01

 
 昨日、前髪を切った。
 今日の朝は「あ〜。前髪切ったね!」と友人から褒めそやされ、私なりには充実した一日である。――充実、なんて大それたことを。と思うかもしれないが、まあ大抵の女子高校生なんてそんなものだ。

 新しくしたものを似合っているねと言われれば。
 好きな人に一つ挨拶を返されれば。
 いつも売り切れの自販機で、ココア缶の一つでも買えれば。

 ――それは間違いなく、充実した一日なのだ。
 どれだけ授業がつまらなかろうと、帰宅してから何の予定もなかろうと。日本に暮らす重大の凡そは、きっと空っぽの一日に少しの刺激を受けて過ごしているのだろう。
 教室の大きな窓から青空を見上げた。暖かな陽気に、つい欠伸が零れる。新しく買ったシャーペン、グリップの感触がどうにもしっくりとこない。指先で弄りながらもう一度欠伸をした瞬間に、急に教室の前方から怒声が飛んだ。
 
「おい、何弄ってる! 寄越しなさい」

 ついビクっと肩を揺らして顔を上げたが、どうやら教師が注意していたのは私の斜め後ろに座る男子生徒だったらしい。その言い分では携帯でも弄っていたのだろう。
 ――ビックリさせんなよ。
 小さくため息をついた。多分他の生徒もその怒声に飛び起きたらしく、クラス全体にぴりっとした空気が漂う。世界史の教師は特に校則に厳しいと有名だから、きっと今日は反省文だろうなあと教師の背を追って振り向いた。

「……誰だっけ」

 ぽつりと、独りごちた。
 クラスメイトであることは確かだが、名前と容姿が妙に一致しなかった。下を向いていて分かりづらいけれど、まあ別に特徴のある生徒ではない。顔つきはマスクをしていた所為であまり窺えなかった。

 まあ、別に良いか。
 没収されていく携帯を見送って、腰を伸ばしながら前方の黒板を見た。黒板には白い雑な文字で『ノーベル賞』と記されている。カタカナが羅列しているだけで、眠気が誘われてきた。

「というわけで、千九百一年、ノーベル賞がアルフレッド・ノーベルの遺言から始まった。物理学、文学、科学――」

 あ、駄目だ。もう分からん。
 一度はその話を噛み砕いてみようとしたものの、なんとなく聞いた事ある、くらいにしか理解できない。でも叱られたのがさっきの今であったから、頬杖をついて一応その話を聞いておいた。

「有名なのはアインシュタインとかな。名前くらいは聞いた事あるだろう。天才と言われた彼だが――」

 と、教師がウンチクを語り始めたところで、終業のチャイムが部屋に響いた。小さく肩が叩かれて、すぐ後ろに座っていた友人が「カラオケいこ」と笑った。私もそれに笑い返してから、あ、と踏みとどまる。

「……ごめん。そういえば日直だった。戸締りしてからでも良い?」
「そっか。良いよ、校門で待ってる」

 ごめんね、と謝ると、新しいリップを下ろしたばかりの彼女は、その小ぶりな口を微笑ませた。荷物を殆ど私物しかないスクールバックに詰め込んで、皆が席を離れる中日直の仕事をこなす。仕事――といっても、窓を閉めて黒板を消して、花瓶の水――は別に変えなくても良いか。最後に日誌を書いて職員室に提出しにいくだけだ。
 
 職員室は隣の棟の二階にある。外で部活に励む生徒たちの声を聞きながら階段を降りていると、ちょうど先ほどの男子生徒とすれ違った。やっぱり、名前は思い出せない。けれど一応クラスメイトだし、黙ってすれ違うのもなあ、と声を掛けたのだ。
「反省文だった?」
 尋ねると、彼は驚いたようにこちらを振り返った。
 私は怪訝に、彼を見つめ返す。いや、そんな反応しなくとも。やや間を空けて、マスクの中で篭った声が、もごっと話し始めた。階段の踊り場に響く彼の声は、思いのほか大人っぽい声色をしていた。

「いや、注意だけだったよ。白木さんは、日直?」
「うん。もう終わりだけどね……運良かったね。アイツ、厳しいじゃん? 話も意味わからんし」
「そうかな、オレは結構好きだけど。あの先生の授業」

 ――変わった子だ。
 世界史の教師は、授業の最中にウンチクを垂れ流すこともあるが、何よりスカートの長さも頭髪も逐一文句を垂れるので、女生徒の中では嫌われがちだった。というか、先ほども怒られたばかりだろうに。

「すごいね……」
「……話を聞くの好きだから」
「ふ、さっき携帯いじってたくせに〜」

 笑ったら、彼もマスクから上の目元だけをきゅっと細めて笑った。その後も私が職員室に行くのに何故かついてきて、本当にちょっとだけ変わった子だと思った。だけど、別に気持ち悪いとか嫌だとは思わなかった。

 同い年の男子より幾分か落ち着いた喋り方をする子で、話していると落ち着いたのもある。ここまで話してしまうと、尚更名前だとかは聞きづらくて、私は迷いながらも、後で友人に聞けば良いかと考えていた。

