02

 画面を覗けば、宅配の帽子を被った男が通販サイトのダンボールを持って立っていた。
『すみません、チーター宅配便です』
 男は帽子を軽く下げて告げた。宅配便に関して、まるで心当たりがない。だって一週間ほど、帰宅すらしていなかったのだから。人違いではと尋ねたのだが、男は部屋番号は合っていると言うではないか。
 
「あのぉ、すみませんけど宅配ボックスに入れておいてもらえませんか?」
『こちら着払いの商品でして……』

 私の心の中に、僅かに芽生えていた疑心がむくむくと膨れていく。着払いなんて、社会人になってから使ったこともない。やっぱり人違いか、もしくは不審者ではないかと考えた。宅配業者を装った不審者がいるとか、ニュース番組でも観たことがあったからだ。やはり断ろう。もし本当に私の荷物だとしたら、後から再配送されるか連絡が入るだろう。

 よく考えれば警察にでも連絡したほうが良かったのだが、この時はひたすらに睡眠を妨害されたことへ怒りが湧いていた。眠りにつくまであと少しだったのに。呑気なことを考えながら断ろうとした時、男と――もう一つ、誰かの声が響いた。

『オジサン、こんなところで何してるんだい』
『……いえ、私は宅配を』
『ふーん、宛名のない宅配便なんて聞いたことないけどなあ』

 モニター越しには誰が話しているかよく分からない。しかし、どうやら男の背後にいるのだろう。男が振り向いて、ダンボールを後ろ手に隠す。私のモニターには、その誰かが言う通り宛名のないダンボールが大きく映し出された。

『それに知らなかった? チーター宅配便は成りすましを防ぐために、先週から背中のロゴを全社員変えたって話……。アルバイターたちが自分の制服をオークションに掛けたのを、悪用されないようにね』
『えっ、な、まさか。そんなこと……!』
『あはは、嘘だよ。でもそんな風に背中を隠すってことは……やましいことでもあるのかな』

 ぐっと言葉に詰まった男の手が、ごそごそと何かを弄っている。画質の荒い手元に目を凝らす。もう一つの声の持ち主からは見えないだろう、ズボンの後ろについたポケットから、彼は一本の――黄色い棒のようなものを取り出した。なんだ、これは。

 画面に齧りついて、そのものが何かに気づくと、私はモニターから一歩後ずさった。
 カッターだ。カッターナイフ。

 そんなものを不審者が取り出して――することは一つしか考えられない。警察を呼ぼうか。でも、警察を呼んで手遅れになりはしないだろうか。
 声を聞く限り、まだ歳幼いような雰囲気がある。声だけなので何とも言えないが、恐らく声としては中学生から大学生くらい。喋り方からして中学生ではなさそうだし、高校から上といった感じだろうか。私と同じ歳くらいの女とも、声変わりをしていない男とも取れるような気がする。
 そんな子が、カッターナイフで力ごなしに襲われてしまったら――。
 私は青ざめた。ドアを開けるつもりはなかったとはいえ、私を助けに来てくれたのだ。もしかしたら、今でなくとも出てくるのを待ち伏せされていた可能性だってある。

 私は、別に正義感が強いタイプではない。
 ものすごく内気というわけでもないが、これといって我が強いわけでもない。
 動物を虐めたり、落とし物を盗んだりするほど倫理観が崩壊してもおらず、だが目の前の老人に席を譲ったり人のために働けたりするほど人徳者でもなかった。世間一般的にいえば、平々凡々に世知辛い世の中を歩いてきたと思うのだ。


 ――だから、この時の行動は、私が社畜のあまり判断力が著しく欠けていた――後に思い返しても、そうとしか思えない。眠たくて、疲れていて、普段ならば安全な場所から眺めていただけだったはずの人間が危機察知能力をどこかに置いてきたのだ。


 気が付けば、足が動いていた。
 ひとまず近くにあったヘアスプレーを手に持って、犯人に吹きかけて急いで逃げよう。エントランスまでひたすらに走った。どうか、どうか誰か顔の知らぬ人が殺されてなどいませんように! そんなことでもあったら、罪悪感で押しつぶされて今度こそ社会復帰できなくなってしまう。

