04


 記憶喪失という診断が下され、なおかつ身よりの特定のできない場合は、仮の戸籍が登録されるらしい。何でも、その戸籍とやらがなければあらゆる福祉も受けることができない――ということで、私はそのまま安室の住む住居に連れていかれた。私が児童養護施設に入るまでの、ほんの一か月もない程度の期間だ。

 梓が女性だし自分が受け取ろうかと名乗り出てくれたものの、やんわりと断ったのは安室だった。それが意外で、私はまたもや驚いた反応をしてしまった。
 ――だって、私の知識が正しいのであれば、彼は三つの顔を忙しなく行き来する警察庁警備企画課、通称ゼロの組織員。間違いなく、自分のプライベートを微塵でも滲ませることはデメリットでしかないだろう。
 
「いえ、実は僕の隣の部屋が偶然°いていまして……。管理人の方に聞いてみたら、少しの間だったら好意で住まわせてもらえるとのことだったので」
「なるほどぉ。私の部屋もあんまり広いほうじゃないしね」
「勿論、女性にしか言いづらいことは聞いてあげてください」

 そっと背中を支えられて、私は苦笑いしながら偶然ねえ、と心の奥で呟いた。
 あの安室透が――組織の中でも有数の情報通と言われる頭脳派の男が、偶然ときた。絶対盗聴防止で二部屋借りてるんだろうな。


 そうこうして、バイトを終えた安室に連れられ、私はマンションへと足を踏み入れた。
 安室の名前を聞く前につい叫んでしまったのは失態だが――。まあ、ほら、安室に対して呼びかけたわけでもないし。それ以来言及されることもないので、気にしないことにしよう。
 安室は私にシンプルな鍵を一つ渡すと、扉を開けるように促した。言われるがままに鍵を差し込み扉を押し開ける。暗い廊下の灯りをつければ、電気は通っているらしくすぐに部屋が明るくなった。

「僕の部屋から客人用の布団を運んでくるから、ちょっと部屋を見て待ってて」

 言い残した安室に頷き、私も部屋を見て回る。
 さすがに掃除は行き届いていないのか、足を滑らせたら少しだけ埃っぽかった。寝室とリビングが分かれてい1LDK。風呂、トイレ別。仮の住まいにしては中々に贅沢である。何も置かれていないリビングの灯りをつけて窓を開けたら、ふわっと冷たい風が入り込んだ。

 おお、快適。
 冷たい風を吸い込んだ時、後ろからゴホっと咳き込む音がした。

「げほ、さすがに埃っぽいな……。すみません」
「いえ、全然。良い部屋」
「そうでしょうか」

 世辞だと思ったのか、安室が苦笑いを浮かべた。抱えた布団を部屋の隅に置くと、殺風景な部屋を見渡す。

「安室さん……は、この隣の部屋なんですよね」
「ええ、まあ。仕事もあって空けていることが多いですが」
「へえ。じゃあ暫くは安室さんがご近所さんってことかあ」

 こんな美形が朝から拝めると思えば、早起きも安いものである。
 朝の安室さんってどんな感じなんだろう。寝ぐせつくのかな、髭はえるのかな。あんまりイメージにないが、中々なレアショットな気がする。新生活に胸を躍らせていたら、安室はなんだか怪訝そうな顔をした。
 私が首を傾ぐと、それを誤魔化すように笑う。

「ずいぶん落ち着いているんだなあと思って。普通、自分が記憶障害と聞いたら焦りませんか?」
「だって、記憶障害のつもりじゃないですし……」
「なるほどね。なら、君のことを少し聞いても?」

 と、彼は畳んである布団の上に腰を下ろす。
 そして隣をぽんぽん、と手で叩いて私を招いた。それ、今晩私が寝る場所――。良いか、安室さんのお尻臭くなさそうだしね。スカートを腿の裏に沿わせるようにして座ると、彼は着こんでいたモカ色のカーディガンを脱いだ。白いハイネックは、その健康的な肌によく似合う。

