メレンゲで掬えるから

その人と会ったのは、マスターから店舗を引き継ぎ、喫茶店を再開してから間も無くの頃だった。導線の確保や客足、そして自分のテンポを掴むため、週に3日のペースで店を開けていたのだが、その時に編集者とともに来店したのが、かの有名小説家である工藤優作さんである。後々聞いたことだが、締め切り間近なのに展開が思い付かず、編集者と打ち合わせがてらぷらぷら街を歩いていたその時、たまたま偶然この喫茶店の看板が目に止まったらしい。彼曰く、"gatto errante"という店名に興味を持ったそうな。

カランカラン、と少し古風なドアベルが来客を告げる。カウンターを拭いてた手を止めてドアへと視線を向けると、何処かで見た顔の男の人が立っていた。この人誰だっけと思いつつ、エプロンで手を拭きながら、いらっしゃいませ、と告げる。

「おや、可愛らしい店員さんだね」

「有難うございます。何名様ですか?」

「2名だ。できれば余り人が通らない席をお願いしたい」

「分かりました。こちらへどうぞ」

店内で唯一の個室へ案内する。基本的にカウンターとそこから見えるソファ席なのだが、個人的な趣味全開で隠れ家席を作ってみた。ここは店の入り口からも見えにくい場所であり、仕事をする人には中々好評の席である。奥にあるからといって別にトイレに近いわけでもない。店内改装時に出来たデッドスペースを活用しているだけである。

「ご注文が決まりましたら、備え付けのベルでお知らせください」

「お勧めはあるかい?」

「先生、締め切りが…!」

「まぁ待ちなさい。焦ってもいい話は浮かばないものさ」

泣きそうなスーツの正反対にのんびりと構えて見える優しそうな男性。先生と話という単語に、あ、この人有名な作家さんだ!とピンときた。しかも担当者は半泣きだけど大丈夫なの?こんなところで、手ぶらでお茶してていいの?

「お好きな豆があればそちらで淹れますが…なければ独断と偏見でご用意します」

「ははっ。では君の独断に任せよう」

面白そうだと笑った工藤氏。担当者は頭を抱えてしまった。締め切り前といえどきっと彼らは気分転換できているわけだし、リラックスして仕事に取り組んでもらいたい。やはり飲みたい豆で飲んでもらおうと、今日のオススメの豆をいくつか小鉢に乗せて彼らの前に置く。

「好きな豆を選んでください」

「おや、独断と偏見では?」

「はい。数ある中からここまで縛らせて頂きました。飲みたい豆で飲むことがこの店のコンセプトですので、ここから先はお客様任せになります」

興味深そうに豆を私を交互に眺めた工藤氏は、そのままいくつかの小鉢に入ったコーヒー豆を取り上げ、香りを嗅ぐ。あれこれ試す彼とは逆に、担当者の方は適当に、これで、と選んでいた。やっぱり作家は物事に対するこだわりが違うなぁ。最終的に選ばれた豆でそれぞれコーヒーを淹れる。残った分は試飲として、それぞれ選ばなかった方へオマケとして付けてあげた。

「ふむ、いい香りだね」

「…先生が選んだ方は確かに香りが強いですね…美味しいです」

ちなみに担当者さんが選んだものは苦味が強く、好き嫌いが分かれる味である。一口飲んだ後渋い顔をしていたのでこの人には合わなかったのだろう。工藤先生は、これもいいと普通に飲んでいた。それから数時間、この2人は席で談笑していたようだ。お会計の時、担当者さんも工藤さんも来た時よりも明るい表情をしていたら、きっと執筆もうまくまとまったのだと思う。

「美味しいコーヒーを有難う、お嬢さん」

「飲んでいただけで何よりです」

「ところで先程飲んだコーヒー豆の購入は可能かな?」

「豆の販売まではまだ広げられてなくて…タンブラーをお持ちでしたら、テイクアウトは可能です」

残念そうな工藤さんを見て申し訳なくなった。豆の販売はまだまだコスト面から見ても、暫く先になりそうである。販売も考えるとその量も考えて豆の仕入れを行わないといけないのだが、ある程度リピーターがつくまでは必要量を把握できないため、敬遠しているのが現状だ。

「そうか。では、先ほどの豆でテイクアウトをお願いしよう。タンブラーは店内で売っているようだしね」

棚に飾ってあったタンブラーを指さしながらそう言ってくれた。おお、まじか。まさかの初見でそこまで気に入ってくれるとは。マスターの教えを忠実に守ってよかった。何色がいいか尋ねれば、アイボリーを選んでくれた。彼曰く、その色なら奥さんと一緒に使えるからだとか。ナイトバロンの愛妻家ぶりは書店ファンからうわさに聞いていたものの、聞かされるとは思っていなかった。ごちそうさまです。テイクアウト用のコーヒーと甘いものは好きか不明だが、コーヒー受けを奥様の分も入れて差し上げると満面の笑みを返された。

「ここは私の贔屓になりそうだ」

「有難うございます。またのお越しをお待ちしています」

本当に贔屓にしてくれるかは別にして、満足してくれたのならそれでよし。二人の背中を見送って、午後の仕込みにとりかかった。

余談だが、あの後おいしいコーヒーのお礼だといってナイトバロンシリーズの新刊を発売前に持ってきてくれた。もうヤダイケメンか。嬉しさのあまりサインまで強請ってしまったが、気前よく私個人用とお店用で2冊もくれた。まじ神対応だわ。しかも、この店を本に登場させていいかと打診されたんだが、勿論承諾一択だ。即答で是非と答えると笑われてしまった。

それからも工藤さんはちょこちょここの店に訪れるようになり、不動の常連として定着することになる。とはいっても不定休のため何度か無駄足を踏ませてしまったが。ニューヨークで活動するようになった今では年賀状やメールのやり取りはもちろん、日本に帰国したときはほぼ毎回顔を見せてくれる。

「それで今後の展開なんだが」

「あ、本で読みたいのでネタバレは遠慮願います」

「…依くんは本当にぶれないようだね」

意味深に笑う工藤さんに首をかしげつつ、彼が態々ニューヨークから持ち込んだ豆でコーヒーを淹れる。最近ハマっているらしい。基本店への持ち込みは硬くお断りしているのだが、工藤さんは毎回いいものを紹介してくれるのでこの範囲ではない。今回もやはりいい豆だった。あ、ちなみに彼はこの豆の美味しい淹れ方が知りたいようで、また研究しておきますと答えると嬉しそうに笑うので断りきれない。細々と続いている交流だけれど、今後もこの縁を大切にしたいと切に思った。