03


 鼻歌が零れる。伸びた髪の毛を柄にもなくコテでワンカールにしながら、鏡の中の自分を見つめた。あの後連絡先を交換した赤井と、今日は映画を見に行く約束をしていた。彼は見た目通りというか、メールなどとんと返さない性質のようで、だけど私にはそれがやけに落ち着いた。今日までに交わしたやり取りは、日程と今日は迎えに行くから家で待っていてほしいという要件のみだ。

 髪を整えて、最後にピアスをつける。なるべく厳つくならない、華奢なチェーンのものだ。耳の穴に差し込んでいると、遊んでいると思ったのか猫がじゃれついてきた。腹を撫でて嗜めながら、内心赤井の顔を思い浮かべていた。

 あんなおじさんに、猫だなんて例えるのも可笑しいだろうか。
 きっと本人に言ったら笑われるだろうと思う。しかしどうにもあの目つきというか――。

「うにゃっ」

 腹を撫でる手を止めると、じゃれついていた猫が琥珀色の瞳を丸くして私を見上げる。そうそう、この表情にソックリだったのだ。考えれば考えるほど口元に笑みが零れてしまって、今日の映画が楽しみになっていく。観る予定なのはゾンビもののB級映画。監督はガンオタで有名だが、ぜひとも本職のスナイパーから感想を伺いたいところだ。

 赤井から家の前で待っていると連絡が入り、最後に香水をつけて家を出ようと思った。普段はあまりつけないので――どこにあったろうか。がちゃがちゃと雑多にしまわれた化粧品たちの中を漁る。割と昔に、モテ香水とか謳われているのをそのままに信じて買った覚えがあるのだが。ピンクのパッケージの――。

「あった!」

 ベビーナントカとか言ったろうか。試しに手首に出してみたら、もう噴出口が駄目になっていたのか、割と濃いままの液が手首に垂れた。スン、と匂いを嗅ぐ。少し匂いがキツいような気もするが――まあ良い。

 愛猫の額を最後にかいぐり、鞄を持って玄関を出た。
 赤い外車に凭れるようにして煙草を吸っていた男は、玄関が開く音にぴくっと視線を遣し、慌てた風に煙草を消した。

「私も吸います。良いですよ」

 笑いながら鞄に入ったメビウスをちらつかせたら、赤井は少しだけ意外そうに「そうか」と頷いた。




「えぇ、私のこと未成年だと思ってたんですか!?」

 ハンドルを握る男を勢い良く振り返ると、彼は気まずそうに苦く笑って、小さく小さく頷いた。彼の方から見合いを申し出たと聞いていたが、やはり間違いなのだろうか。未成年だとしたら、彼が私と出かけることを躊躇していたのにも納得がいく。

「ああ、すまない。日本人というのは、どうにも童顔で……」
「そういうものですかね」
「てっきり不良少女なのかと」

 ――それは間違っていない。煙草だって、初めて吸ったのは中学生だった。
 痛いところを突かれて押し黙ると、赤井はそれすら見越したように快活に笑った。笑われたことに少し拗ねたような態度をとれば、彼は咥えていた煙草を灰皿に押し付けて懐かしそうに笑う。


「そうか。いくつになった?」
「二十二だけど……」


 急にブレーキ音が激しく鳴る。反動で前のめりになるのをシートベルトが押さえて、代わりに鞄を足元に落とした。「うわ」と声を零して赤井のほうを振り返れば、彼は翡翠の瞳を丸くして、ゆっくりと眼を瞬かせる。横から見ると、意外にもまつ毛の長さに驚く。艶やかなまつ毛の束からグリーンの虹彩が現れて、その中心で黒い瞳孔が光を吸収していた。先ほど押しつぶした煙草の香りは嗅ぎなれないものだった。


「二十二歳?」
「あ、うん……そうだよ」
「そうか、二十二……」

 
 彼は何度も確認するように呟いた。
 私はそんな姿に、訝し気に首を傾げる。というか、言葉もなんだか妙だ。普通会ったことのない女に「いくつになった=vと聞くだろうか。まるで、以前の年齢を彼が知っているような言い草だ。

