02


 てっきり、冷たいコンクリート固めの建物にでも案内されると思ったのだが、女が渡した物件は至って普通の――否、普通よりやや豪華かもしれないマンションの一室だった。一人暮らしには十分すぎる広さをしているし、交通の便も悪くない。駐車場付き。同年代の中では中々に良い物件に住んでいるとも言えるだろう。

 既に殆どの荷物を失っていた私は、行きがけにコンビニで買った下着や洗顔料、当時持っていた鞄だけを持って一人部屋周りを見渡した。電気を消して、スマートフォンのカメラで部屋の中を見回してみる。三台――か。監視カメラの位置を確認してから、ため息をつきながら部屋の灯りをつける。

 どうしてこんな仕事を請け負ってしまったのだろう――。そう疑問視する自分と、こうなったら最後まで隠し通せと腹を括る自分で頭の中は二分化していた。しかし、もう後には引けない。
 一千万円もの大仕事、恐らく警察沙汰にはできないような仕事なのだろう。そんな事を末端ながらに知ってしまった――それも赤の他人となれば、私自身の存在が消され兼ねない。もとよりあってないような存在ではあったが、ゴミ処理場に放り投げられるような人生は御免である。

「しょうがない……やるしかない……しょうがない……」

 涙ながらに盗聴器がないことを確認すると、整えられた部屋の真ん中に置かれたソファへ沈む。さながら、ゲームのデフォルト状態。そんなイメージが頭に浮かぶような部屋模様である。

 ――私は手に持った、どこぞのアジア美人の職歴を眺めた。これを見終わったら厳重に処理するつもりではあるが、書かれていることくらいは覚えておかなくては。物覚えが良い方ではないが、仕事となれば話は別である。というか、最悪この中の質問に答えられないようでは現実的に首が飛ぶ可能性がある。


 私は闇に溶けるような黒いワンピースを纏った、先ほどの女のことを思い返す。彼女が私に提示した仕事内容は一つ。――「モールを見つけ出せ」。それだけだった。

『どうにも最近多いのよ。ウチを嗅ぎまわってくれる、泥っぽい害獣がね……』
『ふうん。管理がしきれてない畑なのね』
『シィ、口が過ぎるわよ。兎に角、貴女の腕を買ってのことよ……地下の情報収集はお手の物でしょう』

 いや、一体何者なのだ。あのアジア人。(――まあ、私もアジア人ではあるが。)
 モールというのは組織に潜るモグラ――つまるところスパイの暗喩だ。つまり彼女は何らかの組織の一員であり、その組織に入り込んだスパイを見つけ出してほしい。そういった依頼である。

 この際だからハッキリ言おう。無理だ。

 私にはその――なんだっけか、地下の情報を集める力などないし、大体彼女らが何組織かすら一ミリも知らない。興味もない。知ったが最後、恐らく永遠に日の目は見れないことだろう。
 けれど、その仕事をこなさなければ夢の一千万円は手に入らない。折角(恐らくだが――)警察にも見つからない住処を手に入れ、足の残らない大金が手に入るチャンスである。

 となれば、私にできることは一つ。
 仕事をしているかのように見せ時間を稼ぎながら、組織の人間に接触すること。この際適当に怪しい人間ならば情報をでっち上げて献上し、金を手に入れて海外へトンズラこくことである!

 我が身が可愛いだのなんだの、好きに言えば良い。我が身が可愛いのである。

 重要なのは、さもこの職歴にあるあの謎のアジア女だと思わせ、今までの私の痕跡を辿らせないよう、正体は隠しきる。やっていることは今までとは変わらない。大丈夫だ。――そう、私の職業は詐欺師。このご時世には珍しい単独の詐欺師だ。

 出生届を提出しなかった親の所為で私に元より戸籍など存在せず、最初は生活苦しさにお菓子をレジに持って行ったのが始まりだった。店員に話しかけられたら、この後来る人が母親だと嘘をついて会計を一緒にさせたり、店員が確認に行く隙に走って逃げれば良かった。
 歳の離れた姉は私の面倒など見てはいなかったけれど、私が金もないのに物を新調するたびに悪戯っぽく笑った。

『お前、才能あるよ』
『……才能?』
『うん、金を稼ぐ才能。この世を回すのは、知恵と金なのさ』

 今思えば、暴力も振るわず私が奪ったものを横取りすることもなく、良い姉だったのかもしれない。兎に角、その時から私の詐欺人生は始まっていた。といっても、チンケな詐欺師だ。大きな仕事をすればした分だけ足がつくし、指名手配されれば金を稼げなくなる。

