我々は理性という権利を与えられている

「…無いわ、これは無い」

諸伏さんとの無理矢理な共同生活が始まって数日。既に彼からは遠慮の二文字が消えつつある。食品棚はいつの間にか持ち込まれた酒類でいっぱいになっているし、リビングのソファーは彼の根城と化したようで、自分なりに寝やすいように色々工夫がされていた。確かに空き部屋を片付けない私も悪いけど、リビングを占拠されるとは思ってなかった。ちょっと、いや、だいぶ邪魔だ。それにソファーは布団一式揃うまでの繋ぎだったはずだが、せっかく購入したそれらは使われることなく部屋の隅に追いやられている。まあ、そこまでは百歩譲って許すことにしよう。だけど、私だってどうしても許せないことがある。それはね、諸伏さん。今のこの状況だよ。しまった、コタツで寝ちゃったと目を開けて見たら硬い胸板。胸板?寝ぼけ眼が一気に覚醒し、同時に脳が現在の状況について情報を処理。

「寄るな!変態!」

腰に回された手を摘み、思いっきりベッドロックをかました。因みに私と諸伏さんはそれなりに身長差があるから、当たったのは彼の胸部。でもそれなりに威力があったんだろう、食らった彼はぐっと顔を歪めて咳き込んだ。ダメージ指数はちゃんと計算してるよ。昨日はこたつで酒盛りしながら寝てしまったので、この状況は少なからず不可抗力かもしれないが、そこは公安の腕の見せ所だろう。なぜ私の横に体を横たえて、剰え抱きしめてるような形勢になっているのか。全く油断も隙もない。

「…うわ、酷え。傷付いたわ」

「おかしいでしょ、昨日は対角線上にいたじゃん。なんで私の腰抱いてんの」

「えー…風邪引かないようにって言う優しさなのになー」

「要らんわ!」

頭を掻きながら溜息を吐く諸伏さんだが、溜息を吐きたいきたいのは私の方であり、添い寝は彼を匿う上での契約に含まれていない。まあ、同じ屋根の下に男女が2人住んでいたとして、何も起こらないなんてことはほとんどないとしてもだ。恋だの愛だのにうつつを抜かすほど暇ではなかろう。

あんた今お尋ね者なんだよ、分かってる?シャーッとノラ猫よろしく威嚇する私に彼は困ったように肩を竦めたが、震えた携帯に救われたとばかりにベランダへ出て行った。

***

「潜伏先では元気にやっているか?」

「まあ上々だ。本人の人が良いのか腹括ったのか上手く潜り込めてるさ」

ガラス越しに依がテキパキと掃除する様子を見ながら、電話から聞こえてくる男の声に苦笑しつつ情報交換をする。組織内では赤井がうまく立ち回ってくれたようで、NOCである事が露呈した己は身元不明、潜入元不明のまま死亡ということで処理されている。詳細はさておき、遺体もろともライが粛清したことになっているようだ。あのビルにはある程度自分の血糊を残して来たから、公安の調査でも自分の死亡説がまことしやかに囁かれる筈だ。幸いにも、同じ公安から潜入しているバーボンには裏切り者の疑いはかけられておらず、それどころか赤井が手を下したことを聞き何かと突っかかってくるらしい。敵を騙すならまず味方からというが、一本気が強いバーボンにはあまりいい方法ではないように思えるが致し方ない。それによって赤井の気苦労が増えることを懸念しつつ、今は自分ができることをやるしかないと改めて決意した。

「悪いな」

「気にするな。お前を敵に回したくはないし、こちらとしてもゼロとパイプができたことは大きい。根回しは任せておけ」

「本当、お前ってタダじゃ起きないよなぁ。俺を始末したことで更に上に行けるだろ」

「褒め言葉として取っておこう。相手の素性は一応白だ。お前が遅れをとるとは思わんが、気を抜くなよ」

「分かってるさ」

互いの近状を把握し通話を終え、諸伏はタバコに火をつけた。因みに今持ってる携帯は己のものではない。己の携帯はあの日、死んだように見せるため血の海に壊して置いて来た。これからは公衆電話を使っての生活になるなあと思っていたところに、必要になるだろうからと依が渡してくれたものだ。その先を読んでいたような馴れた動作に疑いを持たなかったわけではない。聞けばカフェ経営をしているため、従業員が増えた時用にと準備していたものだったらしい。因みに従業員には自分の携帯があるからと断られてしまったため、用意したものの出番がなかったそうだ。その後赤井の仲間だという人間を通して彼に連絡先を伝え、今に至る。

「まさか、なぁ…」

赤井の仲間に依のことを聞いても情報は得られなかったことから、彼女は本当に一般人であるようだ。しかし一般人らしからぬ部分もあることは確か。おいおい調べてみる必要はありそうだ。

「パンドラの匣じゃなきゃいいんだけどな」

ふーっと吐き出された白煙が、心配事を抱える諸伏をあざ笑うかのように漂い、風に消された。