05

 翌朝――。
 新聞受けに、現金三万円と彼のメモ書きがさりげなく挟まれていたことにはさすがに驚いた。メモ曰く【しばらく仕事で部屋を外すので、必要なものはこれで買ってください】とのことだったが、さすがに他人から貰った三万円だ。
 確かに、このままでは食べるものもなくて困ってしまったけれど――。いつかバイトをしたら必ず返そう。深々と三枚の札束にお辞儀をして、有難く使わせてもらおう。彼の言う仕事がどの仕事かは分からないが、部屋を外すということは組織か公安の仕事だろう。きっと忙しいに違いない。こういう時、へたに遠慮したほうが気を遣わせてしまうのを知っていた。

 
 それでも三万円だったし、安室がいつ帰ってくるかも分からなかったので、下手なことには使えない。ひとまず布団は確保できていたから、なんだかんだと言っても使うのは食だけだった。一人で過ごして、今日で四日目になる。

「学校ないと一日超暇だな〜」

 人の金で遊びまわるわけにもいかず、食べる、寝る以外はゴロゴロとして時折マンションの周りを散歩した。あまり遠くまで行くと、場所が分からなくなったときに困るので本当に見える範囲内だけだ。
 時折寄ってくる野良猫を見掛けて、猫もこんな生活をしているのかあと欠伸をしながら考えた。羨ましいような、退屈なような。いや、でも日々がこれだけゆったりとしていたらそれはそれで良いかな。

 今日の陽気はここ最近ではかなり暖かなほうで、猫も陽が当たる場所で丸い手をしまってくつろいでいる。そのすぐ傍に腰を掛けて、私も同じようの目を閉じた。ここにイヤフォンでもあったら、音楽を聴きながらきっと良い一日になる。
 

「……何してるんです?」


 風が木々を揺らす音に混ざって、覚えのある声がした。欠伸と共にゆっくり目を開けると、眉を顰めながらシャツにスラックス姿の安室が立っていた。一応羽織ったカーディガンがラフさを出しているけれど、そのパンツは映画の立ち絵でも見たことのあるグレースーツの片割れだった。公安のお勤めだったのかなあ。

「あ、お帰りなさ〜い。お金ありがとうございました」
「あれで足りましたか。思ったより帰りが遅くなってしまって……」
「全然余裕です」

 ひょい、と腰かけていた道端の花壇から降り、安室のほうへ駆け寄った。彼がもう一度確認するように「何をしていたんですか」と言うので、猫を指さした。

「日向ぼっこ。今日はあったかいから」
「……食材買って来たんです。良かったら食べますか」
「え、良いんですか! めちゃめちゃ食べます!」

 ぱちん! と勢いよく手を打ったら、心地よく眠っていた猫が鬱陶しそうに一度尻尾を振ったのが見えた。そのまま私の部屋に訪れて、電気を点ける。彼は何故か入り口で立ち尽くしていた。

「……あの、もしかしてこれしか食べてないんですか」
「これしかっていうか。女子高生はこんなもんで十分ですよ」

 その険しい視線がゴミ袋に向いているのを見て、私は笑った。確かに成人男性から見ると些か少ないだろうか。でも動かなかったからさしてお腹も空いていなかったし――。ゴミ袋を一緒に見つめながら唸ると、彼は「そうじゃなくて」と切り出した。


「あの金額で、どうしてこういったものに手を出すんですか。というか部屋の物も何一つ揃ってないし……。こんな埃っぽいまま四日間も過ごしていたと?」

 こういったもの、と指さしたのはゴミ袋の中のファストフードの袋だ。だって、安いから。一日一食それと、朝はコンビニのヨーグルト。部屋も確かに埃っぽいけど、気になるほどだろうか。ずいぶん神経質なのだなあと思う。
 どうやら表情が険しいので、素直に「すみません」と頭を下げれば、安室はフウー、と長くため息をついた。そして食材を持った袋をそこに置いて、何やらバタバタと部屋に戻った。

 その場に立つこと十分ほど。さすがに疲れてきて、私は今朝畳んだ布団の上に座っていた。日差しがほどよく窓から差し込む。気持ちいい。日当たりも良好とは、本当に良い物件だ。

