私は異物

目を開けたら、優しそうな女の人が見下ろしていた。どういうことだ。その日は私の誕生日だった。まあ、今も私の誕生日になるのだが。やだな、とうとう三十代も折り返しだよ何て思いながらいつものように起きて会社に行く予定が、何故ベットに寝っ転がって、あーだのうーだの、母音しか話せない状態になっているのか。そんな私の混乱を他所に、母親だと思われる女性は額にキスをして、ぷにぷにと頬をつまむ。くすぐる指が気持ちよくて、無意識に笑ってしまう。それを見た女の人が、溢れんばかりの笑顔を浮かべた。そして愛おしそうに名前を呼んだ。

「依ちゃん」

そうか、私は依というのか。三十代半ばまで生きた途端赤ん坊に逆戻りなんて、誰がそんな展開を期待しただろうか。

人生は時に、驚くべき事象が起こり得る。

***

びっくりな転生を自覚してから15年。なんだかんだ成長し、それなりにうまいこと周りに溶け込んで来た。何せ2度目の学生生活である。成績もそれなりに良く、前世とは比べ物にならないほど前途有望な才女に成り得た。まあ、前世の反省を生かしてちゃんと勉強もしたんだが。そして不思議なことだが、成長するにつれ、前世の記憶は少しずつ靄がかかり、思い出せないことが多くなった。新しい人生を生きて行くためには必要なことかもしれないが、前の両親や友人を忘れてしまうのは哀しくもあった。そして、そういうときは決まって最後に前世の夢を見る。目を開けると泣いていて、何を見ていたのか、どんな夢だったかは分からない。でも何かを忘れたことだけは確かで、ぽっかりとした虚無感に、また涙が溢れた。そんなことを繰り返して、私は二度目の人生を生きている。

「…ご飯は炊いてあるから、よそって食べてね、か。はいはーい」

書き置きに返事と可愛いマスコットを書く。台所に向かうと、ラップに包まれた一人分のおかずとお味噌汁が置いてあった。手慣れた動作でそれらをレンジに入れて、あたためのスタートを押す。軽快な音楽とともに、中の円盤が回り始める。

すくすくと成長する私はあまり手がかからなかったのだろう。おかげで母親は職場に復帰し、今も共働きである。因みにどこかの研究員らしいが、詳しく聞いたことはない。こうして1人で食卓を囲むことには慣れた。前はもっと暖かい家庭だったと思うけど、最近ではリビングの気温は下がり続けている。それでも今生の両親も優しく私の成長を見守ってくれていることは確かだ。

そんな極々平和な日常も、ひょんなことから道を外れることがある。これは昔からだけど、どうにも私は人に話しかけられやすい質らしい。学校へ行く途中、道に迷ったおばあさんに話しかけられた。話を聞いても支離滅裂な話をするので、これは私の手にはおえない。きっと認知症の人だと思い交番まで送って行った。完全に遅刻ではあったが、これも人助けだ。常日頃、困っている人には優しくしなさいという両親の教えもあり、放置するのは気が引けたのだが。

「いやぁ、君にはいつも助けられる!有難う!」

「いえ。学校にはいつも通りお巡りさんから連絡してくれるんですよね」

うんうん、と頷く彼は嬉しそうだ。それゃそうだろう。私のおかげでこの交番の評価は高い。最早馴染みとなった交番とお巡りさんとの光景だ。お婆さんはやはり捜索願が出てた認知症の方だった。警視庁から各拠点に通達が下りたところで私が彼女をつれて現れたらしい。こうやって感謝されるのは何度目だろう。

「そんな君にお願いがあるんだ」

「…激しく聞きたくないです」

にこにこしながらいうお巡りさんに不吉な予感しかしない。私の話など聞いてないのか、彼は交番の奥から小さい女の子を連れて来た。手には何か紙袋を持ち、くりくりした猫目の女の子はキッと自分の背中を押すお巡りさんを睨みつけていた。随分威勢のいい子である。

「この子も迷子らしくてね。俺が何を聞いても話してくれなくて…」

行き先も探し人も言わず、ずっと唇を噛んで下を向く彼女にお巡りさんもお手上げらしい。名前も教えてくれないのか、ボクはどこから来たの?と問いかけている。ボクって呼びかけてるけど、その子女の子だよ。仕方がないので地面に膝をついて、その子と視線を合わせる。

「可愛い貴女のお名前は?」

お姉さんに教えて欲しいな、とできるだけ優しく話しかける。ちらりと、翡翠色の瞳がこちらを向いた。