02



 彼があまりに柔く微笑んだものだから、つい言葉をなくしてしまった。
 立ち尽くす私に、彼はハ、と我に返ったように咳ばらいをする。それを合図に、私も固まった体を動かした。テーブルのほうに歩み寄ると、男は背広を軽く直しこちらに手を差し伸べた。

「赤井秀一だ」
「……小山内スズです」

 柄にもなく、少し緊張していた。
 彼の声色が思いの外低く掠れていただとか、立ち上がると私の頭を二つ分重ねたほどの背の高さに驚いただとか――要因はいろいろとあったが、どぎまぎと差し出された手に己のものを重ねた。冷たく、乾燥した掌だった。皮が厚いせいだろうか。少し触れただけで、滑らかな手ではないことが伝わる。

 赤井はそのまま私の背後に回り、椅子を少し引いた。エスコートしてくれたのだと気づくまでワンテンポ遅れてしまって、「すみません!」と大きな声が零れた。こういうことには慣れていない。彼の手慣れた仕草と落ち着いた物腰に、ジワジワと羞恥心が湧いてくる。

 腰を屈めてウェイターのように椅子を押す。耳元で低い声が尋ねかけた。

「飲み物は? 何か頼もうか」
「あ、いや〜……アハハ。ごめんなさい、私こういうところ慣れてなくて」
「なら紅茶にしよう。メニューにはないが店長の趣味で良い茶葉が充実してるんだ」
「紅茶!」

 彼の言葉に、私はパっと顔を輝かせた。持ち上げた視線が赤井の翡翠の瞳と交わる。赤井は可笑しそうに眉を軽く下げながら笑った。ギクリとして顔を下げると、くつくつと笑いながら彼も席に着く。
 実は酒があまり得意ではなかったので、有難い。フレンチだと聞いていたので、ワインを嗜むと思い漢方薬を飲んできたくらいだ。紅茶だったら、無理なく料理を楽しむことができそうだと思った。

「……外は、冷えたか」

 ふと、彼が口を開いた。まあ、そうか。これはお見合いだもの。
 当たり障りなく答えようと思って、「冬ですからね〜」なんて返したら、少しだけ寂しそうに苦笑された。素っ気なさ過ぎただろうか。
 なんだか彼の皺が寄った目じりが下がると罪悪感を覚えて、今度は私から話を切り出そうと思った。当たり障りのない――当たり障りのない――。


「あ〜……っと……。ご職業は……」


 いつだかドラマか漫画で見た台詞を零すと、彼は頬杖を突きながら驚いたように視線を遣した。だが、至って穏やかに窓の外を眺めながら答え始める。

「FBIだ、もう前線は退いてしまったが」
「そういえば書類に……。すみません、被らせてしまって」
「いや、構わない。あんな紙ぺらじゃ人を知るなんて到底無理だ」

 私がまともに書類を読んでないことが分かったというのに、赤井は薄く口角を持ち上げて、初めて会った私から見ても機嫌が良さそうだということは分かる。どうやら質問されるのを喜んでいるようにも思えたので、私はそのまま質問を続けることにした。

「FBIって、ドラマとかで観るような仕事するんですか」
「ああ、まあ――そうかな。悪い、ドラマはあまり観ないんだ」
「へぇ。私は好きです、ああいうのハラハラするけど面白くって!」
「そうか。今度面白いものがあれば教えてくれ」

 返事は淡々としていたが、思いの外彼と話すのは苦じゃなかった。
 返事の一つ一つは分かりやすく丁寧であったし、何より私の話を興味深く聞いてくれているのが表情から伝わったからだ。何度か質問をしていくと、彼はFBIでスナイパーをしていたのだと話してくれた。私はそれを聞いた瞬間に身を乗り出して声色を黄色くする。

「すっごーい! めちゃめちゃ格好いい〜!!」

 大きな声が個室の中に響いた瞬間、料理が運ばれてくる。ウェイターが大きな皿にチョンと乗ったスープの説明をしてくれて、私はすごすごと腰を下ろした。あまりにミーハーなことを言ってしまったものだから、個室の外に聞こえなかったら良いのだが。

