06


 鰹節の香りが部屋のなかに満ちて幾分か、お腹の鳴る音を虚しく聞きながら、ダイニングテーブルに突っ伏してハロと戯れていると、目の前にやや大き目のどんぶりが置かれた。色濃くなった香りに、くん、と勝手に鼻が動いてしまう。
 
「お待たせしました。麺類は嫌いじゃない?」
「す、好き! うわあ〜……良い匂い……」

 そのツユの色を見てうどんかと思ったが、それにしては麺が平たい。上に乗ったネギと鶏肉、それからたっぷり掛かった鰹節は、湯気を受けてしんなりと踊っていた。ごくんと喉を鳴らしていると、安室が鼻から抜けるようにフ、と笑った。

「きしめんですよ」
「へえ、キシメン……」
「うどんの親戚。さあ、伸びないうちに食べましょう」

 箸を渡されて、私がそのまま麺に箸をつけようとしたら、目の前から「いただきます」と澄んだ声がした。伸びた背筋、綺麗に指先まで合わさった手。その指先と自分の手を、交互に見つめる。
 ――いただきます、かあ。
 そんなことを聞くのも、小学校の号令以来かもしれない。でも、目の前に作ってくれた人がいるわけだし。私もそっと手をあわせて、どぎまぎしながら小さな声で「いただきます」とぼやいた。
 なんというか――そんなことをする自分への小恥ずかしさが少しあって。でも私の独り言のような言葉に対して、安室がニコリと一つ笑みを落としたのも嬉しかった。誤魔化すみたいに麺を啜って、ちょっとだけ咽た。

「ん、美味しい〜!」

 頬を押さえて、先ほどまでの羞恥心もどこへやら、私は頬をゆるゆると綻ばせた。香りからして食欲をそそられてはいたけれど、食べやすいし、麺もうどんとは違って飲み込みやすかった。もごもごと口の中をいっぱいに膨らませていたら、安室がキッチンからもう一皿何かを持ってきた。

「それは良かった。こっちは余りものですけど、良ければ一緒に」

 差し出されたお皿の上には、小さなおにぎりが乗っている。白米にノリを巻いただけのシンプルな、ただのおにぎりだ。形だけ、コンビニで売っているものの半分くらいの大きさだった。
「炭水化物と炭水化物……」
「そう言わず。僕はこっちを貰おうかな」
 と、小皿に乗った片方のおにぎりを安室が頬張る。どんぶりの中身は私の一杯よりも量が多くて、こんな綺麗な顔をしているのにやっぱり男の人なのだなあと思った。その姿を見ていたら我慢できなくて、私もそのおにぎりをパクっと一口齧ってみた。
 これが、また出汁とよく合う。ノリの塩味くらいが丁度良くて、簡単に小さな塊は胃の中に流れて行ってしまった。

「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさま」

 量は違うのに、食べ終わる時間は殆ど同じ。どちらもどんぶりの中に僅かなツユを残して、再びそっと手を合わせた。こんなにお腹がいっぱいになる感覚は久しぶりだ。動くとちょっと苦しいくらい。ウ、と軽くウエスト周りを押さえていたら、安室がまた笑った。

「ちょっと作りすぎましたか」
「いえ、ごちそうさまです……」

 めちゃめちゃ美味しかった――。
 確かに作中、喫茶店のメニューとかは作っていたけれど、こんなにも料理が上手なものなんだなあ。顔が良くて、頭も良くて料理もできるなんて、とんでもない万能モテ人間だ。どんぶりを片付けてから、ハロのエサ入れにカラカラとドライフードを用意している立ち姿を見ながら感心する。

「明日は最低限の生活用品を買いに行こうか」

 ハロの毛並みをとんとんと撫でながら、安室がそう言った。
 軽く叩くような、ポン、と撫でる可愛がり方は彼の癖らしい。確かに隣の部屋にはソファやテレビはないけれど、いくら何でもあと数週間のために買うのは勿体ない。
「あ、でも着替えは欲しいかも……」
 下着は、最初ここに着た時に近くのスーパーで買ったけれど。毎日制服で出回っていると、時折店員や巡回している警察に奇妙な目で見られることがあった。

