05



 エンドロールが流れるのを見て、私はぐぐっと背を伸ばす。
 席を立つ人もちらほらといる中、ちらりと横を見ると赤井は真剣な眼差しでスクリーンを見つめていた。私も映画は最後まで観たいほうなので有難い。ゆっくりと背もたれに体を預けて、英字だらけのスタッフロールを眺める。

 予算が低いだけあってアクション要素は地味だったが、全体を通して良いと思える映画だった。スナイパーのクールな雰囲気とおっちょこちょいなスパイの掛け合いも良かったし、読みやすい展開でも飽きなかったのは登場人物に魅力があったからだ。あとでパンフレットも記念に買っておこうか。そうこう考えているうちに劇場が明るくなる。

 私は手元に置いたドリンクを持ち、立ち上がる。
 暫く待っても赤井が同じように立ち上がる素振りがなくて、首を傾げて彼を呼んだ。赤井は私の声にハっとしたように顔を上げ、頬杖をついていた腕を外した。てっきりスクリーンに釘付けだったのかと思ったが、違うのか。

「すまない。ぼんやりしていた」
「大丈夫ですけど……疲れちゃいました?」

 確かに先ほど散々街中を歩き回ったしなあ、と尋ねると、彼はゆるりと首を振った。手に持っていたコートを翻して羽織りながら、コツンと足を踏み出し始めた。私も倣うように出口へ向かって歩き始める。

「……なんか、ありました?」

 明らかに劇場に入る前とは雰囲気が違う。もとより血色の良い男ではないが、顔色が悪いようにも思えた。痛む頭を振り払うように一度首を横に振って、眉間に寄った皺を指が揉んだ。

「目が疲れただけだ」
「運転変わります。住所教えてくれれば……」
「いや、君が気にすることじゃない」

 凝り固まったような口角が、僅かに持ち上がる。
 私は少しだけその様子に腹を立ててしまった。今は大分丸くなったと言われるけれど、元の性格が短気なことは自覚していた。だから何とか「こんなの怒るようなことじゃない」と言い聞かせ、自分を宥める。人間だれしも言いたくないことの一つや二つあるものだ。

 しかしその後イルミネーションの光る街並みを、彼はぼんやりと眺めて歩く。その雰囲気に耐えきれないまま、もう一度どうしたのかと聞くと、赤井は「しまった」という色を寡黙そうな顔に浮かばせた。
 やっぱり、顔色も悪い。先ほどまでしっかりしていた足取りもどこかふらついているし、体調が悪いのではないだろうか。そう思って声を掛けようとしたら、赤井が急に小走りに駆けだした。

「あ、赤井さん!?」

 驚いたままに、しかし先ほどの様子を見ている限りただ事でもないような気がして、慌てて彼の広い背を追った。暗い夜道に彼の黒い背中は溶け込むようだったが、革靴の音が特徴的でなんとか追いつくことができた。
 軽く息を切らし、辿り着いたのは公園だ。さほど広くもない、マンション街の公園だ。遊具も滑り台とぐるぐるにチェーンが巻かれたブランコくらいしかない。その茂みの片隅に、蹲る黒い背中を見つけた。

 周囲の人間から頭がポコリと浮くほどに高い身長と、触れた時の重い感触すら見失ってしまうような、こじんまりと丸まった背中だった。

 つい、声を掛けるのに戸惑った。
 何度も嗚咽をこみ上げさせるような背中の動きに、見られるのは嫌かと思った。けれど放っておくこともできなくて、そのコート越しにそっと手を置く。

「……大丈夫ですか?」
「うん、ああ……。情けないところを見せた」
「気にしてません。できることもできないことも、知ってほしいんでしょ?」

 小さく笑いながら、ぽん、ぽんと柔い手つきで背を叩いた。
 ポツンと一つの街灯だけに照らされた公園の中は暗くて、とてもじゃないが彼の顔色を窺うことはできない。隅にあった鳥糞だらけのベンチに彼を座らせて、私も横に腰を下ろした。

