月が出ている。まんまるで、青みを帯びた月が。格子窓から見るあらたかなほどのそれは、目を閉じてもまぶたの裏に鮮やかな円を成す。眩しくて冷たくて、けれど泰然たる熱を放つ月白は、まるで及川みたいだった。木格子を握って濃藍の空を見上げる。静やかに身を貫くひかりから目が離せなかった。


「……なあ、前に及川がさ」


「……何だい」


 後ろから母ちゃん(くそババア)が気のない相槌を打つ。きっとこちらを見もせず、煙管片手に金勘定でもしているのだろう。


「俺は十六夜みたいだって言ったんだ。十五夜と何が違うんだ?あいつ、たまによくわかんねえこと言うからめんどくせえ」


 十五夜は月見をするのだと花巻がいつも団子を作るから、それを食べる日だと思っている。十五夜だけでなくて、満月の度に団子を食えばいいのに。いつだったかそう言うと松川に笑われた。更に言えば本当は団子よりもエビがよかったのだけど、余計に笑われそうで言葉を飲み込んだのを今でも覚えている。何だか、月が団子に見えてきた。


「お前にはまだわからないかもしれないねえ。あれはとんだ変わり者だから。そのうち嫌でもわかるだろうよ。なに、気に病むことはないさね、お前は、恐ろしく大事にされてるよ」


 かつんと灰を落とす音が響く。珍しく耳に届いた甲高い笑い声に、木格子を握る指がぴくりと反応した。その声に振り返ると、母ちゃん(くそババア)はやっぱり赤い唇を引き上げて笑っている。いままでに金勘定以外で笑うことが何度あっただろうか。母ちゃんはくそババアなのだけれど、道ゆく男がべっぴんだと声をかける程度には美しい女の姿を保っていた。随分昔の及川を知っているであろうことを考えると、実際はかなりのくそババアなはずである。ただ、歳は恐ろしくて聞けない。蜘蛛の姿も恐ろしくて直視できない。猫の本能で牙を剥いて狩りをするなど、母ちゃん(くそババア)相手にはとてもできることではなかった。虫は平気でも女郎蜘蛛は例外。欠片も勝てる気がしない。始まる前から負け戦だとわかっている恐怖の女郎蜘蛛との対決、そんなことよりもずっと気になること。それは自分の背格好が、人間で言うところの大人になるのは一体いつなのだろうかという点について。まさかこのままというわけではないだろうな。見た目の成長は人それぞれ、妖怪それぞれだとわかっているけれど、少しばかり不安になってきた。そんなはずはないとふるふるかぶりを振ってから、無実のまるい月を見上げねめつける。いつまでもちびのままだと思うなよ!及川が、あの眇めた目で、けれどやさしく、ふうっと笑ったような気がした。


「大事にされてるのはわかってる。あいつうぜえし。けど考えがわかんねえのは腹立つ」


 松川や花巻と話していてもそう、結びの言葉はいつも「腹立つ」である。子供扱いも半人前扱いも、意地悪されるのも甘やかされるのも、そして意図のわからない甘言も、どれもこれも腹が立つ。及川から与えられるそれらは別に嫌いなわけではない。ただ腹が立つだけで。そんな自分を見て皆が呆れたみたいに笑うものだから、余計に腹を立ててしまうのだけど。


「お前のことに関してはわかりやすいと思うんだけどねえ。見てるこっちの肝が冷えるよ。早くそのちっこい心の臓と向き合ってみな。そうしたら立派な一人前だ」


「……意味わかんねえけど、一応覚えとく」


 年を取ってくると誰もが回りくどくなるのだろうか。及川とか母ちゃん(くそババア)とか、あと及川とか及川とか。もどかしいほどに、明快な答えはいつももらえない。なおも小さく笑う音を背に感じた。せっかくの月を紗で覆うみたいに薄雲が広がり、少しだけその輝きが翳る。何とはなしに思う、早くその隠したひかりを返せと。どこか苛立ちにも似た感情の意味は、今の岩泉にはよくわからなかったけれども。


「ああ、ちょっと花巻のところに行って団子をもらっておいで。お前は月より団子だろう?」


「俺だって食うことばっかりじゃねえよ。あれば食うけど」


 育ち盛りなのだと主張してみても、何でもお見通しの母ちゃん(くそババア)には鼻で笑われておしまい。それに花巻の作るものは、握り飯ひとつとっても美味いのだから仕方がないだろう。特に甘味は花巻の好物でもあるらしいから、どれも喉を鳴らすほどに美味しいのだ。


「……寄り道はするんじゃないよ」


「わかってるよ!」


 つと名残惜しいような気がして、今ひと度夜空を見上げる。繻を纏ったみたいなまるいひかりは、未だ霞んでいた。返せよ、はやく。腹立つ。

 何に対しての苛つきなのかわからないまま、廊下を足早に、そうして足音を立てながら乱暴に進んでゆく。対して磨きあげられた板張りはとんとんと軽快な音を奏でた。どすどすぎしぎししないのは、果たしてこの軽い体重と体型のせいなのか。


「……だんご」


「おー、おつかいご苦労さん。持って行こうと思ってたんだよね」


 郭の奥まったところにある調理場には団子に囲まれた花巻がいて、その中でもひときわ大きくきれいに積み上げられた三方を渡される。白くてまるい、つやつやとした団子からは、仄かにあまい匂いがした。それを眉根を寄せた難しい顔で見つめていると、花巻がくすりと小さく笑う。


「どうしたの。今日はご機嫌斜めだな」


「……べつ、むぐ…」


 つるりとしているのにむっちり、そんな何かが唇に押し当てられて、それが団子だと頭で理解するより先に口を開けかぶりついた。噛んでみれば中からあふれたなめらかな餡がとろりと舌に触れる。及川の好きなこし餡だ。


「それに餡は入ってないけど、お前たちのには入れてるから。後で及川の部屋に持ってくな」


「……ん」


 口をもぐもぐさせながらこくんと頷く。やっぱり花巻の作るものは美味しくて、喉をくぐるあまさが苦い苛立ちを少しだけ和らげた。


「ほら、も一個。寄り道すんなよ?及川もババアも怖いんだから」


 もうひとつ、団子を口に突っ込まれながら、今度は曖昧に頷く。花巻に背を向け歩き始めたその足取りは、先ほどまでとは違う猫のそれ。三方を持っているからではない、心積もりあってのこと。

 足音を立てぬよう向かった先は、同じ一階にある母ちゃん(くそババア)の部屋ではなくて、いつも自分が一日を過ごす場所。及川と共に過ごす部屋。そろりと階段を上りながら咥内のしろとくろを飲み下す。

 もう何年も我慢したのだ。だったらもう少し堪えろと言われるのかもしれないけれど。

 だって、月が。あの、ひかりが。隠れてしまったから。返してもらえないから。

 何の言い訳にもなり得ないことを胸に、二階の突き当たり、及川と自分の部屋を目指す。及川と自分だけのそこを。

 及川は岩泉を十六夜みたいだと言った。だったら十五夜は及川ではないかといつも思うのだ。けれどそこでもっとよく考えればよかったのかもしれない。心の半分をどこかに置いてきたみたいな半月も、鋭いやいばみたいな三日月も、無彩色である黒に飲み込まれたみたいな新月も、全部、ぜんぶ、及川なのだと。きらきら煌めく大切なたからものは、時としてそのひかり方も、かたちすらをも変える、恐ろしくて強かな榛色なのだと。

 もっと、よく考えればよかったのだ。






 


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