「へえ〜、歴史とか好きなんだ。さっきもセンセーが言ってたよね。アインシュタイン……?」
「人生とは自転車のようなものだ――」
「うん?」
「アインシュタインの名言さ。倒れないようにするには、ずっと走ってないといけないってこと」

 へえ、と相槌を打つ。
 つまり、人生はずっと走りっぱなしってこと? なんだか有名なアーティストの歌詞みたいで、オシャレだと思う。彼は鞄から取り出したグレーのマフラーを巻いて、小さく咳き込んだ。


「――君は、どう思う?」


 首を傾けると、さらりと青年の黒髪が揺れる。
 私は驚いて、「ええ」と声を零してから口籠った。そんな小難しいことを言われても、私頭悪いし。ぽりぽりと眉間を掻いて、少し唸った。

「まあ、そうだよね。ラン&ガンみたいな……? でも、ケッコー疲れそうかも」
「でも走らないと倒れちゃうんだったら?」
「倒れても良いんじゃないの。自転車ならまた起こせば良いじゃん」

 私だって、自転車で何回か転んだことあるし。とかすり傷の残った膝を見せると、青年は声を上げて笑った。お腹を抱えて一通り笑うと、彼はそっと階段を一段上がる。元からスラっと背の高い青年だったけれど、目線が上になると逆光で表情がよく窺えなかった。

「確かに、走りっぱなしじゃあ疲れちゃうよな」
「……うん? えっと、歴史の話だよね?」
「そうだよ。これは――遠い世界の話だ」

 表情は窺えなかったが、多分、笑っていたと思う。少なくともその声色は、なんだか嬉しいことがあったような――そんな心地の良い声をしていた。

 そして、彼の腕が私のほうへ伸びる。成長期らしい、大きな手のひらが、そっと私の校章を押し出した。
「へ?」
 間抜けな声が漏れる。触らないでよ! なんて反発する間もなくて、その手のひらが私をぐっと押し出した。足場を失い、浮遊感が下腹部に巡る。毎日手間を掛けてブローしているストレートヘアーが、さらっと視界を遮った。

 げ、と思い必死に手を伸ばすが、手すりにすら届かないまま、私は階段を真っ逆さまに落ちる。

 しかし、いつまでたっても後頭部にやってくるはずの刺激は訪れなかった。必死に両手で後頭部をカバーしても事足りるくらいの時間が流れているのに。
 まさか、本当は即死で走馬灯とかを見ているパターンだったりするのか。と周囲を確認してみるが、永遠に階段の景色が続くだけだ。

 ずっと風を切っている所為か寒くなってきたし、これは不味いのでは。
 よく見るホラー映画とかで、死の間際を永遠にリピートするなんて演出も見たことがある。嫌だ、頼むから殺すなら一思いにしてくれ。悪霊となってすごくグロテスクに生きたくない!
 きっと果てには呪いの屋敷とかに住みついて、入って来た人を一人ずつ凄惨な殺し方で始末することになるんだ。実は悲しい死に際でとか語られたり、生きている魂を羨んで人形とかに宿ったりするんだ。い、嫌すぎる。

「じょ、成仏させて!」

 恐らく、一時間ほどは落ち続けたのではないだろうか。
 これはもう神頼みだと、生前行った善行――何かあったっけ――を思い出しながら叫んだ瞬間、ようやくのこと体が何かに打ち付けられた。固かったが、床ではなかった。

 
 一瞬息ができなくなって、目を開けようとした時、そこか地上ではないと分かる。衣服は重たく、何より呼吸ができない。じわじわと指先からその冷たさが伝わってくる。
 ――水?
 息を飲み込んで咳き込むと、耳元にごぼごぼっと気泡が浮かぶ音が響いた。
 それが苦しくて尚更水を飲みこんでしまう。塩辛い、海水だ。確かにこれといった善行すら積まなかったが、悪行もしていないつもりだった。死体に鞭打つとはこのことじゃないか。


「――い、おい。君、大丈夫か?」


 こんなことなら、花瓶の水換えるんだった。そうしたら花から恩返しとかあったかもしれないのに。捨て猫も(会ったことないけど……)たくさん保護してやれば良かった。

「おい!」

 バンッ
 背中に鋭い痛みが走る。ごほっと咳き込むのと同時に、口から何かが零れる感覚。同時に頭がスッキリとしてきて、私は何度も咽込んだ。ひゅっと吸い込んだ空気。体がそれを求めているように何度も何度も呼吸を繰り返した。 

「げほっ、は、ハァ……ハァー……」
「慌てなくて良いから、ゆっくり息をしなさい。吸って、吐いて」

 誰だろう。男の人の声だ。
 目にかかった髪を、恐らくその人だろう指先が払った。衣服だろうか、布が私の目元を拭って、ようやく視界が戻る。

 ――満月だった。

 そう、勘違いしてしまった。実際の月は私の背後で細く鋭くその場を照らしていたのだけど、その男の輝くブロンドが、私にそうであると勘違いをさせた。ぽた、と滴る一滴まで、なぜだかその日は光り輝いて見えたのだ。



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Shhh...