06



 コタツの中の足をもぞもぞと動かして、大きな欠伸をすると、父親が呆れたようにミカンを抱えて反対側に潜った。ごろごろと机の上に転がった果実に素直に喜びながら皮を剥き始めたら、「赤井さんに嫌われるぞ」と言われる。今それを引き合いに出さないでほしい。苦笑いしながらスジを摘まんだ。

「彼はどうだい」
「良い人だよ、格好いいし面白いし……」
「まあ、急いて結婚をしなくても良いがね。あとはスズが決めなさい」
「あんま中途半端なのは失礼だしね、ちゃんと決めるよ」

 笑いながら一房口に放り込むと、父も笑った。
 最初は殆ど父親のために惰性で受け入れた見合いではあったが、赤井のことを嫌いじゃない。寧ろ、自分の心のメーターは好きに傾いているだろう。見た目はもちろんだが、話しやすく年の差を感じさせない気さくさがある。時折見せる少し幼いような照れ笑いも可愛いし、何より――。

「……なぁんかな」
「ん、どうした?」
「うーん……。なんか変な感じ。まるで会った時から私のこと好きみたいっていうか」
「そりゃあ、スズは可愛いからなあ」

 はいはい、と父の戯言には適当に相槌をしながら、私はもう一房を噛みしめる。程よい酸味が口の中にすっきりと広がっていく。

 先に言うが、私の見た目は特出して整っているわけではない。両親から受け継いだ容姿を嫌いなこともないのだが、赤井のようなハリウッド級の顔面偏差値と比べれば背景と同化するモブも同然である。レオナルド・ディカプリオだとか、ジョニー・デップだとか(赤井はそこまで歳ではないが)と一緒にいると言っても過言ではないのである。
 日本人らしい童顔が好きなのかもしれない――というには、私の顔は丸く可愛らしいタイプでもなかった。

 FBIというからには頭も良いのだろう。私は中卒、フリーターを経てようやく正社員に漕ぎつけたところだ。知性が合うわけでもなさそうだ。

 しかし――どうにも、出会いがしらから気に入られているような風なのは気のせいではないだろう。若い女が好きだったり――そう思うようなタイプでもない感じもある。


『そりゃあ、君と映画を観たかったからだ』


 顔がポポっと熱くなる。あんな風に吐きそうになってまで、私と映画を観たかった理由――それが何の意思表示なのか分からないほど鈍感な人生を送ってきていない。ただ、それでも結婚をどうしようかと思うのは、彼がそこまで私を好いてくれる理由に心当たりがない所為だった。

 私はゴロンと上半身を卓上に突っ伏して、スマートフォンを弄る。検索欄に、彼のことを知りたくて【トラウマ 吐き気】と入力してみる。

「……PTSD?」

 検索の候補欄に出てきたのは見慣れないアルファベットの並びだ。【心的外傷後ストレス障害】、と日本語が並んでいる。サイトをタップしてみると、説明文がずらりと並んだ。

「ポスト、トラウマチック……なんて読むんだろう」

 サイトの文章には、次のように続いていた。
【強い精神的衝撃を受けたことが原因で、苦痛や不安反応、記憶消失など生活への障害をもたらすストレス障害である。フラッシュバックや記憶喪失、トラウマを想起させるものへ過度な拒否反応を起こすことがある。】
 私はそれをスクロールしながら、赤井の姿を思い浮かべた。確かに映画の中でも、退役した軍人が悪夢を見たりというシーンも多くある。FBIの中にも、そんなに危ない任務があったのかもしれない。

「何があったんだろう」

 苦しいことだったのだろうか。
 悲しいことだったのだろうか。
 嫌なことを忘れられないなんて、まるで悪夢の中を泳いでいるみたいだ。スマートフォンをぺたんと裏返して、食べかけのミカンを指先で転がす。その原因を暴きたいとは思わないが、彼が苦しい時に傍にいるのは自分が良いとは思うのだ。

