05


 誰かが部屋を出ていく音で目が覚めた。携帯に手を伸ばして時間を確認すれば、もうすぐ正午。男三人、鍵もついていない個室で随分と呑気な目覚めである。昨日は疲れたので、しょうがないな――なんて誰にでもない言い訳を頭に並べて、ぼさぼさの頭を軽く手櫛で整えた。
 とりあえず、身の回りの日用品が必要だ。初期費用として与えられた金である程度買い物でもするか――。ベッドはまあこれで良いとして、さすがに四六時中この恰好でいては潜入できるものもできないだろうから。
 
 欠伸しながらリビングで水道水を呷っていたら、フっと誰かが笑う声がした。振り向くと、ペットボトル片手に長い漆黒の髪を揺らして、ライが部屋から出てくるところだった。少しカチンとしたものの、腹を立てる元気も湧かなかったので放っておく。目に留まった玄関には二人――私を抜いて、恐らくライの分だろう靴しかなかった。ローテーションだとか言っていたので、他二人は仕事なのだろうと予想できる。なら、先ほど玄関を出る気配がしたのは彼らだったか。

「ねえ、ライって車持ってる?」
「……持っちゃいるが、乗せる気はないぜ」
「良いでしょ、一応相棒って体なんだから」

 ケチケチしないでよ、と口を尖らせて拗ねるとライは機嫌を損ねたように溜息をついた。そんな溜息、ババ抜きでイカサマをした奴にはつかれたくないものだ。しかし案外すんなりと、彼は折れた。私の寝間着同然の姿を見兼ねたのか、翡翠の瞳はつま先から頭までこちらを見回す。

「オッケー、じゃあ行こう」

 寝ぐせを整え、ぐぐっと伸びをしながら告げるとライは黙りこくった。それから暫く、私が振り返ったら、整った顔立ちが酸っぱいものでも食べたみたいに歪んでいた。

「……その恰好で? どこに買い物に行くって言うんだ」
「どこって、そのへん。服くらいどこでも買えるでしょ」
「山姥みたいになってる。職質でもされたら何て答えるつもりだ」
「そのくらいの身分証持ってるし、この辺の治安舐めてる?」

 職質って、どう考えてもその大きなギターケースを背負った大男のほうが職質されるだろう。銃器を隠しているとは誰も思わないだろうが、麻薬くらいなら取り締まられる可能性は大いにある。

「よく分かったな」

 と彼がぼやいたのは、恐らく私がそのライフルケースをじろじろと眺めた所為だ。
「うん。スコッチのケースの中身もそうだったから」
 リビングに置き去りのケースを一瞥すれば、ライは軽く息をついて肩を落とす。彼は長い髪を鬱陶しそうに片側に流して、恐らく彼の出ていったろう玄関に視線を遣る。その表情は、少しばかり驚いているようにも見えた。

「……アイツ、負けたのか」
「あ、ババ抜きね」

 自ら地雷を踏みに来たライに、私の表情筋が引き攣った。驚いていたのは、きっとスコッチがあのイカサマを無視して負けたことに対してだ。スコッチの数少ない荷物(といっても、ベースのケースと、スーツケース一つ)はリビングの端に寄せられている。ソファで寝ているのだろうか、そう思うと少し罪悪感が湧く。

「兎に角、良いでしょ。近くのスーパーで良いから」
「ハァ、分かった」

 どう見ても分かった――という表情ではなかったものの、彼は車の鍵を手に躍らせて玄関へと踵を返した。私はぽりぽりと頭を掻きながら、その後へ続いていく。そういえば私はヒールしか持っていなかったので、誰のか分からなかったが室内履きを借りていく。それを視線に捉えたライは、再び溜息を一つ零した。