 銀行の口座も作らず、チマチマと稼いだ金を両替して貯めていた。
 そんな私にも春というものが訪れたのは、ちょうど去年の頃か。否――春というよりは、嵐の前触れだ。姉によく似て、そのままの私を笑って肯定するような男だった。人が好さそうでいて、裏に僅かにほの暗い感情が見え隠れするのに惹かれた。私と同じだと勝手に思い込んで、それはもう絵に描いたようにゾッコンだった。

 そして先日、二人だけで小さな結婚式を上げようだなんて戯言にホイホイ騙されて、シャンパンゴールドのミニドレスとレトロなスーツで愛を誓い合った。ついでに一千万は奪われた。

 思えばその手口は全て私が使っていたようなものと同じで、男もまた結婚詐欺師だったというのに気づいたのは後からである。私が警察に泣きつけないのを分かっていたのだ。

「……クソ」

 未だに残った恨みを、ソファに押し付けた口元から零す。
 この恨みを晴らすべく、私だって早々に大金を手に入れバカンスのような人生を送ってやる。盛大なため息をつきながら、紙ッぺらをトイレの中で破り捨てて流しておく。丁度その水音に紛れて、コール音がした。女から貰った、連絡用のコムだ。

 小さく震えるシルバーのコムを取って電話に出ると、女の声は少し篭っていた。反響する音と、ぽつぽつと滴る水音を聞く限り、入浴中だろうか。
『セーフティハウスはどう?』
「たくさんのプレゼントどーも……。それで?」
『ああ、一個だけ言うの忘れてたから。そっちに仕事の相棒を向かわせるわ』
「相棒? そんなもの……」
 いらない、と断りと入れようと肩を竦めた直後、女の厳しい声が鼓膜を刺した。名前は確か、ベルモット――とか言っただろうか。本名ではないと思うものの、妙な名前である。

『監視役と言えば良いのかしら。駆逐業者は信用するまで時間がかかるのよ』

 その一言に、私はぐうの音も出ないまま瞼を落とした。――やり辛い。しかも此方に向かうということは、もしかしたら家に住みこむということか。監視カメラでさえ頭が痛いのに、とんでもない痛手である。

「はー……しょうがない」

 やりきると決めたからには、私もプロである(――犯罪の)。
 とりあえずシャワーでも浴びて頭を冷やそう。散々酔ったせいで、体中臭うだろうし。コンビニで買った適当なシャンプー&リンスー、ボーディーソープ。まあ案外香りは嫌いじゃあなかった。濡れた髪を適当に拭いて、下着を替える。ずっとドレスでいるのも間抜けなので、Tシャツに着替えた。これもコンビニ産、最近のコンビニって本当に優秀である。

「……下、パンツだけど良いかな」

 寝るだけだと思ったからズボンは買わなかったが、よく考えたら明日から生活しようがないじゃないか。やっぱり、その相棒とやらに来てもらって良かった。適当な服を買ってきてもらおう。考えているうちにインターフォンが鳴った。どうやら鍵は貰っていたらしく、ドア前のベルの音だった。

「はいはい。今でまーす……」

 がしがしと濡れた髪を拭き終えたタオルをポイっとソファに投げ捨てて、廊下をひたひたと歩いて行った。濡れた足が、廊下に薄く足跡を残していく。体が温まったせいで眠気に襲われた。小さく欠伸を零す。
 チェーンを外して扉を押し開け、「ごめんなさい、待たせて……」と顔を上げて――体を固まらせてしまった。


「お、男……」


 飛び出た第一声はそれだった。目の前に、男の影。が、三つ。二人の視線はこちらを至極冷静に射抜いていた。一人だけ、アジア系の眼差しがギョっとしたように見開かれる。揃える情報が多すぎて処理しきれなかったが、恐らくその男の声だろう。慌て腐ったような声で、誰かやらを呼んだ。多分、横にいる二人――であったように思う。

「悪い、出直すよ!」

 がちゃん。と扉が閉められて、私は目を瞬いていた。男――だった。

 今まで出会ったのが女であったのと、ベルモットから何の忠告もなかったので、勝手に女だと思い込んでいた。いや、こればかりは私の勝手な思い込みなので彼らに非はない。しかし、この閉められた扉をどうしようか。閉めたところで、私はズボンを持っていないので。一人、その固く締められた扉と睨めっこを続けたのだった。