02
薄い瞼の皮膚を切り裂くように、光が訪れる。
鈍く唸りながら、ごろりと寝返りを打った。外は肌寒くて、まだ起きるには早いに違いない。清潔な香りのする布団を手繰り寄せて潜れば、一瞬でその温もりが消え去った。足先から冷えだす寒さに、ぶるっと体が震えて、緩慢に目が開く。
「起きて」
そう促されても、体が言うことを聞かないのだから仕方ない。
もう一度蹲ろうとしたら、ぐっと肩を掴まれて体を引き起こされた。ぼやける視界を擦って、私は枕もとを弄る。金髪――? 外国人だろうか。ていうか、なんで外人が私の部屋にいるんだ。
「……眼鏡」
ぼそりとぼやくと、目の前にいる外国人は小さくため息をついた。そして「少し待ってて」と言い残し、一度姿を消した。
その間に私は頭を押さえて部屋を見渡していた。コンタクトも眼鏡もなくて視界はぼやけていたが、多分、私の部屋ではない。白を基調にした、飾り気のない部屋。どうしてこんな部屋に、と思い出そうとして、ようやくのこと、昨日のことが頭を過ぎった。
そうだ、海。
海に落ちて――何で? あの青年に押されて、でも落ちたのは階段じゃなくて海で。疑問符ばかりが頭に浮かび、何度か首を傾けていたら、外国人が部屋に戻って来た。多分、私を海から助けてくれた人と同じだ。その印象深い金色の髪だけは、薄っすらとした記憶でも思い出せた。
「どうぞ」
そう差し出された眼鏡を掛けると、度が強くてクラっとした。眉間を押さえながら、しかし何とかその表情を把握することはできる。日本人にしては暗い小麦色の肌と、ブロンド。瞳は綺麗なアイスグレーに染まっている。しかし、どこか顔つきは外国というより日本らしい、やや幼いような風貌をしていた。
じっとその風貌を見つめていると、目の前の男は少しだけ口元を綻ばせる。
――今、笑う要素あった?
ついパチパチと瞬いたら、男はクスクスと笑い声を殺すようにしていた。
「ふ、すみません。すごい目つきだったから」
「えっ。嘘……恥ずかしい」
くくっと腹を抱えながら、彼が笑う。私も思春期をそれなりに通っている年頃なので、そこそこの年齢の男に笑われるのは恥ずかしかった。眼鏡をやや鼻のほうにズラして、ぼやけた視界と交差するように彼の方を見た。
「えっと、昨日は……その、ありがとうございました……?」
「ああ、いえ……。とんでもない」
「私、溺れてたんですかね……」
「溺れてましたねえ」
尋ねれば、彼もニコニコとしながら頷いた。それ笑う所じゃなくないか。
とはいえ、確かに彼に助けてもらった覚えはある。なるべくしっかりと頭を下げたら、彼はもう一度穏やかに首を振った。
男の部屋かと思ったのが、どうやらその海辺にあったデイリーマンションらしく、彼もまた短期的な仕事のためにここを借りていたのだそうだ。女の子なのに勝手に連れ込んで申し訳ないと、お人好しそうな顔で謝っていた。
たぶん、服も着替えさせてくれたのだろうが、そこには敢えて触れてこないあたりも紳士的な人だと印象づく。なんというか、お兄さんらしい、と言うのだろうか。同級生や先輩でもないような、優しく頼りになる雰囲気がある男だ。私はそれにちょっとだけ運命のようなものを感じていた。
だって、海で溺れるところを助けられたのだ。(なんで溺れていたか分からないけど……。)
そんな逆人魚姫みたいな、中々にロマンチックな風じゃないか。少女漫画に夢のように憧れている――なんてことはないつもりだったけど、そういう意識が芽生えるのは不自然じゃない。きっと。
それに何より――。似てる。この男、安室透に。
名探偵コナンシリーズに出てくる、トリプルフェイスの公安警察! 去年の映画が格好良くて、友人と一緒にはしゃぎまわったのを覚えている。コナンの映画なら断然キッド様! と思っていた私の常識を一気にひっくり返してきたキャラクターだ。
映画を切っ掛けにアニメや漫画も読みだしてしまったし、最初は敵役として登場するのだけど、これがまたミステリアスで魅力的なのだ。
そんな安室透も、彼と同じように褐色の肌に金色の髪、アイスグレーの瞳をしていて、やや幼な顔なのもその通りだった。勿論漫画のキャラクターだから、描かれている姿はもっと鼻がツンっとしていて目が大きくて、髪の毛ももうちょっと癖があったと思うけど。
こう、きっと現実にキャラクターが飛び出てきたらこうだろうなあ、みたいな。彼はそんな風貌だったのだ。
他のキャラクターでも中々あり得ないと思うが、中々――世界を探してもここまで安室を再現してくる人間も少ないだろう。何が言いたいかと言うと、すごうく格好いい。
「どうしました? やっぱり調子が悪ければ、病院に……」
「あ、いえ! 体調は大丈夫です」
――あ、でも、警察は行った方が良いかなあ。
階段から突き落とされましたって言ったら、やっぱり大事になってしまうのだろうか。それは少し心配だと思った。あんまり警察沙汰とか、そういうの怖いし。でもあのままにしておいちゃいけないだろうし。
「なら、送りましょうか。お家まで」
「良いんですか」
車! これぞ大人の余裕という感じで、益々好感度が上がった。
制服に着替えて駐車場へ向かって、私は驚く。確か、安室透の――。キャラクターが乗っていた車と、同じ車種。同じ色。
――まさか、偶然じゃなくて、わざとキャラクターに寄せてるとか?
