01

 正直に言おう。世界とは不平等であり、不公平であり、加えてクソだと。

 季節感すら感じられない部屋の中に引きこもること一週間。頭痛は止まず目を閉じても液晶画面が焼き付いて離れない。パソコンをシャットダウンさせて漸く聞こえた冷房の音が、今は夏だったのかと私に思い出させた。
 ここは私の勤め先だ。家ではない。
 最早泊まり込みにも手慣れすぎて、どちらが家なのか定かではない。会社の一室に家賃を払ったほうが良いのではとも思う。キーボードをパチンと押し込んで、項垂れた。乾ききった瞳と、篭った口臭。最後に冷え切った足先を認識して、思った。

 ――あ、仕事やめよう。

 もう生活がどうなったって良い。このままでは死ぬ。間違いなく死ぬ。今私の思考を動かしているのは、既に本能であったように思う。
 ようやく終わった一週間分の資料をUSBに写し、覇気なく荷物を纏める。立ち上がれば足が痺れて、よろよろと覚束ないまま退社した。社会の家畜と書いて、社畜だなんてよく皮肉ったものだ。人間としての二足歩行を忘れかけた足並みは、まさに家畜というに相応しかっただろう。
 コンクリートジャングルに朝陽が照りつけて、ストッキングを履いた下半身を蒸らしていく。会社から一駅、僅かな距離ではあったが、私の削り切った体力をゼロに近づけるには十分すぎる距離だ。完全にRPGの毒異常状態である。

 充電の切れたスマートフォンの画面を開こうとして、いよいよ頭が回っていないと実感する。一歩でも早く家に帰りたい。柔らかな布団の中にもぐりたい。美味しいご飯を食べたい。まあ家に帰ったとして布団は干してないので柔らかくもなく、ご飯はさして美味くないのだけど――住めば極楽、暮せば楽園だ。


 東都タワーを見上げて、ハァと重たくため息をついた。
 こんなはずではなかったのだ。それこそ、最初に東都タワーを見た時など心躍り、私も都会に来たのだと浮かれていた。
 元々根明な人間ではない。人間関係が苦手なわけではなかったけれど、オタク気質は染みついていたし部屋の中でアニメやゲームをするのが好きだ。しかし何を思ったのだか、二十歳を超えて急に色気づきだした。所謂デビューとかいうやつだ。ちょうどその頃、表面は優秀で美人、実はオタク――なんていう作品が流行っていたから、その影響をモロに受けてしまったのだろう。
 なんと哀れな人生だろうか。
 踊りに踊らされ、髪や肌のケアを念入りに、服も流行りを押さえなんとか並みの容姿まで整えて、私は胸を躍らせて都心で一人暮らしを始めたのだ。それが地獄の始まりであった。

 私の勤め先は世に言うブラック会社とかいうやつで(ちなみに、一日は二十四時間なのだが、その概念を会社は知っているのだろうか)、社会人二年目にしてその洗礼を受けている最中だ。

 一年目の時はまだ、きつい仕事も続ければなんとかなると思っていた。
 それに、恥ずかしかったのだ。意気揚々と家を出ておいて、すごすご戻るのも嫌だった。けれど働かなければ、都心で住めるほどの金が手に入らない。そして現在、頭の中には頭痛という名の警報が鳴り響いていた。

 もう辞めよう。実家から何と罵られても構わない。
 一人暮らしを始めてからは仕事で忙しくて、近くには友人もいない。最初は続けていたSNSも今はほとんどログインしていないし、このままでは孤独死しても誰も気が付かない。嫌だ。死にたくない。そんな本能が私に残っていたことを褒めてほしい。


 ふらふらと足を進めて、暫く。ようやくのこと自宅が見えてきた。
 ぼんやりしながら歩いていると、近くの学校から活気の良い掛け声が響いた。カキン、とバットがボールを跳ねる音がする。どうやら部活の朝練中のようだ。今の私には眩しすぎるほどの青春だった。蝉しぐれにも負けない若者たちの声を聞いて校舎を見上げた。大きな学校だ。高校だったか、中学だったかは覚えていない。

