01

 ――世の中を回すのは、知恵と金である。

 いつか私を置いて出ていった、歳の離れた姉の格言。今になって思う。ごもっともだ。私は頭を抱えて、たった一杯のウィスキーソーダ割りを震える手で呷った。
 ロクでもない人生であったという自覚はある。しかし、まさかこんなにも――こんなにも、金がなくなることがあるなんて! ミイラ取りがミイラだなんてよくもまあ言ったものだ。先ほど私を酔い潰した男のせいで、全財産がパアである。実に一千万――一千万円が、パア……。

「ううっ……」

 考えただけで眩暈がする。私には今握っているグラスぶんの金を払うことすらできないのだ。しかし、握ってしまったものは飲むしかない。せめてここの勘定だけでも何とかしなければ。否、それより今日の宿代だろうか――。

 家賃、生活費、活動資金の借金――諸々。兎に角金がなければやっていけない。畜生、この野郎! カウンターにうつ伏せになっていた時、不機嫌そうな女が私に声を掛けた。私は機嫌悪く振り返る。

「……ちょっと、アンタよ。アンタ」
「はあ……なんですか」
「なんですかって……ハァ、依頼人の顔くらい覚えておいてほしいけど?」

 私はグラスを片手に思い切り眉間に皺を寄せる。見覚えはない。二十代半ばごろ、アジア系の女だ。恐らく中国か韓国あたりか――その見分けはつかなかったが、たっぷりとした黒髪と切れ長な目つきをしていた。ゴールドのチャイナ風のミニドレスから、健康的な肌色の腿が覗いている。

「あなたでしょう、ブロンド碧眼の赤いジャケット。他にいないもの」
「へぇ……」

 確かに私は染髪ではあるもののブリーチ毛で、赤いライダースを羽織っているし、祖父がヨーロッパ人なのでほんの僅かに日系の中に外国の血が混ざっている。といっても、祖父から受け継いだのは精々グレーがかったこの青い瞳だけである。

 周囲を見渡すと、彼女の言う通り他にその条件に該当するらしい女は存在しない。酔っ払いの頭ではむやみやたらに反論するのも面倒で、私は眠気に耐えながら曖昧に相槌を打った。

「それで……報酬の話をしたいんだけど」
「報酬?」
「仕事の報酬よ。こっちが提示した金額、忘れてないでしょうね」

 私がポカンと口を開いて間抜け面を晒していたら、女は大きくため息をついてピンっと三の指を立てて見せた。「百?」ついそう口走ったら、女はその気の強そうな太い眉を吊り上げ歯を剥く。

「そんなわけないでしょ! 三百万よ、三百万」
「さ、三百万!?」

 一度の仕事で、三百万――!?
 確かに、今彼女はそう宣ったのか。私は信じられないまま口を引きつらせて女を見た。彼女はハァーっと先ほどより長いため息をつくと、ぺろっと私の前に長々とした履歴書をひらつかせた。日本の三流大学に通っていた私でも知るほどの、外国の有名大学の名前――それから、今まで働いてきた有名企業の数々。軍事施設にいたこともあるようだ。なんというファンタジーな職歴――。私が呆然とそれを眺めていたら、女は口調を荒くした。

「まさか今更金額に怖気づいたっていうの?」
「いやあ……そういうわけじゃ」
「フン、所詮民間の組織は駄目ね。ごめんなさい、私そんな安く雇われる気ないのよ……縁がなかったと思ってちょうだい」

 がたりと椅子を引いて、女は立ち上がる。彼女はその艶やかな髪を揺らして、店をでていってしまった。私はただただ呆然とその後ろ姿を見守る。――彼女は一体何者だと言うのだろうか。私は手元に残った紙ぺらを眺める。果たしてこの紙の内容が真実かは分からないものの、少なくともまともな仕事ではないだろう。

 しかし、三百万か。
 今の私には喉から手が――腹からでも伸び出てきそうなほど魅力的な金額だった。もう少し詳しい話でも聞けば良かったかと後悔していたとき、ふと先ほど女性が座っていた席に別の女が座った。プラチナブロンドが美しい、海外セレブのような風貌の女だ。女は肩に掛けた赤のテーラードジャケットを翻し、私のほうへ脚を組んで向き直った。

