二十八日目(裏)

 肩より少し先まで伸びた黒髪が風に揺れていた。何度か振り返ってこちらに手を振って笑っていた女は、すぐに人混みに紛れて見えなくなる。
 手を振られる度に律儀に振り返し、その姿が見えなくなってからもずっと道の先を見ていた隣の男──ワカを見下ろせば、じとりと半目で見つめ返された。

「……なんだよ」
「別に?」
「なんか文句あんのかよ」

 舌打ちと共に放たれた蹴りが尻に当たり、思わずそこを押さえたオレを無視してワカは踵を返して歩き出す。その足取りには一切迷いがなく、シラフだからなのかかなりスピードが早い。大股で何歩か進んですぐに追いついたが、ワカはこちらを振り返りはしなかった。

 正直な話、電話の最中に思わず言ってしまった「今までの女とはタイプが違う」という一言は、実際に対面してみてより強固な印象になった。本人は「彼女じゃないので」と切り捨てて終わりにしていたが、それでもこれまでにワカが選んで傍に置いてきた女とは何もかもが違う。

 吉野と名乗った女曰くゴミ捨て場に落ちていたワカを拾ったらしいが、これまでにもそのパターンは何度かあった。そしてそのパターンでは必ず拾われたワカと拾った女とは一夜限りの体の関係を持ち、特に二回目はなく縁はそこで切れる。知りたくもないのに付き合いが長くなるにつれ自然と察してしまった友人の女性関係の緩さの一例だ。

 しかし今回はそうではなかったらしい。ワカは吉野の家に最早自らの意思で通っている。そして吉野本人の言葉通りに二人は付き合っていないし、恐らく体の関係もない。プラトニックなお付き合い、というやつですらないわけだ。


 目線よりもいくらか下の位置にあるワカのつむじを見下ろす。どんな女だって労せずに手に入れてきた男が、たった一人の女子大生に手を焼いている。足繁くその家に通い、食べているものをちまちま一口分けてもらって、夜中には寝ぼけたふりをしてベッドに潜り込み。しかしその全てが「こういう人だから」の一言で処理されて全くもって意識されずに終わっているのは、友人としてなんとなく面白かった。

 視線に勘づいたのか、ワカは軽くこちらを振り返って目が合うなり舌打ちしてきた。ニヤケていたかもしれない。まあ面白いんだから仕方ないことだ。
 ごほんとひとつ咳払いをしてから「どこが気に入ったんだ」と聞いてみた。恋バナなんてするような仲ではないが、気にはなる。

「はあ?」
「これまでは年上で余裕のありそうな女とばっかり付き合ってたろ。あの子はそういうタイプには見えなかった」
「ああ……なんか見てて不安になんだよ、アイツ」

 それは「気に入った」ではなく「気になった」では。

 そう思っている間にもまた前を向いてどんどん歩いていくワカは「朝昼晩全部ジャム塗っただけの食パンで済ませてんだぞ」と呟いた。

「炊飯器も買ったはいいけど一回も使ってねーっつってたし、冷蔵庫なんてジャムと牛乳しか入ってねーんだからな。オレがいても普通に風呂入るし、堂々と寝落ちするし……」

 ……文句に見せ掛けた惚気かもしれない。

「上京初日に荷物運んでたトラックが全部燃えたらしいんだけど、それも『まあ仕方ない』だってよ。なんつーのかな……自分のことは全部どうでも良さそう? っつーか……」

 話の流れが変わってきたな、と思いつつ、聞いたのは自分なので黙って話を聞く。今日会っただけでは決してそうは見えなかったが、かなり独特な女らしい。確かに普通の女はゴミ捨て場に落ちている酔っ払いを拾うこともしなければ、その酔っ払いに自由に家に入る許可を与えたりもしないだろうが。

 話を聞く限りでは「懐が広い」と表現するには適当で、ワカが言う通り「自分のことはどうでもいい」と思っていそうだ。余計にワカのこれまでの彼女とはタイプが違う。彼女たちは皆自己主張が強く、自分を少しでもよく見せようと必死だった。
 その点、あの吉野という女はそこまで自分を気にしていないのかもしれない。今日だってワカとオレのためにとほとんど寝起きのような格好で走って家を出たようだった。ワカの奢りだと分かっていていくつもスイーツを頼んでいたが、その度に許可を取ってはいたし、遠慮がちなのだろうか。

 一度会っただけの女に関してそんなことを考えていれば、言いたいことは言い終わったのか、結論のようにワカは一言呟いた。

「放っといたらいつか死にそうで目ェ離せねえ」

 ……なるほど。

「恋だな」
「あー、マジでそうなのか……?」
「そうだろ。これまでのパターンとはかなり違うが」
「違いすぎるだろ」

 これまでの恋愛遍歴の奔放さには自覚があるらしい。困ったように頭を搔いたワカは、「恋か……」とぼやきながら少しだけ歩くペースを緩めた。見るからに困惑している。正直面白い。
 浮かびそうになる笑いをまた咳払いで誤魔化して、「ひとまず今日の礼でも連絡しとけ」とそれっぼいことを言っておく。ワカは「あー」と言った後に、ふと足を止めた。

「オレ、アイツの連絡先まだ聞けてねえんだった」
「……それはマズイ」
「マズイか」
「かなりマズイ」

 見つめ合って頷き合い、再び歩き出した後に友人は「今日聞くか」とぽつりと呟いていた。今日も家に押し掛けるつもりのようだ。どうやら本気で恋をしているらしい。

よつぼしいつか