を傾げれば、大家さんはぎゅっと眉根に皺を寄せて辺りをチラチラと見渡す。そして更に首を傾げた私に「あのね」と切り出した。

「吉野ちゃん、彼氏出来た?」
「いいえ、出来てませんけど」

 まず出会いがないですと笑えば、大家さんはもっと難しい顔になって「でも……」と続けた。

「吉野ちゃんの出すゴミ、お酒の缶とか瓶とかがすごく多いでしょ? そういうの見るのダメだって分かってるんだけど、この一ヶ月ですごく増えたから……」
「あ、ああ……」

 気分を悪くしたらごめんね、と謝った大家さんに「いえ……」と言葉少なく答えて、視線を斜め上に向ける。ゴミのことまで考えてなかった……。
 私が飲んでるんです、と誤魔化すことができる量じゃないし、そもそも私は未成年。飲酒喫煙は両親に通報される可能性が高い。それは嫌だ。
 頬が引き攣らないように気を付けて笑顔を作りながら言い訳の言葉を探す。彼氏は否定しちゃったからもう使えない。叔母夫婦はあんまりお酒は飲まないからそれもダメ。私が飲んだっていうのは一番アウト。本当のことを言うのはありえない。
 ……そうだ、友達。友達が来てた。これだ、これしかない。
 意気込んでスッと息を吸い、口を開く。

「それはそのっ、ともっ」
「それにね、お向かいの奥さんが二回の端の部屋に例の酔っ払いが入っていくのを見たって言ってて……どっちの端だったのって確認したんだけど……」
「……」
「あ、ごめんね。話遮っちゃった。……えーっと、あの人、吉野ちゃんの友達なの?」
「……はい」

 見られてんじゃん、馬鹿!
 そう衝動的に怒鳴りたくなりながらも、私は仕方なく頷いた。今更否定できないし、否定してももっと面倒なことになるのが目に見えている。
 大家さんは心配してる顔だったけど、「そっか……」という言葉のトーンからして絶対に引いてたと思う。どうしてくれるんだよ本当に。


 +


 とにかくなんでもいいからわかささんに文句を言いたかった。出来ることならもっと強めに何回も叩いてやりたかった。
 だけど大家さんと別れて家に入ってすぐ、怒りの連絡をしてやろうと思って気付いたのだ。
 私、わかささんの連絡先を知らない。メールアドレスどころか電話番号さえ聞いていなかった。それどころかあの人の家がどこにあるかも分からないし、職場の場所もなんとなくしか分からないし、なんなら苗字さえ分からない。
 今更ながらにようやくそのことに気付いて玄関で頭を抱えた。何も知らないにしたって限度があるだろう。家に上げてるんだから、何かあった時のためにもせめて苗字と連絡先ぐらいは聞いておくべきだった。次会う時に絶対に聞かなきゃ。
 自分の迂闊さに嫌気を感じながらも、靴を脱いで部屋に上がる。そうしてふと、「次会う時」のことをあまりにも普通に考えている自分を見つけた。
 心臓が嫌な跳ね方をして、どっと汗が滲む。思わず足を止めて壁にもたれかかり、片手に持っていたサイダーのペットボトルを床に落とした。そのままずるずる壁を伝って床に座り込んで頭を抱え、ため息ともなんとも言えない吐息を吐き出す。
 これ、ダメなんじゃないだろうか。このままじゃ私はダメなんじゃないのか。
 微かな頭痛を感じながらも、どこから自分がダメになっていたのか考えてみる。わかささんが布団を持って家に来たのを受け入れてしまった時。あのダンボール箱を家に置くことを許した時。ゴミ捨て場で落ちているのを見掛けるのは二回目なのに懲りずにわかささんを拾ってしまった時。
 この部屋に、凍り付いたままで終わるべきだったこの心に、私以外の誰かのスペースを作ってしまったその瞬間。それはきっと、あの人の涙を見てその寝言を聞いてしまったあの夜だ。
 つまり最初からダメだったということ? 変な笑いが浮かぶ。全部捨てるために東京に戻ってきたのに、その初日からダメになっていたっていうならどうしようもないじゃないか。
 失意にも似た何かで胸が満たされていく。息を吸うことも吐くことも上手に出来なくなるような、暗くて重くて冷たい感情。この二年半私を掴んで離さない、終わりのない痛み。
 上京初日からやり直せればいいけど、それは無理な話だ。人生は誰にだって平等にひとつきりの一度きり。人は昨日には帰れない。一足飛びに明日に行けないように。
 私しかいない静かで狭くて生温いこの部屋で、今は心臓の音だけがうるさい。耳を塞いだって慌ただしい鼓動の音が消えてくれない。
 人生は誰にだって平等にひとつだけなのに、命は決して平等に誰しもに与えられるものじゃない。私みたいなろくでなしのところにいつまでも残って、本当に生きるべきだった人のところからは簡単に奪われる。そんなのおかしいじゃないか。
 気付けば窓の外から夕日が差し込んでいた。何時間こうしていたんだろうか。飲んだ記憶はないが空になったペットボトルを見下ろしてから、柔くて淡い茜色へと視線を移す。部屋の半分が暖かい色へと染まるこの時間が好きだった。この時間は私に残された数少ないよすがだった。
 座り込んだままぼんやりと暮れなずむ空を眺めていると、唐突にインターホンが鳴らされた。大家さんかお隣さんか。思い出のように暖かな空を眺めながら考える。
 もしかしたら「友達は選びなよ」とか言われるのかも。私はきっとそれに曖昧に微笑むのだ。「友達じゃないんです」とは言えないから。
 そんなことを考えていれば、またインターホンが鳴らされる。それも無視していればもう一度インターホンが鳴らされて、「いねーの?」と男の声が聞こえてきた。
 ドッと心臓が跳ねて、視線がふらりとドアの方に向く。いつもこんな時間に来ないじゃんと悪態を着きたかったが、そんな言葉は口から出てこなかった。鼻の奥がツンとする。ああ、おかしい。泣きそうだ。涙なんて出てこないものだと思っていたのに。
 何も言っていないし物音も立てていないのに私がいると確信しているのか、「飯買ってきたんだけど」とドアの外から声が続いた。なんで今日に限って、と言いたかった。そういうんじゃないでしょ、私たち。
 「帰って」と言おうと開いた口から震える吐息がこぼれ落ちて、ドアがぼんやりと滲んでいく。何も言わない私に痺れを切らしたのか「寝てんの?」という言葉の後に半分回ったドアノブに慌てて「入ってこないで」と言ったけど、それはもう涙声だった。間髪入れずにドアノブが最後まで回されて、扉が開かれる。
 ぼんやりと滲んだ視界の中、わかささんと目が合ったことが分かった。

