04



 映画までの時間が、まだ少し空いている。映画館でチケットを発券してからは、周りの店を見て回った。赤井に見たい店があるかと尋ねると、笑いながら最近はめっぽう煙草しか買わないのだと言った。

「じゃあ服とかはどうしてるんですか?」
「昔のを着まわしているか、上司から譲ってもらったか――年に一度コートを仕立てるくらいだ」

 ぴら、と以前も羽織っていたコートの裾を摘まむようにして赤井は言う。男物ってそんなものだろうか。服なんて流行がくれば変わるし、一シーズンが終わったら次のものを買わなくてはとある種使命感に駆られるのに。私は今日着ていたニットのワンピースを見下ろした。高いものでもないので、少しだけ毛玉ができている。
 そんな私の顔を見て察したのか、彼はまた声を上げて笑う。

「女性は歳を取れば似合うものも変わってくるんだ。今の年齢から気にすることはない」
「すごい。映画の格言みたい」
「君が監督をしてくれれば嬉しいが?」

 ふ、とニヒルに笑いながら言われて、私も一緒になって笑ってしまう。
 別に軽そうではないのに、その一言がユニークで気分が軽くなる。風貌は寡黙で気の強そうな感じであるので、ギャップになって自分の中の好感度がグンと上がる。

 テンポの良い会話を楽しんでいると、私は一つの店に目を留めた。

 私の視線を追って、赤井も透き通った瞳にその店の看板を映す。街中にいくつもあるゲームセンターの一つだ。先ほどまでもう少しブランドショップが並ぶ通りだったというのに、彼と話しているうちに外れた所まで歩いてきてしまったらしい。

「入りたいのか?」

 赤井が尋ねる。学生の頃はよく入り浸ったものの、別に今入ってどうするわけでもない。首を横に振ろうとして――ふと思った。赤井がゲームをしているところを見てみたい。上手かったら上手いでただ格好いいだけだし、下手であっても年相応で可愛いと思う。なんだこれ、私に得しかないじゃないか!
 そうと決まればすぐに行こうじゃないか、私は頷き彼の腕を引いた。一瞬戸惑ったのだろう。その体は重くかたく、踏み出した足がバランスを崩す。大きな手がぐっと私の背を抱えて「おいおい」と焦ったように息をついた。

「わあ、すごい安定感……ありがとう」
「まったく、せっかちだな――。ほら、行くんだろう」

 笑うと、目元の皺が深くなる。
 その皺が彼の優しさを現しているようで良いと思った。すっと腕を差し出されたのには驚いたけれど、私はその腕に手を回してご機嫌に歩き出す。見ているよりずっとがっしりとした腕だ。固くて、重たい。彼の体の一部なのだと再確認した。


 店の中に入ると、自然の中では生まれないような騒音ががちゃがちゃと頭を揺らす。ライトや目立ちやすい反射板、液晶の灯り。私は慣れているが大丈夫だろうかと覗き見ると、赤井は案外平然として店内を見渡した。

「なんだ、意外と慣れてるんですね」
「何を想像したのか聞かせてもらいたいところだが」
「いーえ、なんでも……。どれならやれるかなあって」

 奥にあるゲームを眺めるように誤魔化すと、腕を引いてクレーンゲームのほうへ駆け寄った。やったことがあるかと尋ねると、ゆるりと首を振った。百聞は一見に如かず――。私は財布から百円玉を取り出して、手本を見せる。大きな――毛玉か、コレ――よく分からないぬいぐるみは大きいクッションのような形をしていて、重たそうだ。アームで引っ掛けても、ぽろっと下に落ちてしまった。

「ホォー……。ここの穴に落とすのか」
「そうそう、穴に落とすと貰えるんです」

 赤井が興味深そうにケースの中の毛玉を眺める。上から、横から、斜めから。アームとの距離を測ると、彼も一枚百円玉を取り出した。赤井の動かすアームが、真っすぐに毛玉へ向かう。真上、ど真ん中。誰がどう見てもドンピシャな場所にアームが降りていく。
 ――が、アームはその重さに耐え切れずに毛玉をどさっとひっくり返した。ひっくり返した場所も毛玉だった。

