07


「えぇ、そこを何とか。お願いします!」

 私はパチンと手をあわせて頭を精いっぱいに下げた。目の前にいた顔見知りの女は、葉巻から重たい煙をフゥっと零して首を振った。五十過ぎほどの白髪交じりの女だ。年の割りには整ったスタイルは、体のラインをハッキリと見せるスーツからもはっきりと窺える。彼女は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。皺を刻んだ目元が厳しく細められる。

「嫌だよ。渡せる情報はないね」
「……一ミリでも?」
「悪いけど他を当たってくれよ。あんたの情報は売らないからさあ……」

 私はそう吐き捨てられ、溜息をつきながらスナックを出た。ベルモット≠ニいう女について、まるで知らないと怪訝そうにする人間が八割、今のように名前を聞いた瞬間に追い返す人間が二割だ。恐らく、後者の反応が彼女が夜の世界でどういう立ち位置なのかを物語っている。

「って言ってもなあ〜……」

 あまり大々的に嗅ぎまわるのは得策じゃない。こうして情報を集めようとしていることすら、恐らく彼女たちの耳に入るのだから。伸びをしてネオンが煌めく街並みを歩いていると、ふとキラリと視界の端が輝いた。思わず視線でその煌めきを追ってしまう。ネオンの灯りを跳ね返すようなブロンドは、いくら髪色が豊かなこの街といえどひどく際立っていた。

 ――バーボン……。

 どうやら傍らには仕事相手だろう女が一緒だった。自分に後ろめたいこともあって、わざわざ声を掛けることもないかと思った。一つ息をついて踵を返す。数歩進んだところで、背後から呼び止めるような声があった。

「帰りですか?」
「うん。お仕事中でしょ、先行くね」
「いえ、もう終わります。送りますよ」

 女性の夜歩きは危ないですから。
 にこやかな微笑を湛えながらそう告げるが、この街に一体何人の女が歩いていると思っているのだろうか。それを恋人の帰り道にでも言えば百点だろうが、今のこの状況で言うのは減点物だ。
 しかし、まあ電車賃が浮くと思えば。そんな安易が考えで二つ返事で頷いた。車を取ってくるので、と言うバーボンに手を振り待ちぼうけていたら、先ほどまで彼と歩いていた女がこちらをジっと見つめていることに気づく。

 ――もしかして置いてくの? それとも一緒に乗る?

 どちらにせよ初対面の誰かも分からない女だったので、嫌ではないがそれなりに警戒はしていた。バーボンの彼女という選択が浮かばなかったのは、彼らと同じように黒い装束に身を包んだ女であったからだ。恐らく、彼女もまた仕事仲間だと予想できる。

「どうも」

 とりあえず当たり障りなく、愛想良く笑うと、目の前の女は少しだけ驚いたようにして、しかし吊りがちな目つきを和らげた。スコッチよりもクールに微笑む表情は、涼やかで少し堅そうなイメージを持つ。

 月が綺麗ですねとか、明日は雨なんですってとか、他愛ない会話を続けていると近くの路地につけた白い日本車からクラクションが鳴らされる。「バーボン」、呟いたのは女の方だった。

「私、もう行くわね」
「あ……はい。また」

 また、なんて――また会うかも分からない初対面の女に笑うと、女は賢そうな眉を僅かに下げて、はじめて口元に笑みを浮かべた。ひらりと一つ手を振ると、ヒールを鳴らし踵を返していく。

 バーボンの車かなんて知らなかったけれど、女がそう言うので歩み寄ると鍵が開いた。助手席の扉を開ける。三人の中で一番外人の血が濃いように思うのに、日本車なのか。差別しているわけではないが、少し意外だ。

「夕飯は?」
「まだ……でもお酒飲んだからお腹いっぱい」
「そうでしたか」

 僕は少し、と笑う男に、近くのファストフードにドライブスルーで寄ることを提案した。いくら警戒心が強い組織の人間といえど、ファストフードくらいは食べるだろう。彼の外見にはあまり合わないが――。
 そのツンとした鼻先やふっくらとした頬骨を見つめていたら、居心地悪そうにファンタジー世界のような瞳がこちらを見遣る。さすがに見つめすぎたか。軽く謝って視線を逸らす。

