センチメンタルと生



 耳を劈く蝉の大合唱に、どこぞのクソボーカルが重なる。
全くもって、暑苦しい。

 どうせ同じ教室で赤点補習を受けることになるだろう、このクソ暑い中でも通常運転の男の姿を思い出し、舌打ちをひとつ響かせる。

 あの教師は、俺に死ねと言っているのかもしれない。
酷暑という概念を全く知らないボーカルと同じ教室にいるなど、地獄と何も変わらねえ。いっそ地獄の方がまだマシなんじゃねえか?

 こう暑いと、書きかけのスコアすら捗らない。
苛々と校門を潜ろうとした俺の背後を、急速に風が吹き抜ける。
ついでに、気の抜けるベルの音も一緒だ。

「やあやあ少年。辛気くっさい顔してるね」
「うるせえクソ見習い。つかそのチャリどっから持ってきやがった」
「一真くんからパクっ……じゃない、丁重にお借りしてきたんだよ、うん」

 フェアエプのギターのキレた顔が脳裏に浮かんだ気がするが、別にどうでもいい。
どうせ大目玉と説教を食らうのは、目の前で制服姿で百均のダサいグラサンを額に押し上げるという似合わねえ格好をしている見習いであって、俺じゃない。

 むしろ、俺やボーカルが赤点補習を受けている姿を尻目に、ひとりちゃっかり赤点回避しやがった見習いに、ざまあみろといった気分すら抱く。

「つか、フェアエプのギターからチャリパクって何の用だよ。テメェ
赤点補習無かっただろうが」
「赤点補習に引っかかった哀れなバンドマン達に同情して、ついでに図書館で本を借りに来たんだよ」
「そうかよ。用件終わったら帰れ」
「えっ、良いの?」

 チャリのハンドルに顎を置いてニヤニヤと笑う見習いを、言いたいことがあるなら早く吐けと言外に込めて睨みつける。
見習いは、珍しいことに、すんなりと口を割った。

「いやあね、ちょっと事情がありまして、今私はとあるライブのチケットを持っているのよ。その数二枚。こんな馬鹿みたいに暑い中、わざわざ学校まで来て赤点補習受けてるお馬鹿さんには良い知らせでしょ?」
「うぜぇ」
「相変わらず手厳しいギタリストで。……で、どうする?」
「決まってんだろ。行く」
「赤点補習は?」
「サボっても小言が増えるだけだろ」
「宗介らしいや」

 ハンドルに寄りかかっていた背筋をぐいと大きく逸らして伸ばし、見習いは笑う。
そして間髪入れず、逸らした背中を戻して、親指で真っ直ぐにチャリの後ろを指した。

「乗りな。先生に見つかる前に」
「テメェ、行けんのかよ」
「そりゃあ私だって、誰かさんが大好きなもやしよりは強い女ですし」
「もやしを馬鹿にするんじゃねえ。テメェよりもやしのが何倍もすげえに決まってんだろ」
「人をもやしと比べないでくれない?」

 馬鹿みてえな軽口を叩きあって、ママチャリの荷台に跨る。
大した厚みも重みも無い鞄は、カゴに放り込んだ。

「ブレイストン‪α‬、はっしーん」
「あ? テメェ、フェアエプのギターなんかのチャリで惑星破壊規模の化け物と渡り合えると思ってんのかよ」
「ギター侍なら化け物くらい一刀両断でしょ。知らないけど」

 見習いが立ち漕ぎでペダルを踏み込んで、陽炎が立ち込めるアスファルトの上を走り出す。
溶けそうに暑いが、そんなことも言っていられねえと見習いの腰に手を回す。
夏服のシャツは、いっそ眩しいくらいに白くて、手を回すことも躊躇いそうになった。
見習いの腰は、熱に焼かれて、ただ熱かった。