「敷いてくれ」

 彼が羽織っていたコートを脱いで差し出してきたが、キッパリと断る。体調の悪い人に寒い想いをさせてまで、自分の服を守りたいとも思わない。少し気合の入った服装なのは確かだけど、今は目の前の彼が優先だ。
 その旨を顔を顰めながら話せば、彼は苦笑しながら頷いた。笑顔には、先ほどよりも覇気が戻っているように思う。内心胸を撫でおろした。

「薬買って来ましょうか」
「いや――大丈夫だ。自分で持ってる」

 にこやかに、彼はポケットから煙草のケースではないレザーケースを出した。今は服用する気はないらしく、私にちらつかせてから再びポケットの奥へと突っ込む。常備薬があるということは持病なのか。だとしたらそれくらいは知る権利があるのでは――そう思うのは烏滸がましいことか。
 頭の中で思考がぐるりと一周する。だけど、このまま触れないのも隠し事ばかりで気味が悪いとも思えて、私は引き結んだ口を開いた。

「あの、手伝えることがあれば先に言ってください」
「手伝える?」
「何かあった時に水が欲しいとか、座らせてほしいとか――。もしこの先も会ってくれるなら、教えてほしい。会う気ないなら言わなくて良いですから」

 項を掻きながら伝えると、赤井は少しだけ目つきを細くした。それから煙草を取り出して、すう、と大きく息を吸い込む。

「吐いた後にそれって大丈夫なんですか?」
「どんな薬より効くよ。医者からは止められたが、頭が冴える」

 ぽかりと器用に雲のような煙を吐き出してから、背もたれに軽く凭れた。足を投げ出して、長いため息をつく。煙が一緒に零れていった。


「情けないが、前線を退いた理由はこれだ。銃声が聞けない」
「……銃声」
「FBIは何もドンパチやることが全ての仕事じゃない。だがスナイパーとしては致命傷でね」


 そう肩を竦めて、自らの指先を見つめる。翡翠の瞳は夜の闇の中だと目立たない。黒を吸い込んでいるように窪んだ眼に見えた。

「じゃあ、なんでアクション映画に付き合おうとしたんですか」

 最初から、あんな映画見なければ良かった。不意打ちならまだしも、あのアクション映画内で銃声が聞こえることなんて子どもでも予測できる。ポスターに立つ二人は紛れもなくたくさんの銃器を手にしていた。
 すると彼は意外にもあっけらかんと笑いながら、そのあと照れくさそうに煙草の灰を落とした。


「そりゃあ、君と映画を観たかったからだ」


 私は間抜けに、小さく口を開いた。
 なんだ、それ――。そんな理由で、自分がこれほどに苦しんでいるというのに。頬杖をついて、目を細めて笑った。目元に皺がくっきりと寄る。冷たい空気なのに、彼の眼差しは私にはあまりに熱い。そんな、恋をしているような――情熱的な色を孕んで揺れている。「そっ」――声がひっくり返った。


「それで体調悪かったら、世話ないでしょ……」

 
 恥ずかしいようなくすぐったいような心を、呆れるようにため息をついて誤魔化した。赤井はクツクツと喉を鳴らして「確かに」と頷いた。彼は吹く風が冷たいことに、たった今気が付いたようにブルっと身を震わせる。

「風邪を引くな」
「あはは、赤井さんがね」
「親父を揶揄うな。君も今に分かる、寒さが染みるのを」

 煙草を足元で磨り潰しながら、腕を擦った。私はその仕草がどうにも年寄り臭いのを指をさして揶揄ってやる。
 今度は彼も見れるような映画を選んでおこう。純愛ものって風でもなさそうだし、案外コメディとか――学園ものも新鮮で良いかもしれない。アクションでも時代ものだったら楽しんで見れるだろうか。忍者とか、侍とか。それを考えるのも思いの外楽しく、助手席で煙草を咥えながらご機嫌に色々な映画を提案した。
 あれやこれやとあらすじを音読していたら、赤井はどこか懐かしそうに「そうだな」と一度だけ相槌を打ったのだった。