「着替えも、洗剤も、クッションも買いましょう。あってこしたことはないので」
「えっ、いや……でも勿体なくないですか?」
「勿体なくないです。というか、僕の気が済まないので」

 なんという几帳面さ。
 しかし、隣の部屋はもとはといえば安室の部屋なので(――多分。)、あまり文句を言う筋合いもないかもしれない。にしたって、勿体ないなあ。家具はまだ使いまわせるとしても。曰く戸籍も何もない私には、彼に甘えるほか生活方法がないので、申し訳なく思いながらも頷いた。
 その時の私は、多分あまり晴れ晴れとした姿をしていなかったのだろう。
 自分でも気まずそうにしていたのは自覚があるし、安室もそれを見て何か思うところがあったのか、一度大きく咳ばらいをした。


「……全ての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」


 殆どため息を混じって、安室がそう言った。
 私はその小難しい文面に、たくさんの疑問符を飛ばしながら首を傾げた。何それ。急にツラツラと並べられても、私は何と返すのが正解なのだろうか。
「あ〜、えっとぉ」
 と言葉を選んでいたら、ハロの世話のために屈めていた腰を持ち上げて、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「日本国憲法、第二十五条。だから君が日本国民であるというのなら、それを拒まなくても良いんですよ」
「憲法……」
「はは、難しいって顔してますね」

 その通りだ。図星のままに眉を顰めていたら、安室はフフ、と上品そうに笑った。きっとそれは殆ど猫かぶりの笑い方だと、私にもよく伝わる。しかし、元より垂れていた目じりが柔く微笑む表情は、ため息がでるくらいに格好いい。

「だって難しいんだもん」
「素直でよろしい。しっかりと現代社会の授業を受けるように」
「ゲーッ、現社やだ。超嫌い」

 だって、現代社会の授業なんて聞いているだけで眠たくなるし、そのわりにテストは難しい問題ばかり出題される。きっと担当している中年の女教師が、私たちのことを嫌っているのだと思い込んでいた。
 小さく舌を出して拒んだら、彼は呆れたようにため息交じりの笑みを浮かべる。そりゃあ、私だって安室が教師だというのなら張り切りもするけれど。

「安室さんが先生してくださいよー。そしたら頑張るし」
「残念ながら、教員免許は持っていなくて」

 冗談も軽く流されたけれど、その差して気に留めていない会話が心地よく思えた。テンポも良いし、冗談には軽く返してくれるし、考え込まなくても良い会話というのはそれだけで楽しい。最近は殆ど猫が話し相手だったから、それも相まってつい舌がよく回った。
 
 他愛なく話しながら、彼が部屋の床を掃除している間、出された紅茶を飲みながら部屋を眺めていた。多分彼の個人情報となるものなんて落ちていないだろうし、恐らく荷物は寝室のほうに置かれているのだろう。先ほど見た情報以上に珍しいものはない。
 ただ、食材と一緒に買って来たらしいビールの山が私には気になった。母も、よく買ってきていたなあと懐かしかったのだ。

「安室さんもビール飲むの?」
「じゃなきゃ買ってこないよ」
「分からないじゃん。彼女のためかもしれないでしょ」

 いない、と分かっていたけれど、悪戯っぽく言って見せれば安室は肩を竦めて「だったら良かったんだけど」と言った。彼女かあ。昔はいたんだろうか。いただろうなあ――格好いいし。学校に残してきた憧れの先輩を思い出しながら、彼の過去の姿を想像してウットリとした。

「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「だって意外だもん。安室さんって言ったら、ウィスキーとか飲んでるイメージだし」
「……そう」

 オシャレそうだから〜、と笑いながら、内心少しだけ焦った。ぼんやりとしていて、つい口を滑らせかけたのには自覚がある。ニコニコっとした表情をしている時の安室は、ちょっとだけ苦手だ。その頭の中の小難しい感情が分かりづらいから。

 ――まあ、別に私が彼のことを知っていようが知っていなかろうが、大した問題ではないはずだ。どうせあと数週間で関りのなくなる、少し仲の良い他人なのだから。今はあと僅かの時間、この美形を思うままに堪能するとしよう。


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