03


「っあ〜……よく寝た……」

 ぐったりと布団に寝そべって大きく伸びをする。あの後、事情聴取をされて帰宅したのが午後三時。すっかり日も暮れてしまい、今が夜の十時である。ほとんど沈むように寝てしまったので、今朝あったことなどまるで夢の中の出来事のように思えた。――まあ、最近疲れのあまり夢さえ殆ど見ることはないのだけど。寝る前の記憶などほぼ朧げだ。確か、警察の人がマンションまで送ってくれたことは覚えている。

 ぼさぼさな髪を直しながら体を起こし、風呂を溜める。今朝から何も食べていないせいでお腹が大きく音を鳴らした。空腹のあまり、わき腹が痛みを訴える。唸りながら目を擦って、何を食べようかと冷蔵庫に向かう。

「冷蔵庫の中何もなさすぎるでしょ……」

 何せ、ここしばらくは栄養ドリンクとゼリーで食いつないでいたものだから、冷蔵庫の中もロクな食材など詰められていなかった。賞味期限の切れた肉や卵をゴミ箱に放って、冷凍庫を開けてなんとか冷凍パスタに辿り着く。買い込んでいて良かった。カルボナーラのパッケージを半分だけ切り取り、電子レンジの中にセットする。

 ケトルの電源を入れて、欠伸しながら水だしの麦茶を作り直した。湯が沸いたタイミングで電子レンジが鳴り終わる。粉末の野菜スープをかき混ぜ、レンジの中から熱いままの袋を摘まむ。皿にあければ、卵とチーズの香りが濃く漂った。

「……お皿洗うの面倒くさいな」

 パックのまま食べて良いだろうか。誰が見ているわけでもないし。
 一人ウンウンと頷いて、ローテーブルの上にある雑誌をバサバサと下にどかした。はあ、とテレビをつけようとしたとき、腹の音がした。食べ物を目の前にしてまだ鳴るなんて、どれだけ急いているのだか。苦笑いを零しフォークを手に取ると、また腹が鳴る。

 ――ンン?

 どうにも、私の腹から鳴っている風ではない。いや、確かに音はするのだが、下というよりは後ろから――。
 私は恐る恐る振り返る。背もたれにしていたセミダブルのベッドだ。私が脱ぎ捨てた後の布団は、山のようにこんもりとしていた。腹の音と思わしきものは、そこから鳴っているようだ。

 片手のフォークを構えて、そうっと布団を剥がした。一番最初に目についたのは、グレーの――。


「パッ……!!」

 
 驚きのあまり、叫ぼうとした言葉が喉元で詰まった。
 健康的な長い脚が投げ出されて、スカートがぺろんと捲れてしまい、レディース用のボクサーパンツが姿を現していた。うわあ、お尻小さい――ではないのだ!

「ん……」

 私の声に反応したのか、布団を剥がされて眩い光に覚醒したのか、どちらとは分からないが、体がぐぐっと大きく伸びた。私も先ほど同じように伸びをしたけれども、彼女の脚が長い所為か足元にずさんに置かれた充電器を蹴っ飛ばした。「あいたっ」、跳ねるような声と共に体が起き上がる。

 ぼさ、と癖毛が妙な方向を向いて彼女の小さな頭を多少なりと大きく見せた。

「せ、世良……ちゃん」
「うわっ! ボク、どのくらい寝ちゃってた!?」
「私と同じくらいかな……」
「大変、ママに叱られる!!」

 彼女は頭を抱えて、わたわたと携帯を探し出し顔を青ざめさせた。そこでようやくのこと、警察に行ったあとの記憶が戻ってくる。そうだ、事情聴取が長引きすぎて、待合室でぐっすりと眠ってしまっていたのだ。起こすのもかわいそうで、警察が学校に連絡を取ってくれたと聞いたので、そのままベッドを貸していた。
 私が寝ていたので、起きる切っ掛けもなかったのだろう。こんな長時間寝ているなど、よほど疲れていたのか寝つきが良いのか。どちらも言えた性質ではないが。