「まずは、改めて。僕は安室透と言います。平凡なアルバイター……と、毛利探偵事務所の探偵助手を勤めている最中です」
「わあ、あの毛利探偵事務所の! すご〜い!」
「――……」

 穏やかな笑顔のまま沈黙を返されてしまった。演技的には悪くないと思うのだが、さすがにさっきの今すぎただろうか。ニコニコ〜と絵に描いた顔文字のような笑顔が怖いので、私は視線を逸らしながら「ああ〜」と思い出したように手を叩いた。

「もしかして、だからあんな海の近くまでお仕事に来てたんですか。探偵って大変ですね!」
「ふ……。失礼、そんなところです。君は?」

 口元から零れた笑い声。少しだけ持ち上がった口角は、その顔つきを益々幼く見せた。確か二十九歳とかだっけ。一見二十代前半にしか見えないので、アルバイターと言われても不自然じゃないのが恐ろしい。

「えっと、白木芹那。高校三年生です」
「へえ、受験生だ」
「って、これ以上あんまり紹介することないんです」

 バイトしているわけでもないし、趣味でも話そうかと思ったが、それも違うような気がする。合コンに来てるわけじゃあないのだから。

「ご両親は?」
「ウチ、シングルだったのでママだけですけど」
「成程ね。警察と裁判所に届け出ないといけないから、ここに漢字で書いてくれるかな」

 そう差し出されたボールペンとメモ帳に、母親の名前を記す。その警察って貴方でしょう〜なんて言えるわけもなく、はーいと素直に返事をした。それから一通り、改めて住所だとか、自分の生年月日だとかをメモ帳に書かされて、安室はそのメモ帳を預かる。

「了解。また何かあれば連絡します」

 そう立ち上がった場所に、ふわっと埃が舞うのが見えた。
 私はさして気にならなかったが、どうやら安室はそれが気にかかったらしい。眉を持ち上げて「掃除しないとな」と言い始めたので、私はぶんぶんと首を振った。たかが何週間でしょ、別に埃のちょっとやそっと。
 安室に全部任せて私は寝るっていうのも気まずいし、じゃあ自分でやるかと言われたら答えはノーだ。早くお風呂入って寝たい。

「まあ、何にせよちょっとずつ生活用品は必要だね」
「ああ、でも私無一文なんですが……」
「そんなことで大人に気遣いを見せるんじゃない。心配しないで、今日はもう寝なさい」

 どうやら、そのあたりのお金は安室に任せても良いようだ。
 さすが美形。颯爽と微笑んで見せるその姿も素敵です。私がご満悦に頭を下げると、彼は腰を上げた。どうやら隣の部屋に戻るようだ。

「何か困ったことがあったら呼び鈴で。多分起きてると思うんだけど……」
「ありがとうございます。私も疲れたので一晩大人しく寝てると思います」
「はは。そうだと良いね」

 踵を入れながら、安室が笑う。
 丁寧な言葉遣いだし、穏やかな笑顔をしてはいるのだけど、その笑い声だけには穏やかな印象がなかった。もっと爽やかなような、クールなような。愛想笑いじゃないのなら、嬉しいかもなあと考える。


 靴を履き終えて扉を開けると、彼は「しっかり戸締りはしてくださいね」と既に保護者のような小言を漏らした。はいはい、とにこやかに手を振れば、彼もその垂れた目つきを甘く細める。


「おやすみなさい」
「――はい。おやすみ」


 ――そう柔く手を振られて、私はぎゃっと顔を押さえた。
 安室が気にしないまま扉を閉めてくれて助かった。多分すごく、気持ち悪いくらい頬が緩んだと思う。恰好良い人間が格好良い仕草をしたら、完全に相乗効果だ。最高――写メがいくつあっても足りない。

 これは心のフィルムに焼き付けておこう。一人バスタブに湯を張りながら、ひっそりと鼻歌を歌った。その時にはまだ、彼がいくら空いているとは言え――どうして私のことを隣の部屋に置いたのかなんて、考えてもいなかった。いや、多分私だけだったら考え着くことは一生なかっただろう。



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Shhh...