「……なんかあったか?」
「なんにも」
「なんもねーのに泣かねーだろ」

 ドアを開いたまま、わかささんは玄関にしゃがみ込んで私と視線を合わせる。香ばしい匂いのするビニール袋が床に置かれる音。朝見たのとは違う、白っぽいキラキラの金髪が夕日を反射して眩しい。遮るものも何もなく私たちを照らす茜色が、悲しい。
 一度口を開いてしまったせいで涙が止まらなくなって、もう一度何かを言おうとしたら嗚咽がこぼれそうだった。私たちを照らす茜色を遮るようにして両手で顔を覆って泣きじゃくる。
 自分じゃ制御出来ない感情で胸の中がぐちゃぐちゃにされていくのが嫌だった。嫌なのに涙が止められなくて、止めようと思えば思うほど余計に溢れてきて手も顔も全部ぐちゃぐちゃになっていく。
 遠慮がちに頭に置かれた手が髪を梳くように頭を撫でていく。次第にそれが乱雑なものになって、やがてその手は背中に回されてあやすように背を叩かれた。それやめてと言いたかったのに、余計に涙が出てきて何も言えない。
 いつもの酒臭さの代わりにカラーリング剤の匂いと、シャンプーの匂いと、微かな汗の匂いが全部混ざりあった変な香りがした。買ってきたって言う夕飯は多分焼き鳥。その全部の匂いがぐちゃぐちゃになって、私の部屋に溶け合っていく。熱い手のひらが背を撫でる度に、私一人で終わるはずだった部屋を私以外の誰かの気配が満たしていく。
 顔を覆っていた両手を外して、わかささんの服の胸のあたりを掴んだ。中途半端に開いたドアから差し込む優しい茜色は、きっとすぐに真っ暗な夜の色へと変わる。夏の夜は短い。だけどそれでも夕方はすぐに終わってしまう。何度だって私はこの茜色とお別れをしなくてはいけない。私が生きている限りは永遠に、お別れをし続けなくてはならない。
 再び溢れ出した涙が服を濡らしても文句のひとつも言わずに、わかささんは私を抱き締め続けた。

よつぼしいつか