「……はあー、会いたいなあ」

 次に会えるのは、彼の休日に合わせて来週末だ。たった二回会っただけの人に運命を感じるのも子どもっぽいかもしれない。それでも、あの照れたような笑い方や、熱っぽく見つめる眼差しに触れてみたい。
 そんなことを考えながらぼんやりしていたら、瞼が重たくなってきた。コタツの中で眠ってしまったら、また父に怒られてしまうなあ。心の中では反省しながらも、落ちてくる瞼はお構いなしに私を夢の中へと引きずり込むのだ。





 次に目を覚ましたのは、スマートフォンの振動に机が唸るような音を響かせたからだ。はっとして時計を見ると、もう夜の八時を回っていた。居眠りしたのはまだ夕方ごろだったので、大分眠ってしまったようだ。コタツの電源は抜かれている。見かねた父が抜いたのだろう。

「……って、違う、電話!」

 私を揺さぶり起こした振動源を手に取る。通話ボタンを押すと、低い声が私の名前を呼んだ。

「赤井さん?」

 聞き覚えのあるハスキーボイスに画面を見直す。そこには確かに彼の名前が表示されていた。慌ててスマートフォンをもう一度耳に当て、「どうしたんですか」と尋ねた。

『ん、ああ……いや』
「……もしかして、また気持ち悪いですか? 迎えにいきますよ」

 歯切れの悪い返事に心配になってそう告げると、赤井は焦った風に『違うんだ』と否定した。それから次の言葉を数秒待っていると、篭った声とともに鋭い音が耳をつんざく。この声には覚えがあった、近所の番犬の声だ。私はチラと窓の外を見遣り――それから耳を澄ませた。
 両耳から、聞こえるのだ。その犬の鳴き声が。一つは窓の外から、もう一つは受話器の向こうから。
 私は部屋着でいることも忘れて、バタバタと玄関のほうへ走っていった。サンダルを足に突っかけて玄関を潜り、門扉の前まで走る。ハザードを焚いた、鮮やかな赤色が点滅していた。


 その車の運転席へ駆け寄ると、車内で携帯を握っていた男は驚いたように振り返る。窓が開くのを見て、私は少しだけ息を切らして口を開いた。

「な、なんでいるんですか……!」
「君こそ、体が冷える。ひとまず入りなさい」

 助手席へと手招かれ、ようやくスウェット姿だったことを自覚した。少し恥ずかしいけれど、この場で赤井と別れるのも嫌だった。大人しく軽くだけ髪を整えて助手席に着くと、赤井が電話を切った。

「今日、仕事だったんですよね」
「ああ、それは、そうなんだが……」

 彼はまだ口篭る。私がジィっと見つめていると、ようやく息をつきながら頷いた。

「君の父親に聞いた。その、会いたいと――言っていたと……」

 少しだけ瞬きを多くして、彼は言う。
 私はそれを聞いて、先ほどなど目でないほどに顔を赤くした。ぐぐっと顔に血が上っていくのを、窓を薄く開けて冷ます。――まさか、まさか聞かれていたなんて! それに、何も彼本人に言うことないのに!!
 確かに言ったとも、言ったけれど。「あぐ」「ぐぅう」と訳も分からない唸り声を漏らしていたら、赤井が大きく声を上げた。


「ふ、あはは! はははは!!」
「そ、そんなに笑わなくても!」
「あは、ははは……っ! いや、それほど動揺するとは、可愛いモンだ」


 押し殺すように、手が口元を押さえる。無骨な手の甲、骨や血管が筋のように這っている。触れたら冷たいだろうと、どうしてかそう思った。
 ひとしきり笑い終えたあと、その指先が私の髪を耳に掛ける。思いの外冷たくない指先、深爪で爪が当たった感覚はなかった。頬を染めたまま持ち上げると、赤井が微笑んだ。固そうな口元、こんなに柔らかく微笑んで見せるのは、なんだか意外だった。


「俺も、会いたかった。なんだか十代にでも戻ってしまったようで、体が向くままにここに来たんだ」


 彼は、私が恋しがっていたような照れたような笑い方でそう告げた。そう笑った彼の冷たく固い体が、曇ったフロントガラスが、どうしようもなく好きだとも思った。私はポリポリと項を掻きながら「ウレシイデス」と片言に零した。赤井はやっぱり、くだけたように笑った。