「Hi. 待たせて悪かったわね」

 ニコリ、とキツいピンク色の唇が微笑む。あんなリップの色、一体だれが似合うっていうのか。そんな色合いを軽く馴染ませるような華やかな顔つきは、海のようなブルーアイを意地悪っぽく細めた。

「それで……仕事は受けてくれるのかしら」
「仕事……?」
「やだ、何よその態度。アジア系でゴールドの服着てる女なんて貴方くらいしかいないわ」

 ――まあ、確かにヨーロッパの血こそ入っているが、顔つきは正真正銘アジア人であったし、ライダースの中に着ているタイトワンピースはゴールド――と言えないこともない。先ほど仕事で使った、安物のドレスだ。私は一瞬戸惑ったものの、すぐに頭の中で情報を合致させた。物は試し、ドキドキと胸を高鳴らせながら女の方へ得意げに手元にある紙をチラつかせた。

「ふうん。こんな紙切れの履歴に興味はないけれど……。こんなものを見せてくるってことは、報酬に不満でも?」

 フフフ、と不敵に笑った女が胸元に掛けたサングラスを外す。黙っていれば、女はブロンドを掻き分けてこちらに三の指を作ってきた。三本の指を立てるのではなく、丸め込んでいるのが印象的だ。その爪の先まで、気が抜かれることなく丁寧にケアされているのは一見でも分かるくらいだ。

「……さあ、この一杯を奢って貰ってから話そうかしら」
「噂通り金に五月蠅い女ねぇ……。まあ良いわ」

 取り出された小さな財布から、彼女は札を一枚こちらに手渡した。足りない、とでも言いたげに肩を竦めてやれば、彼女は苛立たし気に財布の中身を見てもう一枚抜き出す。――その中身を確認する仕草の合間から、財布に入ったカードを覗き見た。

 ――うわっ、チタンカード!!

 私はヴィトンの財布にはさがる僅かな煌めきを捉えて、目を剥いた。それから先ほどの、アジア人の言葉を思い返す。間違いない――報酬三百万円。絶対に真実だ。アメックスのブラックカード――貴金属性。私は興奮しそうになった表情をなんとか抑えて、冷静に店主へそれを手渡した。

「それで、いくらで雇ってくれるって?」

 正直、三百万でも十分である。
 一回の仕事で三百万――私が生涯を掛けて稼いだお金は一千万円。たった今、泡と消えたお金――。馬鹿な結婚詐欺の男になんて引っかかった所為で消えたお金――! そう考えれば考えるほど怒りが湧く。
 危ない仕事であることは予測できる。まさかピザ屋のバイトをして三百万円! なんて甘っちょろい話なんて落ちてはいないだろうから。先ほどの経歴から考えると、欲しいのは優秀な頭脳と身体能力。ヤクザ絡みだろうか。海外だとすれば、ギャングやテロ組織かも。

 ――それでも良かった。

 そんなことはもうどうでも良かったのだ。どうせ、このまま泣き寝入りすれば私は貧乏生活まっしぐら。まともな戸籍すらないので、風俗でもいって日銭を稼ぐ日々が待っている。警察からも逃げなければいけない。だったら、この一攫千金で華々しく人生を彩ってやろうと思ったのだ。


「そうねえ。なら、期間を伸ばす代わりに一千万でどう?」
「いっ……!?」


 意気込んだ矢先に、目の前の女は怪しく微笑んでそう提示した。私は冷静さを欠き、手に持っていたグラスをそのまま落としてしまう。固いフロアにぶつかって、ぱりんっと小気味良い音を立て粉々になるグラスが、私のハートの一部と重なった気がする。
 どうも、こうも! どうもこうも、そんなの食いつかないわけがない。是非やらせていただきますと、彼女のピンヒールを舐める衝動を押さえ込み、私は軽く鼻を鳴らした。こういうときに虚勢を張る術だけは、生まれつき心の奥底から染みついているものだ。