 赤井が不思議そうに首を斜めにする。眉が小さく顰められている。

「……インチキだろ」

 零れた言葉は意外にも拗ねたようなニュアンスを含んでいて、口の中で笑いを我慢する。噴き出すのを堪えたまま「引っ掛けて寄せるんだよ」とアドバイスすると、真剣な表情でもう一枚百円を投入する。

 空間を認識する力が鋭いのは、やはりスナイパーという職業柄だろうか。
 二、三度復習するとすぐにコツを得たようで、軽々と重たい毛玉を一つゲットしてしまった。それを抱えて、何てことないような表情でこちらに手渡してくる。

「ほら」
「……すご、ここのアーム設定弱いんですよね〜」

 感心しながら毛玉をもふもふと抱いた。前方に二つ、つぶらな目がついている。近くにぶら下がっているビニールを拝借して抱えながら、私は彼に礼を述べた。欲しい――というわけでもなかったが、彼の記念すべきクレーンゲーム第一号だ。渡してくれたのだから、大切に貰っておこう。

「ねえ、赤井さんって逆にできないこととかないんですか?」

 ぴこぴこがちゃがちゃと音が鳴り響く中、自分の声が掻き消されないように少しだけ背伸びをする。彼は腕時計を見て私の手を引きながら店の出口へ向かった。そろそろ映画の時間が迫っていたからだ。
 少し考えるように間をおいてから「ある」と軽く笑った。あるという割には、妙な間が長かったように思うが。

「……本当に?」
「本当だとも」
「じゃあ教えてくださいよ」
「結婚」

 あはっと声を上げながら彼を見上げる。赤井の表情は思いの外真剣で、私は焦って口を閉ざした。今のは笑いどころじゃなかったのか。

「冗談だ……そんな気まずい顔をするなよ」

 口を閉ざした私に、彼は輪郭に対して小さめの口を微笑ませた。赤信号。足を止めた。信号が変わるのを待ちながら、彼は一つ白い息をくゆらせた。

「この年になっても、できないことが山ほどある」
「料理とか」
「料理はできる。とある任務で習ってね……肉じゃがくらいならお手のものさ」

 意外な料理名が飛び出てきた。FBIの任務で肉じゃがを作ることがあるなんて、一体全体どんな任務だというのだ。赤井が鍋の前で調理している様も、想像に難い。
 よほど解せない顔をしていたのだろう。赤井は目を細めて「そんなにか」と項を掻く。
 私は他に思い当たる事項を上げていく。掃除は? できると答えられた。勉強、できる。スポーツ、できる。経済管理、できる。

「……やっぱりできないこと、ないんじゃないですか?」

 幾つか同じような問答を繰り返し、私はジトリと赤井のほうを睨み上げた。彼は出っ張った頬骨を持ち上げて笑う。ゆるやかに首を振ると、静かに言った。

「ゴミの仕分けも適当だし、車の灰皿も片付けられない。誰かに起こしてもらわないと、昼過ぎまで寝てる。料理はするが、酒と煙草で日が暮れるときのほうが多い」
「そんなこと言ったら、私だっていっぱいありますけど……」
「ああ、そうかもしれないな」

 彼は小さく肩を竦めて、私のほうをチラと見下ろして微笑んでいる。オールバックにした額から零れた癖毛が、ふわっと揺れる。もともとアイラインを引いたような鋭い目つきが、何かを懐かしむようにゆっくりと瞬きをした。


「君に知っていてほしい。できないことも、できることも」


 その声色は不自然なほどに優しく、しかし大切なものを扱うように「スズ」と名前を呼ばれて、ドキリとしたのも確かだった。私はぽっと赤く染まる頬を隠すように頬を掻いて、小さく頷いた。