03


「えぇ、記憶障害?」

 目の前に黄金の蜜をトロっと垂らしながら、女性が瞬いた。蜂蜜が落ちた部分のソフトクリームが、柔く溶けていく。さらにソフトクリームが溶けだした雫は、その下にあるコーンフレークへと染みわたっていった。落ち着いた照明に照らされる艶っとしたイチゴ。
 はぁ――と甘い吐息が漏れ出してしまう。私は手癖のままに携帯を取り出して写真を一枚撮り、パフェスプーンを手に取った。

「……みたいです? あ、これありがとうございます! めちゃめちゃテンション上がりました!」

 手を打って喜びながら、輝くイチゴを掬う。
「のわりに、元気そうだけど……」
 と苦笑いする女性を横目に、ブロンドの男が深刻そうに頷いた。
「本人にも自覚がないみたいで。一応気休め程度の薬は貰ったのですが、あとは本人の問題だと……」
 あの後、てっきりどこか知らぬホテルやら店やらに連れていかれるのでは。そう思ったのだが、彼が連れて行ったのは近場にあったらしい大きな病院だった。あれよあれよという間にMRI検査だとか、色々な科を連れまわされて、結局は脳外科にて診断名が下りた。外傷も血液検査も問題はないから、精神的な理由かもしれないと、年老いた医者は言っていた。

 ――精神的な理由ねえ。

 自分としてはまったくそんなつもりはなく、何なら記憶もハッキリとしているのだが、確かに男や医者にされたいくつかの質問にはまるで答えられなかった。地名だとか、会社名だとか、最近流行りのドラマやアニメとか。そんなのあった? と首を傾げるような内容ばかりだ。どこかで聞き覚えがあるような……ないような。でも、やっぱりないかも。

「そういう時って、どうするんです? 家が分からないんでしょう?」
「本当は身分証から身内に連絡したり、素性が分からないときは生活保護が適用されますが――。どうやら未成年のようですから、児童養護施設で保護するのが妥当でしょうか」

 ――児童養護施設かあ。
 私は話半分にそれを聞きながら、パフェを頬張った。ホームレスとかにならないだけ良しとしよう。施設に世話になったことはないが、きっと同い年の子も多いだろうし、仲良くなれるかも。

 にしても、ここのソフトクリーム、すごくクリーミーで美味しい。イチゴの味もクリームに負けていないし――。これは帰ったら真っ先に友人に教えてあげよう。頬をとろけさせている私に、女性店員がすっと腰を低くして話しかけてきた。

「こんにちは。私は榎本梓っていうのよ」
「こんにちは、芹那です。白木芹那」

 榎本梓――その名前が、やけに頭の隅で引っかかった。珍しい名前でもないけれど、やっぱり、聞き覚えがあるような曖昧な違和感がある。梓は微笑んで、「そう、芹那ちゃん」と私の名前を復唱した。
 末広がりの二重が、彼女の印象を気まぐれに見せている。手入れされた髪と、きめ細やかな肌。顔が近づくとほんのりと香るシャンプーの香り。アイドル――とまでは言わないけれど、それこそクラスにいたら確実にモテるだろうなあと思う。

「可愛い……」

 つい口裏を突いてでた言葉に、梓は目を丸くした。
 そして数秒後、その口元に手を当てて頬を緩めながら「やだ、もう」と顔を赤らめた。だって、養護施設に入ったらもう会えないのかもしれないし。この際だからとコンフレークを頬張り終えてから、彼女に尋ねてみる。
「だって、その肌すごく綺麗です! なんの化粧水使ってるの……私とかすごい頑張ってるんだけど、やっぱり毛穴が気になっちゃって……」
 言えば、梓は案外快く答えてくれた。聞いた事のないブランド名だったので、それを携帯のメモ帳に打ち込んでいる時、店のドアベルがカラカラと鳴る。


「おや、いらっしゃい。コナン君、蘭さん」


 ――瞬間的に、振り向いた。
 それは殆ど反射で、梓が「どうかしたの」と不思議そうに声を掛けてくれる。出迎えたのは、いつの間にかエプロンを纏った男だ。そのエプロンには『ポアロ』とコーヒーを模しあロゴが印刷されていた。
 
