06


「いだっ」

 思わず手を離した人差し指から、ぷくりと水泡のように血液が膨れ出る。同じ空間にいた涼やかな眦が、パっと私を捉えた。どうしたんだと聞きたげな眼差しに、気まずく笑いながら指先を軽く咥えた。

「怪我したのか」
「ううん。いやマジで怪我ってモンじゃないから……大丈夫」
「救急キットなら持ってる。絆創膏いる?」

 深くは聞かずに、男は耳につけていたイヤフォンを外し鞄を漁った。渡されたのは――当たり前だが――何の変哲もない絆創膏で、私は少し拍子抜けしてそれを受け取る。ライとバーボンに比べて、スコッチはコミュニケーションもそこそこ、馴染みやすい男だ。外見的特徴もその吊り目がちな目つきくらいで、きっとそこを隠せば潜入も引く手数多だろう。
 話が逸れた。兎に角、平凡そうな口調と態度から、平凡な絆創膏が飛び出たことがこの非日常的な状況と何ともミスマッチで、つい肩の力が抜けてしまった。

「……どうやったらこんな傷できるんだ」

 傷について追求しないと思ったのだが、私が指を抑えたのを見てつい気になったのだろう。彼は周囲に視線を走らせて、「別に刃物も紙もなかったのに」と赤く残った指先の一線を見遣る。

「あは……実は服のタグを取ろうとしたんだけど……」
「まさか、素手で?」
「だって、ハサミなかったんだもん」

 持ってる? と尋ねれば、彼はゆるゆると首を振った。だからって手で切らなくても、スコッチは苦笑いを浮かべる。普段の表情は涼やかで、どちらかといえばブスっとして見えるけれど、その顔つきがニコリと笑うと不思議と話しやすい。まあ、あまりに人の好さが滲みすぎていて胡散臭いと言えばそうなのだけど。ライのニヒルな笑顔とはまるで正反対だった。

「ほら、貸して。ペンがあれば切れるから」
「本当に? 知らなかった」

 持っていたカーディガンを手渡すと、彼はボールペンの持ち手にタグのプラスチックを引っ掛けると、そのままボールペンをぐるぐると捩じっていく。紐部分は捩じれるたびに細くなっていき、最後にはプツンと両端に切れた。おお、豆知識。


「ありがとう。ちょっと肌寒いなって思ってたんだ」
「確かに。良かったら送っていこうか?」

 自然な流れで腰を持ち上げるスコッチに、私は少しばかり目を見開いてしまった。先日ライに渋られたばかりだからだろうか。彼の行動がものすごく紳士的に映ったものだ。小さな声で「ありがとう」と呟くと、彼はまるで子どもを相手にするように私の頭を軽く撫でた。彼はその手を慌ててパっと放すと、再び苦く笑う。

「悪い。気持ち悪かったか」
「あ、ううん……」
「ミチルさん、貰った資料だと結構ミステリアスなイメージだったけど……。ちょっと抜けてるし、大雑把だし、意外でさ。悪い意味じゃないぜ?」

 ――まあその前資料とは全くの別人であるのでしょうがない。
 とは言わないが、確かにあの店に訪れた女性を思い返すとそういった印象が強いのも分かる。仕事と顔は使い分ける性質なんだよね、などと淡々と言い訳を並べたら、スコッチはそれもそうかと頷いた。

 彼と外出したついでに思い出したのだが、この間のババ抜きの礼でもしようと思い立つ。おかげで一人伸び伸びと気兼ねなく下着のみで過ごせているわけなので、彼には心から感謝している。申し訳ないが金に余裕はないので、行きがけにコーヒーでも買っていこうかと伸びをした。

「それで、どこに行く。夜から仕事なんだよ」
「隣町の駅。お願いしても良い?」

 助手席に乗り込むと、スコッチはシートベルトをつけながら快く頷いた。ミニのクロスオーバー。ライの乗っていたシボレーより、幾分か広々と感じるのは窓の大きさの所為か。ちょうど夕陽が眩く、低く沈んでいく。目を細めた。