 エレベーターを降りると真っすぐに自動ドアまで走り抜ける。

「あのっ、大丈夫です……か……」

 はあ、と肩で息をしながら顔を覗かせる。手に持ったスプレーにかかった人差し指が震えて、理解するまでに時間を要した。パチン、とエメラルドグリーンが私のことを見上げて瞬いている。何の変哲もない蛍光灯の灯りが、こんなにも輝くことってあっただろうか。

 腰を屈めているのは、学校ですれ違ったあの美青年だった。
 ふわっとしたアンニュイな癖毛と、気の強そうな猫目。ツンっと先を尖らせたような鼻先に、小さくふっくらとした唇。何より、その瞳――。下から見上げている時には遠くて分からなかったが、美しい翡翠色――寧ろ、翡翠をそのままはめ込んだような透明感を湛えている。
 間近で眺めると美しさに拍車が掛かって、動揺のあまりヘアスプレーがプシっと少しだけ噴射されてしまった。

「大丈夫。もう警察を呼んだからさ」

 ニコ、と微笑んだ口元に、ようやく不審者の存在を思い出した。
 自分でも不謹慎だとは思うのだが、それほどに彼の存在が場を占領していたのだ。ハっとして不審者を視線で追い、地面に寝そべる男を見つける。カッターナイフは青年の手で弄ばれていた。

「き、君が倒しちゃったの……?」
「ン、まあね。まったく、ビックリしたよ。お姉さんの後ろをずーっと帽子被ってついてくのが見えてさ」
「ずっと!?」

 私は驚愕する。どうやら彼のいた上の階からは不審者の姿がよく見えていたのだろう。あの時呼び止めたのは私を不審者だと思っていたわけではなく、その存在を教えてくれようとしたのか。
 そう思うと走り去ってしまったことが申し訳なく、しかし謝るのも違うような気がして、ひとまず頭を下げた。

「ありがとう。その……本当に」
「こういうのは持ちつ持たれつ! 50:50……はちょっと違うか」

 ふわふわな癖毛を掻きながら、彼は笑った。
 近くで見て話すと、印象より益々幼いような印象を抱く。笑顔もどこか子どもっぽいような。口を開けると犬歯があるのが見えて、彼を余計に幼く見せる。私も少しだけ力が抜けたように笑う。

 この後警察が来たら事情聴取があるからと、彼は手慣れた様子で私の近くに凭れ掛かった。その時、初めて青年が立ち上がったのだ。
 最初は、意外と背が高くないのだなあと思ったのだ。顔が小さいので低身長すぎるとも思わなかったが、私と同じくらいの目線で――。

「……スカート」

 つい、口から思ったことがそのままに零れてしまった。
 一度目を逸らしてから、もう一度足を見る。健康的な肌色がプリーツスカートの裾から真っすぐに伸びている。私がパチパチと足を見つめていたら、彼もその視線に気が付いたのだろう。スカートの裾を摘まんでにぱっと笑った。

「ああ、コレ? よく間違われるんだ」
「あっ……ご、ごめん! 失礼だったよね」
「気にしてないよ。似合わないかな?」

 ぶんぶんと勢いよく首を振る。
 もとはと言えば私が勝手に間違えてしまっていたのだ。確かに中性的な容姿だとは思っていたが――どうして男だと思ったのかと言われれば、その勝気そうな目つきのせいかもしれない。よく見れば他のどのパーツをとっても女の子らしかったが、唯一その目が彼女の容姿をグっと青年らしく思わせるのだ。
 しかし、男だとか女だとか関係なく、その姿を見つめて思うことは一つだった。

「綺麗だもん、すごく! 初めて見た時、綺麗すぎて見惚れちゃって……」
「……ボク、口説かれてる?」
「え、あ、違う違う! ごめん、不審者じゃないから!」

 もう一度首を勢いよく振ると、彼女はクスっと悪戯に片方の口角だけをニヤリと持ち上げる。その仕草は小悪魔じみていて、私の顔にぐぐっと熱が篭った。

「なんてね。ボクは世良。世良真純」

 小さく肩を竦められて、その腕の細さに目が釘付けだ。こんな細腕で、あの男を伸したというのだから、益々驚くしかない。そう思う反面、オタクである心の根っこが「ボクっ子きましたわ〜」と頭の掲示板に書き込んでいたことも事実である。
 初めて見たあの時、彼女が光って見えたのは目の錯覚ではないのだなあ、私は不審者を足元に、美少女を傍らにしみじみと感じ入った。