「いえ……そんなに気になりますか」

 手袋をつけた指先が、ちょいっと彼のブロンドを摘まむ。夜のネオンの下だと、色素の薄い髪はネオンの色をそのまま映すようだ。そういえば、彼の車からは煙草の匂いがしないなあ。他の二人のシートからは香ったそれがない。喫煙者ではないのだろうか。

「なんかゲームのキャラクターみたいで、目で追っちゃうんだよね」
「ゲーム?」
「そうそう」

 彼氏が好きで、と言葉にしようとして、我に返り口を噤む。
 例の元婚約者≠フやっていたネトゲのキャラクターに似ていたので、つい零れてしまったが、自分で地雷を踏みぬくとは。思い返したら苛立ちが心の奥を沸々と湧かせてくる。今すぐあの溜めに溜めたコインを散財させてやりたい。いっそデータまでぶち壊してやりたいとも思う。――やるか、今度。

「ゲームか……」

 バーボンの呟きで、ようやくのことハっとした。幸いバーボンはぼんやりと悪事を考えていることは怪しまれなかったらしい。(別に、組織のことではなかったが――)
「ごめん、気に障った?」
「初めて言われました。外人だなんだとはよく言われるのですが」
「嘘、たぶん皆言わないけど思ってるよ。魔力高そうって」
 言うとバーボンは、いつもの微笑ではなく少しだけ崩したような笑みを浮かべた。「魔力って」、眉を下げて笑う表情は普段より幾分か年若く見える。

 ドライブスルーでポテトと、バーボンはチーズバーガーを買った。それにアイスコーヒーをプラスされて手渡される。頼んでないと言えば、ご馳走しますと微笑まれて有難く受け取ってしまった。


「君たちの組織、飲み物奢るの流行ってるの?」


 ライにもスコッチにも何らかの形で飲み物を馳走になってしまった。
 まあ私が払うほうではなくて貰うほうなので、正直貰えるだけ貰っても構わないのだけど、あまりに毎度のことなので笑い混じりにそう告げた。バーボンは不機嫌なのだか可笑しそうなのだか――複雑な表情を浮かべた。

「僕が三番煎じだと?」

 トントン、とハンドルを持つ指先が気に食わなそうに地団太を踏む。パチンと瞬いて、「えぇ?」と聞き返してしまった。

「何それ。別に競ってるわけじゃないじゃん」
「アイツらと比べられると不快です」
「……本当に仲悪いね」

 この間偶々帰宅時間が被ったライとバーボンが、喫煙場所について言い合っていたのはまだ新しい記憶だ。結局その後帰ったスコッチと私によって意見は二対二に別れ、喫煙場所はベランダのみだと定められた。
 ――いや、正直煙だとかはどうでも良いのだが、部屋の壁紙が黄ばんで後から金をとられることだけは避けたい。ベルモットが名義は私ではないと言っていたけれど、万が一のことがあって余分な金をとられるのは許せない。

 有難くストローに口をつける。ファストフード店のアイスコーヒーは、氷が多くて水っぽかった。けれどその安っぽさは気に入っている。
「私こういう氷じゃらじゃらのコーヒー好きなんだよね」
 何気なくそう呟いたら、バーボンは何故か得意そうに一つ鼻を鳴らした。コーヒー一つでマウント取るなよ、と私は苦く笑う。そんな彼ももしかしたら仮面の一つかもしれないが、案外バーボンとのやり取りは嫌いじゃない。
 恐らく、第一印象より気取り屋なイメージが払拭されたからだ。このくらい話しやすかったら、仲良くなるのも案外難しくないのでは。今度はもう少し彼のプライベートを聞けるように踏み込んでみようか、なんて打算を立てた。

 その拍子に、ストローがズゴっと氷を吸い込んで音を立ててしまい、バーボンがふっと可笑しそうに笑ったのだ。