「つかこのチャリどこまで行くんだよ」
「チャリじゃないよ、ブレイストン‪‪α‬。ブレイストンZの亜種だよ」
「舐めてんのかよ。こんなクソ遅え鈍間チャリが宇宙を救うブレイストン‪Zの亜種な訳ねえだろ。俺は絶対に認めねえ」
「はいはい、水戸でゲイ水戸でゲイ」

 ふらふらと蛇行する鈍行チャリよりは、多分自分で歩いた方がよっぽど速い。
それでもこいつを置いて歩き出さないのは、この時間を失うことが惜しいと、僅かながらも思っているからかもしれない。

「今ね、私達の楽園に向かってまーす」
「楽園? 極楽浄土か?」
「宗介はママチャリで行ける極楽浄土って行きたいと思う?」
「思う訳ねえだろ」
「同感。まあそんな訳で、極楽浄土ではないよ。三途の川はそろそろ近いけど」

 学校の近所に住んでるばあさんが、打ち水をしながら、ろくでもない会話に花を咲かせる俺達の背中を見送る。

 いつかは、俺達もああなるんだろうか。
束の間の、線香花火みてえな青春を謳歌する誰かを、羨望と嫉妬を含んだ視線で見るしか出来ない、そんな『大人』に。
夏は、クソ暑くて、全てのものが煩くて、生の匂いがこれでもかと漂っている季節だ。
そのくせ、ふとした瞬間に、そいつは死と退廃の気配をまとって、俺の脚に噛み付いて離れない。

 多分そいつは、センチメンタルやら、サウダージやらと言われる類のものなんだろう。

「で、結局どこに行くんだよ」
「だーかーらー、楽園! BLASTがいつもお世話になってる楽園なんてひとつだけでしょうが」
「知らねえな」
「エデンだよ、エデン! マスターが聞いたら泣くよ」
「ハゲの涙なんて見てえか、お前」
「いや、全然」

 そんな鬱陶しい感情に苛まれすぎないで済むのは、多分、この騒がしいアホが、感傷に浸る時間すら与えてはくれないから。

 今度の曲は、夏を書こうと思った。
夏の、暗くて深い感傷とセンチメンタルとサウダージと死と退廃と、ついでに生。
今日の思い出があれば、そんなものを描いた曲ですらも、爽やかで、ロックで、そんなものに昇華できる気がした。

「宗介、足が死にそう! 漕ぐの代わってよ」
「あ? 宇宙を救う任務をそんな簡単に投げ出すのかよ」
「一真くんのチャリには宇宙を救うスペックなんてありませんー」
「テメェが言い出したんだろ」

 だが実際、見習いに任せておいたらいつまで経ってもエデンになんて着かないだろう。
諦めて荷台から降りれば、見習いもすぐさまサドルから降りて、運転手が交代する。

 ひとりの時より重いペダルを強く踏み込めば、荷台から速いと歓声を上げる見習いの声が聞こえた。
制服越しに伝わる見習いは、やっぱり熱かった。

 俺にまとわりつく暑苦しい気温と熱苦しい体温は、風を切って進むチャリの上で、風に吹かれて千切れていく。
いっそ心地良いとすら思えて、俺は口元を緩ませる。

「さあ、暑さにやられて作曲詰んでる唯我独尊ギタリストの為に、楽園でひと涼みと洒落こみますか!」
「漕いでるのは俺だろうが」

 いつか。
いつか、俺達は大人になって、こんな馬鹿みてえに過ごした毎日が、ただの思い出になるんだと思う。

 その時が来たら、俺はきっと、今日より馬鹿みてえなことをして、馬鹿みてえに笑い合うのだろう。
ただ、今を謳歌する誰かの後ろ姿を、指をくわえて見てるだけの毎日なんて、死んでも御免だ。
俺は、こんな毎日に飽きるまで、こんな日々を送っていたい。

 俺の腹に回された見習いの手を、指先で軽く弾く。
すぐさま飛んでくる、キャンキャンと騒がしい騒音に反論を繰り返して、チャリは進む。

 向かう先は、俺達の楽園。
俺達が全身全霊で生きて、全身全霊で叫ぶ、そんな楽園だ。