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「お、お見合い……って、何時時代の話よ」


 私は目の前の、申し訳なさそうな父の表情に頬杖を崩した。
 折角良い具合に進んでいたパズルゲームがゲームオーバーになる音を聞きながら、ため息を零す。父は私を宥めるように、ニコニコと笑った。昔からこの柔らかな笑みには弱いのだが、今回ばかりは話をしっかりと聞かなければならない。

「いや、別にスズがずっと家にいてもらっても良いんだけどなあ。実は父さんの恩人から、どうしても一度会ってくれないかって頼まれててね、ほら、知ってるだろ……あの……」
「お父さんがNYでヤバい奴らに誘拐されそうになったのを助けてくれたって人?」
「そうそう、その人だよ。本当にあの時はまずいと思ったもんだ」

 その話は父の武勇伝――普通、武勇伝は自分の武勇を語るものである――だったので、幼いころから何度となく聞かされていた。買い物途中、人身売買をしている組織に連れ込まれそうになったのを助けてくれた男がいたと。それを切っ掛けに連絡を取り合う仲になり、彼が窮地に陥ったら絶対に助けるのだ――人の好い父は、よくそう語っていた。
 正直普段からこんな調子のぼんやり加減なので、誘拐されそうになるシーンが想像できてしまうのは困ったものだ。そのおかげで私がこうして大きく育ったわけなので、ひいては私の恩人でもあるのだろう。

「ていうか、その窮地がお見合いって何? キスしないと動物から戻れないとか?」
「そんなのだったら絶対会わせないよ。いやいや、さすがに彼じゃない、彼の部下らしいんだけどな――」

 父は用意していたらしい資料をゴソゴソと鞄から取り出し始めた。
 どこか他人事のように、その様子を眺める。お見合い、ねえ。私はポニーテイルの先を弄りながら、お笑い番組に目を逸らした。


 先に言っておくが、結婚が遅いほうではないと思う。
 まだ二十歳を少し越したばかり、世間の平均的に言えばむしろ早いほうではないだろうか。ただ、別に父の頼みだというなら無下にする気もない。特に恋愛観にこだわりはなかったので、殊更である。


 思春期の私は、それはもう――中々に荒れていて、こんな世代には数少ないスケ番女だった。口を開けば罵詈雑言、免許もないのにバイクを乗り回しては補導されていたのも、今は良い思い出だ。
 母は、私が三歳のころに亡くなった。
 父はそんな荒れ狂った私を一人で育て、慈しんでくれた。もちろん私の幸せを一番に願っていることは知っているが、一人娘でもあるし、初孫くらいは見せてあげたいなあとも思っていたのだ。

 元の性格も、父の遺伝子を一ミリと継がなかったのかと思うほどに気が強く、このまま相手を探すのも難しいと思っていた矢先の見合い話。しかも父からの頼みとあれば、余程条件が悪くなければやぶさかではない。

 父は手元から、一つのファイルを取り出した。
 開くと見合い写真――というよりは、犯罪者のプロファイリングのようにとある男のプロフィールが載っている。私はその無機質な文字に指先を滑らせた。なぜか名前は英語表記で、つい読み上げる声も無機質なものになってしまう。


「シュウ、イチ……アカイ……日本人?」
「いや、アメリカ国籍だ。父親が日本人で、言葉は問題ないそうだが」
「へぇ……」


 紙面に載せられた写真を見て、小さく頷く。
 お見合いだとか言うから余程結婚できない男なのだろうなあと思ったが(人のことは言えないけれど)、写真に映る男は決して不細工なわけでも太っているわけでもなかった。寧ろ美形の部類に入る。歳を感じる目元や頬骨は目立ったが、それでも綺麗な顔をしていた。ハリウッド俳優みたいだ。
 年齢は――三十八。私とは一回りちょっと離れている。
 生年月日を見るところ、もうすぐ三十九を迎えるようだ。こんなにも美形なのに、金遣いか女遊びでも激しいのだろうか。いや、そうだったらお見合い結婚を申し込むわけもないような気もする。