 ごくっと生唾を飲み込み、恐る恐る、ドアのほうに目を遣ってみる。
 出迎えられた片方は、高校生。紺色のブレザーを着た、恐らく私と同じ歳くらいの女の子だ。腰ほどまであるストレートの髪は、さらさらと白い肌を映えさせる。素直さが滲み出るような、丸っこい目つきが印象的だった。

 それだけなら、まだ偶然かもと思った。

 だが、問題はその隣にいる、小さな影だ。青いジャケット、赤い蝶ネクタイとスニーカー、幼い顔つきを誤魔化すような大きな眼鏡。
 それはあまりに、あまりにアイコン的すぎた。見た瞬間に小さく声が漏れてしまったほど、見覚えのある姿だったのだ。
 ――すっごくコナン好きな親だとか?
 普段は使わない頭がフルで回転して、その容姿を見つめ続けた。口の中にイチゴが入っていることすら忘れて、ごくっと飲み込んだ時に咽込んでしまった。

「げほっ」
「ああ、大丈夫? 待ってて、お水持ってくるから」

 梓がキッチンへ駆けていくのを見送って、私は今一度パフェの影に隠れるようにして、カウンターに座った二人の背中を覗いた。どこからどの角度で見ても、江戸川コナンと毛利蘭、その人だ。
 聞こえてくる会話まで「コナン君は何にする?」「うーん、オレンジジュース!」だなんて再現されている。
 
 榎本梓――そうだ。コナンのキャラクターだ。毛利探偵事務所の一階にある、喫茶ポアロの看板娘。道理で聞き覚えがあるはずだ。だって、何度も安室透に関係のある話で見掛けていたのだから。安室透の――安室、透の……? 待て。じゃあ安室はどこに――。


「あ、安室さん!」


 ハっとした。いるじゃないか、私が一番知っていた場所に。
 思わず大きな声を出してしまって、店の中にある視線がすべて私のほうへ集まった。

「――はい? 呼びましたか?」

 カウンターの奥でカフェオレを注ぎながら、男が振り返る。その口元には、やっぱり穏やかに笑顔が浮かんでいた。彼が――彼が、安室。安室透。ゴクリと喉を鳴らした。飲み込んだ唾は、甘かった。

 よくよく考えれば、今まで聞いた言葉が全てパズルのように嚙み合っていく。
 沖野ヨーコも、病院で聞いた地名も、すべてコナンの中で聞いた言葉だ。だから、知らないはずなのに違和感だけが残っていた。

「な、成程……?」
「どうしたの。芹那ちゃん」

 納得できるような、できないような。
 まず、どうしてコナンと同じキャラクターの名前で、コナンと同じ地名が再現されているのだろうか。私は慌てて梓に首を振ってから、改めてソフトクリームが溶け込んでいったカフェの下層に手を伸ばした。

「ああ、中までタップリ……美味しい……」
「でしょ。安室さんの自信作なのよ」
「さすが安室さん……」

 駄目だ、甘いものを食べていたらどうでも良く思えてきた。
 私にしては少し頭を使いすぎてしまった。どうせコナンのキャラクターだろうがそうじゃなかろうが、家がないことには変わりないのだし。安室が言うことには、一応暮らしに困るわけでもない。
「うわあ、中からまたイチゴでてきた……」
 うっとりとその中身を堪能していたら、コナンたちと話していた安室がコツコツと足音を鳴らしてこちらに歩み寄って来た。

 美形だ美形だとは思っていたけれど、安室だと思うと少し緊張した。私のほうに、その整った顔立ちがズイっと近づく。なんでも彼が料理を提供するレストランがテーマパークにあったとか聞いたけど、キャストと会うときもこんな気持ちなのだろうか。そりゃあ、ハマる人がいても可笑しくない。

「美味しいですか?」
「は、はい。それはもう……すごく」
「それは良かった」

 ニコニコと微笑んだ安室は、その笑顔を張り付けたまま首を小さく傾げる。

「名乗り遅れました。僕、安室透と言います」
 
 その一言に、ようやく私は自分の失言に気づく。あはは、と苦笑いして肩を竦めたら、安室も上品に笑って肩を竦めていた。先ほどまで優しい、胡散臭い、とくらいまでしか思っていなかった笑顔に威圧感が増えたのは、私の気のせいだと願いたいところだ。



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