「――こんな時間から出掛けるなんて、君も仕事か」

 明かな詮索に、まあねと軽く肩を竦める。スコッチはめげずに「何の仕事」と尋ねてくる。
「何って、君たちが依頼してきたのに聞くわけ? それとも探られたくない腹の内があったりして」
「そんなの、誰だってあるだろ。意地悪いこと言うなよ」
「どっちが先に……」
 ちかっとミラーに夕陽が反射していく。それにふと目を取られた時、目に付いたものがあった。私は思わず口から「止めて」と言葉が零れる。驚いたようにブレーキが掛けられた。少し急なブレーキは、私の体を揺らす。

どうしたのかと目を瞬くスコッチに断りを入れ、車を降りて小さな体を抱き上げた。夕陽で良かった。黒い体はその明るい日差しによく目立つ。まだ手足も細く震える鳴き声を、私は先ほどタグを切ったばかりのカーディガンで包みこんだ。

「……猫」

 スコッチはパチパチと瞬き、腕の中にいる子猫を見つめた。
 しまった、悪の組織ともあろうものが子猫は不味かっただろうか。いや、それは関係ないだろう。人殺しでも猫好きはいるはずだ。

「……意外だな、本当に。君、裏切り者を探す気あるのか」
「あるある。でも猫に罪はないでしょ」

 まだ小さな肉球に触れる。ひんやりと冷たい感触があった。スコッチは少し慣れないような手つきで猫の小さな頭をチョンチョンと叩く。その動物へのぎこちなさは意外である。常にニコニコとした男だったから、動物をあやすことくらい他愛なさそうに思える。

 私はそれが可笑しくて少し笑った。
 するとスコッチは少しだけ眉を吊り上げ、それから情けなさそうに八の字に下げる。ぽりぽりと頭を掻くと、言い訳するようにぽつりと呟いた。

「昔噛まれたことがあるんだ。それですごく腫れて……」
「うわっ、痛いやつだ。可愛そう〜」

 思わず、今はないはずの傷に目を遣ってしまった。そんな会話を交わしていたら、足元で子猫より少し低い鳴き声がした。黒猫だ。もしかしたら、母猫だろうか。そっと猫の体を、道の端に寄せて下ろしてやると、ぷるぷると足を震わせながら母猫のもとへ歩いていく。私はそれを見送って、小さく笑った。

「あ、自販機ある。コーヒー買ったげるよ」
「……なんでコーヒー?」
「この間のババ抜きのお礼。紅茶派だった?」

 首を傾ぐと、スコッチはふるふると首を振った。なら良かった、と私は近くの自販機まで駆けていき、アイスコーヒーを一つ買った。ピピピ、と音が続くと電子の数字が光った。当然のように外れだったけれど、それを待たずしてスコッチがもう一度小銭を入れる。そしてもう一本アイスコーヒーを買ったのだ。

 どうして、と振り返ろうとすると、彼はこちらにコーヒーを差し出した。それじゃまるで意味がないのではないか。怪訝な顔をして缶コーヒーを見下げていたら、スコッチはあの笑顔で「まあまあ」と私を宥めるように声を掛けるのだ。

「子猫の代弁だと思って受け取ってくれよ。何もいれてないのは見てたろ?」

 そう告げられた言葉に、私は先ほどのスコッチをそのまま真似るように「猫」と呟きを落とす。このコーヒーが――。私が子猫を道の端に寄せたから? いやいや、だからといってどうしてスコッチがその代弁を――。

「ふ、ふふっ……」

 何故か道端の猫の心を代弁したのだと言う青年に、じわじわと笑いがこみ上げた。私はコーヒーを持つ手で覆うように口もとを隠し、顔を背けた。こんな状況でもなければ、相当可愛いと思ってしまった。私は未だにクツクツと湧き出る笑いを誤魔化すようにコーヒーを呷りながら、礼を言って駅までは歩いて向かうことにしたのだった。