「ハァ……元気かな、みんな」

 地元の友人を思い出す。高校の時は、根暗なりに楽しかった。当時追いかけていたアイドルの雑誌を集めたり、土曜の深夜アニメの感想を友人と語り合いたくて日曜日がやけに長く感じたり。気の良い子たちだったので、もしかしたら心配しているかもしれない。――忘れているかも、しれないけれど。 

 校舎の窓が鏡のように、青い空を映し出す。
 そんな風景さえ綺麗だと思ってしまうのは、今までずっと見つめていたブルーライトよりはマシだと感じるせいか。ぼんやりとその校舎を見上げていたら、ふと三階の窓が開いた。
 カラ、と窓が横に開いていく。
 他の窓は全て閉まっているので、日直なのか、それとも朝早く来ただけなのかもしれない。朝とはいえ真夏である。決して涼しい風など吹き込むことはないだろうが、窓を開けたであろう人物は桟に手をかけて顔を覗かせた。

 
 キラ、と。


 その人が光ったように見えた。
 良い例えが浮かばないけれど、こう、ファンタジーアニメとかで呪文を唱えている時に、体が光っている――みたいな。もちろん、そんなわけはないのだ。だけど、そう見えた。
 黒い癖毛が風に揺れる。そんな涼し気な風、吹いていたっけか。
 下から覗いても分かるくらいにクッキリとした顔立ち――特に、目だ。気の強そうな、我儘そうな目つき。心地よさそうに微笑んでいるのが分かる。

 その姿があまりに美しく思えて、ついつい間抜けにも立ち尽くしていた。
 あんな美青年、そうそう目に掛るものではない。世辞とかではなくて、テレビの中でも滅多には見ないだろう。なんて爆弾を抱えているのだ、この学校は。
 ジー、とその姿を見上げたまま口を半開きにしていると、ふと彼の視線がこちらを見下げた。あまりに見つめすぎて、視線が鬱陶しかったのかもしれない。

 私は慌てたけれど、体が強張ったまま動かない。
 
 ――黒、ではない。
 なんだか不思議な瞳の色が、煌めいているような気がする。もしかしたら、少し色素が薄いのだろうか。魔法をかけられてしまったみたいな、妙な気持ちだった。


 しかし、彼が目を細めて私を見るものだから、ようやくのことハっとして視線を外した。校舎の下から、ボロボロな社会人に見つめられるって、下手したらセクハラだ。通報案件である。

「――待って!」

 と、青年が叫んだ。
 まずい、これは本格的に通報される。私は小走りにその校舎の横を駆け抜けていった。心が荒んでいたからって、目の保養だからって、さすがに私が悪かった。ここで現行犯逮捕なんてされたら、私の人生は正真正銘詰んでいる。


 マンションのエントランスに辿り着いて、私はホっと胸を撫でおろす。
 自室へ向かうエレベーターの最中、先ほどの青年の顔をぼんやり思い出していた。本当に綺麗な子だった。アイドルとか、そういう類よりは綺麗な写真の一風景になっていそうな――俗っぽさが薄いような容姿をしていた。声色も中性的で、格好いいというよりは綺麗だという表現が合う。

 世の中には、あんな人間もいるのか――。

 そう思えば思うほど、私の人生ガチャは失敗だったという結論に至る。
 そりゃあ、あれだけ綺麗な外見で生まれていたらこんな世の中楽勝だったろう。仕事だってある程度は選択できるし、誌面や映像に載れば一躍有名人だ。もう一度、ため息を重たく零す。鍵を開けて靴を脱ぎ捨てると、そのまま自室の布団に潜り込んだ。

「アァ〜……最高。寝袋とはこんなに違うんだ……」

 干してなくてもペッタンコでも、なんでこんなに心地よいのだろうか。微睡む意識を幸せに感じていた時――インターフォンが鳴った。何だよ、今良いところなのに。一度は無視を決め込んだものの、すぐにもう一度同じ音が響く。

「うるさい……」

 その後も三度、四度と繰り返されるものだから、私はガシガシと頭を掻きながら応答しに向かう。シーツがまだ恋しそうに、私のつま先に引っかかってきた。ああ、冷房先につけておけば良かったと、踵を返す気力もないまま考えたのだ。