『――! ――――!!』
「ご、ごめんなさい……。うっかり寝ちゃっててさ、ご飯食べた?」
『――――』
「そっか。うん、うん……大丈夫だって。今から帰るし」

 ――そっか、もう十時……。高校生の女の子だもん、心配して当然だ。
 どうやら母親らしき声色は彼女を叱りつけるような言葉尻をしていて、私は申し訳なく眉を下げた。世良の肩をちょいちょいと叩く。その大きな目がこちらを振り向いて瞬いた。私は携帯を指さし、手を差し出す。彼女はキョトンとした表情のまま、私に携帯をおずおずと差し出した。

「夜分にすみません、叶山と申します」
『……叶山さん?』

 思ったよりも、ずっとハスキーな声だった。
 掠れた具合がどこか世良の声と似通っているような気もする。やや緊張しながら、私は彼女に暴漢から助けられた経緯を説明した。

「私の責任です、申し訳ありません……。真純さんは、しっかりお家まで送り届けますので」
『いえ、気にしないでください。真純が首を突っ込んだこと、未成年といえど彼女本人の責任です』

 有無を言わせない、意思の強い言葉遣いをしていた。
 ならば先ほど怒っていたのは、私が予想していた内容ではないのかもしれない。とにかく念を押すように謝り倒し――謝るのは仕事の都合上得意分野なので――彼女を送ることを約束した。最後に『よろしくお願いいたします』、などとスピーカー越しでも分かるほどに深々と頭を下げられてしまった。

「……ごめん、怖かっただろ」
「ううん。すごく良い人。帰りは車で送っていくね」
「ありがとう。えーっと、叶山さん」

 そうやって畏まられると、なんだか妙な感じだ。世良も呼びづらそうに口を動かしていたので、好きな呼び方で良いと苦笑した。そうしたら彼女の腹がもう一度鳴ったので、私は皿を引っ張り出してきてカルボナーラを半分に分けることにした。スープは粉末なので、もう一人分増やすのに手間もかからない。

「インスタントばっかりだけど、良かったら食べて」
「あはは……お腹空いてたんだ、ごめん」
「私も。ついでだからね……こっちこそ、助けてくれてありがとう」

 笑いながら、大皿に盛ったパスタとフォークを手渡す。熱いパスタを息で冷ます姿さえ、有名な映画のワンシーンのようだ。私の汚い部屋の中も、わざと汚くした映画のセットに見えなくも――。ないような。

「見えないか」
「う〜ん、美味しい! ん、何か言った?」
「なんでも……そんなに美味しい? レトルトだよ」
「本当に? どこで買ったのか教えてくれよ、ボクでも作れそうだ!」

 わくわくと声を浮かせる彼女に、近くのスーパーを教えてやる。表情が豊かな子だ。とてもじゃないが、不審者を伸した少女とは姿がかみ合わない。決してCカールを描くわけではない、ゆるやかな睫毛が頬に影を落とす。


「いつきさん……」


 ぽつりと、彼女がそう呟いた。もぐもぐと頬張る頬が引っ込んでいって、私が聞き返せば、もう一度私の名前を呼ぶ。

「そう呼んでも良い? ほら、年上だし……友達みたいに呼ぶのも悪いからさ」
「別に良いのに」
「実はいつもは気にしないんだ。バレちゃったかな」

 くすくすと笑う彼女の表情に、私もつられて笑った。皺のついた制服のシャツを見て、時間があればアイロンでも掛けてやったのだがと思う。自分の服さえロクに洗濯できていない有様だ。こんな風に人のことまで考えているなど余程間抜けのように思うものの――。

 ――でも、久しぶりだ。

 こんな風に誰かとご飯を食べるのも、人のことに目が向くことも。
 昨日――否、今日の朝までは、自分の目先のことに精一杯だった。思えば、こんな風に笑うことすら久しぶりだ。冷凍のパスタ半人前は、空っぽの胃袋には少なかったけれど、それでも胸の内は満ちているような気がする。私は彼女の姿を横目に、小さく微笑んだ。