 だが、彼は自身で納得いったように頷き、それ以上尋ねてはこなかった。
 私はその理由が分からずモヤモヤしたままだったが、彼が別のことを話題に出し始めて、その出来事さえ頭の隅に追いやられてしまう。世間話だった。最近何をしていたか、仕事はどうだ、寒い日におすすめの日本食はあるか。言葉はそれほど多くないのだが、話題に尽きない彼との会話に、僅かな違和感すら「まあ良いか」という気持ちになってしまったのだ。

 途中で寄ったカフェで、テイクアウトのコーヒーを奢ってくれた。
 私が無糖では飲めないと言えば、彼はまた意外そうに笑いながら、店まで戻ってミルクを貰ってきてくれた。わざわざ良かったのに。そう告げると「俺がしたかっただけだ」なんて気障に言うのだから、照れくさかった。

「でも、赤井さんがブラックコーヒーなの、なんか分かる」
「そうか」
「だって、黒ばっかり着ているじゃないですか。今日も黒色」

 黒いコートを軽く抓るように触れると、赤井は苦笑いしながらコーヒーを軽く傾けた。固そうな唇が飲み口に当たると、案外柔らかそうにふにりと歪む。

「黒が好き?」
「いや、昔は仕事の都合でよく着てたんだが――クセになってしまってな」
「ああー! スナイパーだから、目立つ色は厳禁なんですね。かっこいー!」
「実は黒も厳禁なんだ。渋いグリーンとか、茶とかが良いだろうな」

 へえ、と興味深く頷けば、彼もそのまま言葉を続けた。
 コーヒーを飲み終えた口元から零れた吐息は、温度差で白く煙をあげるように染まる。

「人間の目は本能で黒い影を追うように出来ている。夜道でも、蝙蝠やカラスが飛ぶのがなんとなく見えるだろう」
「そう言われれば……。灯りがなくても草の影とか見えたりしますよね」
「溶け込むように見えて、案外目立つ色なのさ。厄介なものだ」

 なるほどと相槌を打って、私の頭にはならば仕事上黒を着なければいけない理由とは何かと疑問が生まれた。はぐらかされたのか、そうでないのか。分からなかったが、きっと怒ることはないだろうと好奇心のまま尋ねてみる。
 すると、赤井は口角を持ち上げて「何故だと思う?」と意地悪っぽく聞き返した。
 なんだろう、仕事上黒を着なければいけない理由。今まで見たアクション映画のスパイたちは、確かに黒い服を着ているようなイメージがある。目立つのに黒を着る――ということは、黒で隠れる理由があるのだろう。
 十秒ほど間を空けて、私はパチンと両手を打った。


「分かった、返り血を浴びても目立たないように! なんて……」


 冗談のつもりだったのだ。
 赤井ならば、きっと可笑しそうに笑って「そんなフィクションじみたことがあるか」と言ってくれるかと。しかし返ってきたのは然も図星かのような沈黙で、私は冷汗が背中に伝うのを感じた。え、本当に? そんなダークな理由で彼は今黒色を身に纏っているのか。
 確かにアメリカは銃社会なんていうけれど――。悶々と笑顔を固めたまま考えていたら、運転席で赤井がぶはっと息を零した。

「ははは! 悪い、冗談だ。そんな顔をするなよ」
「な、なーんだ……。めちゃビビりましたけど……」
「大体スナイパーが返り血を浴びるような距離にいてどうする」
「確かに〜……。それもそれでリアルで怖いですよ」

 胸をトントンと落ち着かせるように叩いて赤井のほうを見ると、彼は軽く肩を竦めて口元をニヤリとさせた。新しく咥えた煙草に、一体何本吸うのだかと内心呆れながら、私も一本貰うことにする。煙草を咥えると、ライターを貸してくれたが、オイルライターなんて初めて見たので今度はそちらに興味を注がれてしまった。シルバーの装飾は、彼の手元で光ってとても様になって見える。あまりに大事そうに、繊細な手つきで火を点けるものだから、煙草に対して「良いなあ」なんて呟いてしまったのは、彼に聞こえていないと願う。