そうなると、ちょっとだけ引いた。
いや、だって。わざわざ同じ髪色で肌を焼いて車を買って――って、中々の変わり者じゃないか。確かに顔つきは格好いいけど。大人でそこまでするのって、もしかしてすっごいアニメオタク?
助手席に乗り込んで男を見遣ると、彼は不思議そうに私を見つめ返してきた。アニメオタクでも許せるくらい整った顔立ちをしていたので、見つめられた瞬間に思考は飛んでしまった。
住所を伝えると、彼は時折首を傾げながらナビを入れて、ハンドルを握る。暫くは無言のまま走っていたが、途中で気を遣ったのか音楽を掛けてくれた。知らない歌。女性シンガーだと思うけれど、ちょっとだけ古めかしさがある。可愛らしい恋愛ソングで、これはこれで良いなあと思った。
「これ、良い曲ですね。リストいれたいな……なんて人の歌ですか?」
尋ねると、青年はパチパチと目を瞬き、やっぱり少し首を傾げる。
「ああ、すみません。若い子だったので、知っているかと思って」
「え、そんなに有名な人? 最近K-POPしか聴かなかったから……」
「いえいえ。沖野ヨーコさんですよ、アイドルの」
アイドルにさんをつける人、初めて見た。
丁寧な人だなあと思いながら、携帯を弄って音楽アプリから歌手名を検索する。しかし一向に検索が繋がらなくて、途中で諦めた。もしかしたら、電波が悪いのかもしれない。あんまり繋げようとしていると充電が切れてしまうからやめておこう。
私が携帯をしまったのを横目で見て、男は他愛なく世間話を始めた。最近は冷えてきただの、高校は大変かだの、本当にどうでも良いようなことだ。私もそれに何となく返していたけど、思ったより彼の話し口が上手くて、自然と笑顔がこぼれた。
気づけば窓の外の街並みは、海辺から都会へと変わりつつある。
そしてその路地の一角、住宅街を抜けたところで、彼はブレーキを踏んだのだ。私は、きょとんとして男の方を見た。だって、その場所はどう見たって私の家ではなかったのだ。
「……あの」
彼がハザードを焚いてそのま停車するので、私は気まずく声を掛ける。
「たぶん、住所違うんですけど」
ナビに触れて、ちょっと良いですかと了解を取ると、男はにこやかに「どうぞ」と答えた。ぴ、ぴとナビを操作して見るが――。妙だった。住所は確かに違う。違うのだが――正しい住所など何処にもない。
住んでいる町名も番地も、いくら検索しても出てこなかった。男が最初に指定した場所は、確かに私の住む町名とは一文字違いで、この中では一番近かったかもしれない。
――ナビ、壊れてる?
「壊れてませんよ。最新モデルです」
「あ、そうですか……」
私、今声に出した?
その奇妙なナビと言い、元はと言えば急に海で溺れたことと言い。そのにこやかな表情が、急に怖くなった。ごくりと息を呑んで、自分で電車に乗ろうとドアノブに手を掛けた。――同時に、私の手首を、男の手がぐっと掴みこむ。
男は不自然までに穏やかな笑顔で「まあそう焦らず」と笑った。
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