 赤井は口元を覆って、肩を揺らした。
 ――よく笑う人だ。そういう印象があった。口を開けて笑うようなことはなかったけれど、かみ殺すような笑い方をする。肉のない頬に手をつくのも、もしかしたら癖なのかもしれない。大きな手が頬を覆うと、口元がぐにっと引き延ばされるのだ。

「スナイパーが好きか?」
「好きっていうか、うん……。映画が好きなんです。アメリカンスナイパーっていう」
「ああ、あれは良いな。すごくクールだ」
「やっぱりプロから見ても格好いいんですね〜、うわうわ、すごいなあ」

 目を輝かせながらスープ用のスプーンを取って、浅く盛られたそれを掬った。冷製スープは僅かにトウモロコシの風味がした。「あ、もちろん赤井さんも格好いいですよ」と付け足せば、彼は手慣れた風に笑いながら軽く礼を述べたのだった。



 料理が全て下がり終えると、お互い何も言わなかったが荷物を纏め始めた。そういう無駄のないあたりも居心地が良く、今回のお見合いは実際に籍をいれなかったとしても受けて良かった――そう思えるくらいには赤井のことを気に入っていた。

 まるで以前からの知り合いであるかのように、彼とは話が尽きなかった。映画の話も、仕事の話も、料理の話も、なぜか妙にしっくりとくるようなことばかり話題に出すのだ。私も気遣いなく話すことができて、時間が過ぎるのがやけに早く感じたものだ。

「今日はありがとう、楽しかったよ」
「こちらこそ、ありがとうございました。赤井さん話しやすくて助かりました……結構、おしとやかさがないって呆れられること多かったから」

 さらっと私の鞄を片手に持ってくれる彼の後を追う。店の外に出ると、彼は白い吐息を一つ零して、空を見上げた。風景を見るのが、好きなのだろうか。


「――じゃじゃ馬の扱いに、慣れているだけだよ」


 微笑んだ彼の視線に私は入っていない。
 まるでかつて居た誰かを懐かしむような、遠くに向けた眼差しだ。その表情に父が話していたことを思い出す。忘れられない人を引きずっている、ということか。ならどうして、今回私にお見合いを申し込んだりしたのだろう。

 ――私がその人に、めちゃめちゃソックリとか……。

 そんなドラマチックな展開があるのかとも思うが、それ以外に理由が見当たらないのだ。最初からその前提で会っていたから、傷心しているわけではない。それを尋ねるのが無粋だと思いながら、気にかかった。もしそうだとしたら、私と話していて心が少しでも晴れると良いと思った。
 ストールを首に巻く彼に駆け寄り、私はニコと口角を持ち上げる。コートを羽織った腕を引いた。白い肌が、冷気に触れて僅かに赤く染まっている。横から見ると、その鼻の高さと目元の窪みが際立った。


「また会いましょ。映画とか、観に行きます?」


 映画はちょっと臭かったかもしれない。今日の食事のお礼に、と付け足せば、やはりその視線は驚いた風にキョトンと丸くなる。実家の飼い猫の表情にソックリだ。よく、物を落とすとこういう顔をして私を見てくる。猫の目は琥珀色だけれど――。

「……良いのか」
「え、なんでそんな不安そう?」
「こんな歳の離れた男と一緒にいるところを、知人の目に触れさせたくないだろう」

 当然のようにそう言われて、もしかすると今日個室を取ってくれていたのはそれが気がかりだったのかと驚いた。こんなに立派な体躯をしているのに、意外と繊細なのかも。そう思うとなんだか可愛く思えてくる。
 私はアハハ、と声を上げながら笑う。ぺし、と軽く背を叩くが、彼はビクともしなかった。

「超格好いいもん。オジサンでも全然良いですよー」

 歯を見せてそう笑えば、赤井もやはり穏やかに頬を緩めた。微笑んだ時に一緒に吐息が白くけぶって、彼の表情をぼやかして見せる。やっぱり、よく笑う人だ。そしてその笑顔を、嫌いではないとも思う自分がいるのは確かだった。