「ホォー……」

 ポケットに手を突っ込んで、スーパーの駐車場で煙草をふかしていた男は、私が手にいっぱいの袋を買って帰ってきたのを見て僅かに目を見開いた。私もその反応に満更でもなく後ろ髪を掻き上げた。
 ファッション量販店で一通り着替えをして、百円均一の化粧品で化粧をし、髪は軽くオイルで整えただけだ。男はブランドか安物かなんて見分けはついていないというが、この様子を見ると彼もその中の一人なのだろうと思う。見違えたもんだ、だなどと感嘆の息をつくのに、軽く肩を竦めておいた。
 ただのブラウスとテーパード型のパンツだが、安物の割りにはオフィスらしさもあるだろう。あとは日用品か。そういえばライの鞄も相当に小さかったけれど――。そんな話を切り出せば、ライは片手でハンドルを支えながら溜息をついた。

「そもそも、誰が手をつけたか分からん食材を使わない」
「……でも、水道水飲んでたじゃん?」
「あのグラス、埃が積もってただろう。水道水を淹れるところは見ていたし、何も入っていないのは一目瞭然だった」

 そこの信号を右、とライに声を掛けながら頷いた。そうか、毒も何も混ざっていないという確信があったらしい。確かに言われれば納得もできる。頭の中で当時の様子を思い返していたら、ライが堪えられなかったようにフっと鼻から抜けるような笑い声を零した。

「……何?」

 この笑い方、今朝も聞いたような気がする。馬鹿にされたような感じがする、嫌な笑い方をする男だと思った。彼はニヒルに笑った口を手の甲で軽く隠しながら、肩を揺らす。信号を曲がり、暫くすぎたところでようやくその笑いが収まったらしい。


「いや、水道水を――……ふ、客用に出されたのは初めてだった」


 私はハァ、と首を傾げた。不満か文句か何かか、これは。私が顔を顰めると、笑い引き攣った頬を押さえてライが首を軽く振る。
「別に良い。そんなガサツな女がこの世にいるもんかと思っただけだ」
「ガサッ……良いでしょ。他に出すものなかったし」
「確かにそうだ。レディのおっしゃる通り」
 私が不機嫌になったのを見兼ねてか、ライはそれ以上否定することはなかった。ただ可笑しそうにその眉だけ軽く皺を寄せて、笑いを堪えているようにも見える。

 日用品を買おうと薬局に寄った後、彼は手に持っていたペットボトルを私に投げて寄越した。どうやら薬局で、その水を一本だけ購入したようだ。私はキョトンとしてとりあえず礼を告げる。

 ぱきりと蓋を外して、まだ冷えている水をゴクゴクと喉に流し込む。なんで急にまた――なんて思ったけれど、ライがすぐに私の考えを見抜いたように煙草に火をつけながら無愛想に告げる。

「同居の挨拶代わりだ。せめて水を飲むならコッチにしろ――腹壊すぜ」

 そう言うなり、再びクックックと笑い始める。やっぱり嫌な笑い方をする男である。文句があるなら直接言えば良いのに、と吐き捨てた。彼は咥えた煙草のフィルターを軽く噛んだ。それはどうやら癖のようで、灰皿にある煙草は全て歯形がついている。無口でクールな男かと思ったが、案外ただの皮肉屋なのかもしれない。

 それでも文句も言わず私の買い物のために車を回してくれるあたり、面倒見が良いような一面もあるのだろう。今度足になってくれたお礼に、何かご馳走するとしよう。毒をしこめないような、個包装の物のほうが良いのだろうか。

 久しぶりに飲んだミネラルウォーターは美味しくて、あっというまにペットボトルの半分まで減ってしまった。あと半分が減ってしまうのが勿体ないような、そんな気持ちにもなりながら私は小さく欠伸を零した。

 この男、バーボンやスコッチへの態度を見る限りでも、割かし組織においても一匹狼のような――そんな存在な気がする。
 だとしたら、裏切り者の罪をなするのにも丁度良いかもしれない。保身のための打算を立てながら、煙が篭りきった車の窓を薄っすらと開けた。吹き込んだ風に、彼の長い髪がふわりと靡くのが視界の端に映った。