「なんでも、数年前失恋してからずっと塞ぎこんでいるんだとか。父さんの恩人も優しい人でね、彼を本当の息子のように可愛がっていると言っていた。きっと心が痛んだんだろう」
「……それ、お見合いとかしていいの? 傷ついてるなら、放っておいてあげたほうが」
「いや、彼本人からの希望だよ」

 私は、それが意外で少しだけ驚いた。
 もしかしたら、結婚しなければいけない理由があるのだろうか。それこそ子どもがほしいとか、誰かを安心させたいとか――中には同性愛のカモフラージュに結婚したいというのも聞いたことがある。それもあるかもしれない。

 まあ、だとしたら都合が良いと思ったのだ。
 見た限り好みから外れてもいない。確か恩人はFBIだとか聞いていたので、彼も悪人ではないことは窺える。年齢差はあるものの、気にすることもないだろう。私は資料をぺいっと机の上に放り、再びゲームの画面に指を滑らせた。父が困ったように「えぇ、どうするんだい」と尋ねるので、私は画面のタップを繰り返しながら二つ返事に答えた。

「良いよ、アッチが返品しなきゃね」

 笑いながらそう答えたら、父は相変わらず穏やかそうに喜んでいた。彼がそこまで喜んでくれるのならば、やはり受けてよかったと思うのだ。




 当日は、ずいぶんと冷え込む日であった。もうすぐ春だというのに、身を刺すような風がヒュウヒュウと不気味な音を鳴らす。カジュアルスタイルで良いと言われていたから友人と出かけるような感覚で服を選んだが、意外にも立派なレストランに到着して少々怖気づいた。

 レストランの前では、初老の男が立っていた。
 父はその姿を見つけると駆け寄り、軽く抱擁を交わす。綺麗に整えられたグレイヘアと上等そうなコートに、紳士的な雰囲気を感じる。歳で垂れた優し気な目つきが、私を捉える。

「やあ、初めまして。足を運ばせて悪かったね」
「いえ……父の命の恩人だと聞いていたので。その際はありがとうございます」
「いやいや、今や大切な友人だよ。礼儀正しい子で感心する」
「はは、普段はもっとじゃじゃ馬さ」

 父が少しだけ高い位置にある肩をバシバシと叩いた。こんな風に気さくそうな父の表情を見るのも久々で、本当に仲が良いのだと思った。初老の男はジェイムズと名乗った。眼鏡の奥の、窪んだ眼の奥には小さな青い瞳がキラっと煌めいている。

 三人で店に入ると、高そうなシルバー食器や厳かな音楽に驚いてしまった。やっぱりもう少ししっかりとした服装でくれば良かった、なんて後悔をしていたら、それが表情にも現れていたのだろう。ジェイムズが小さく耳打ちをした。

「ここは知人の店でね、大丈夫。用意したのも個室だ」
「銀座の一等地に知人の店なんて……」
「留学に来ていた時、麻薬の売人に間違えられていた誤解を解いたことがあったんだ」
「恩人になりすぎでしょ」

 この調子だと、他にもいるのだろう。彼は軽くウィンクを飛ばして誤魔化していた。
 店の奥へと案内されると、ジェイムズは自分たちは外にいるからと扉を開ける。それに小さく頭を下げて、私は部屋の中に足を踏み入れた。

 大きな窓がある部屋だった。
 個室以外の部屋はオレンジがかった柔らかなランプの灯りに包まれていたが、その一室だけは大きな窓が日差しを取り込んでいる。白んだ日差しが、テーブルクロスの白さを際立たせていた。伸びた影を追うように視線を上げると、その中に座った黒い男がゆっくりと振り返る。

 写真で見た時より、痩せているように思う。翡翠の瞳が私を捉えて、切れ長な目がほんの僅かに見開かれる。癖の掛かったブルネットが揺れて、浅く呼吸をしたのが分かった。

 沈黙のまま、彼は僅かに腰を浮かせた。
 どうしてだか、まるで私を見て驚いたように、テーブルに手をつく。しかしすぐに肩を上下させると、小さく微笑んだ。思ったよりも、柔らかく笑うのだなあと、私は彼を見つめていた。