 戻って来た安室は座っている私を見て、先ほどと同じように眉を顰めた。何やってるんだ、と小さく呟いたのは、遮るもののない部屋の中で私の鼓膜を震わせる。もう一度日向ぼっこですと返そうとしたら、先に手のひらを立てて拒まれた。
「結構。はあ、ほら、こっちです」
「……え、安室さんの部屋ですか!」
「男の一人暮らしなので、嫌かもしれませんが……」
 とんでもない! 寧ろ万々歳だ。
 これが貴重な安室透へのお宅訪問――。部屋とか、プライベートゾーンに踏み込ませるイメージがなかったので、ちょっとだけ意外だった。自分で言うのも何だが安室から見れば得体の知れない女だろうし。
 もしかして、先ほど席を外したのは見られて不味いものがないかチェックしていたのだろうか。急に男が泊まりにきた彼女みたい。少女漫画でしか見たことないけど。
 それを想像したら面白くて、一人で笑いを堪えながら安室の開けた玄関の中に足を踏み入れた。――その瞬間だ。急に足元に衝撃を受けて、おわっと躓き掛けた。人間ではない、甲高い声が部屋に響く。

「こら、駄目だろ……。おすわり、おすわりだ」

 安室が私に話しかけるトーンとは、少し違う声色でそう言った。ススス、とふわふわした何者かが足元から離れていく。ちょこん、とお尻を下ろしたその毛玉は、私のほうを利口に見上げて、元気にアン! と声を上げた。

「な、なにこれー! めっちゃ可愛い〜!」

 ――え!? 安室透って犬飼ってんの! あんな厳しそうな任務の中で犬飼ってんの!
 まったく知らなかった安室への新情報と共に、あまりに嬉しそうに尻尾を振る足元の毛玉君への興奮が隠せない。モフモフすぎる! モフモフ! おりゃおりゃとその頭や喉を撫でてやると、嬉しそうに頭を摺り寄せてきた。

「最高……。写真撮ろ〜、えっと」
「ハロですよ」
「は、ハロ!? それ安室さんがつけたんですか!」

 ええ、と頷く安室に私は困惑した。
 そんな、めっちゃ可愛い名前を!? あの安室がハロって名付けたの! すごい事実だ――。世紀末の発見したんじゃないか、私。
 玄関でハロのお腹をぐしぐしと撫ぜる私を横目に、安室はさっさかと奥へと上がり買いだした物の整理を始めた。私もグデグデになってしまったハロを抱きかかえて、少しだけ恐る恐るとリビングへ向かう。

 私の部屋と殆ど間取りは同じだったが、シンプルながらにきっちりと整理された部屋。良い意味では片付いているが、私が元々住んでいたマンションに比べればやや生活感に欠けるようにも思えた。
 部屋の隅にポツンと置かれたギターと、犬のケージやトイレだけが、彼の人間らしい一部として飾られている。

 腕を捲って、安室は袋から出した野菜や肉を見比べている。ハロが嬉しそうに、私の腕から飛び出して安室の足の周りをウロウロと周った。

「ハロのはまだ。後でな……」

 柔い口調で、ぽんぽんと白い頭を軽く叩く。ハロは寂しそうにキュインと鼻を鳴らして、すごすごと私のもとに帰って来た。

 その頭を撫でつけながら、私はキッチンに立つ安室をジっと見つめた。
 手慣れた様子で野菜を洗う姿だとか、冷蔵庫の中から卵を取り出したりだとか、目に付くすべてが新鮮だった。その焼き付くような視線に、安室は苦笑いしてこちらを見遣る。

「……そんなに珍しいですか」
「うん。すごく……。料理って、そんな風にするんだね」

 そう言えば、安室がキョトンと目を丸くさせる。
 その様子を見て、私はしまったと首を大きく振った。これでは誤解させてしまう。――そう思ったが、まな板を取り出して、肉をぶつ切りにしていきながら、安室は特段気に留めている様子を見せなかった。

 ちょっとだけ、ソワソワとする。別に他意があって言ったわけじゃなかった。
 先日も彼に告げた通り、私は生まれたときから母親一人の手で育てられてきた。勿論母は好きだ。優しいし、面白いし、オシャレにも詳しい。けれど、元より家事は得意でなく、ずっと仕事で忙しい人だった。
 保育園の時から夜間保育まで預けられるのは当たり前だったし、私にとってのご飯っていうのは、児童クラブのお弁当か母が置いて行ったお金で買うファストフード、購買のパン、コンビニのデザート、どうしてもお弁当がいる時だけ冷凍のオカズ。

 先にも言うが、それをどうこう言うつもりはない。
 私にとっては、ここまでしっかり育ててくれたたった一人の母親だ。――けれど、単純に感動した。世の中の人はこんな風に料理をするのだと、そう思った。

 ――包丁の音が眠くなるって、本当だ。

 とんとん、と小気味良い音を聞きながら、私はハロの頭を撫でて微笑んだ。


prev Babe! next
Shhh...