07


 腕時計を見下ろして、そわそわとブーツの先をアスファルトに擦りつけた。
 赤井と会うようになって、一か月が経とうとしている。あれからも何度か休日に会うことはあったが、今日誘われたのは行きつけだというバーだった。酒を飲むから車ではなく電車で。居酒屋なら何度か行ったけれど、バーなんて行ったことがない。寄りつけない上品な感じがあるし、酒には強くないからだ。
 誘われたときはつい渋ってしまい、赤井がフォローするようにノンアルコールもあるからと言ってくれたけれど、子どものように思われるのも癪で、自分から食いつくように行きますと言ってしまった。
 
 大人になってからは履かないロングスカートとブーツは、可笑しくはないだろうか。緩く結んだ髪から零れた一束を耳に掛けながら時計の鐘の音を聞いた。駅前の大きな時計が、一時間ごとにベルのような可愛らしい音を鳴らすのだ。


「あの」

 鐘の音に重なるように、誰かが声を掛けた。男の声だ。
 一瞬赤井かと頭を過ぎったが、彼のものよりはハキハキとした滑舌をしていた。何よりこの下から窺うような言葉遣いは、赤井ではないだろう――少々失礼かもしれないが。
 顔を上げると、深いブラウンのコートを纏った男が携帯を片手に立っていた。浅黒い肌だが汚らしさはなく、眩いほどのブロンドが構内の灯りを跳ねているように見えた。

「は、はい?」

 どもってしまったのは、一瞬彼の容姿を見て外国人ではないかと思ったせいだ。しかし先ほどの流暢な日本語を思い出して、ハっとして答えた。男は動揺など気にも留めずに手にしていたスマートフォンを私のほうへ差し出した。

「失礼ですが、ここを知りませんか。どうにも地図が分かりにくくて」

 画面に映し出されていたのは手書きの地図を撮ったものだろう。画質は良くなかったけれど、ペンの走り書きのようなものが映っていた。私はそれを目を凝らして眺める。職場の最寄り駅だったから、このあたりの地理には疎いほうではない。

「ちょっと借りても良いですか?」
「どうぞ」

 にこ、とふっくらとした唇が笑みを描く。一見した年齢のわりに、物腰が落ち着いた男だと思った。二十代半ばくらいだろうか。落ち着いているし身に着けているものも上等そうなので、もう少し上かもしれない。
 腕に嵌った見るからに高級そうな時計を一瞥し、私はスマートフォンの画面に視線を戻した。恐らく大きく書かれているのが駅だ。英字で読み取りづらいが、【station】と書かれているような――いないような。ずいぶん手癖のひどい字だ。
 私はクルリと画面を横にして、駅の位置と照らし合わせる。チェックポイントがついている建物は、ここから道路を渡って、コンビニを曲がって――。

「あれ?」

 首を傾げる。男も同じように首を小さく傾いだ。
 「どうかしましたか」と尋ねる声に、少し唸った。確かに分かりづらい場所なのだ。私も再三行き方を聞いたもの、その道のりは色濃く覚えていた。

「もしかして、ここってバーじゃないですか? ほら、ビルの地下にある」
「ああ、そう聞いてます。ご存じでしたか」
「いえ、言ったことはないんですが……私も今日行こうとしていて」

 奇遇ですね、なんて笑いかけると、男も柔らかく頷いた。私は今から待ち合わせしている男がここに来るから、良ければ一緒に行こうと提案した。一度は遠慮されたものの、口では説明し辛いからと食い下がった。
 確かにデート中に他の男がいるのも――と思ったけれど、優しそうな男であったし、赤井もそんなことで拗ねるほど子どもな対応はしないだろう。

「なら、お言葉に甘えて。彼是三十分ほど歩いたのですが見つからなくて」
「あはは、あのあたりってGPSバグりますよね。待ってください、連れに連絡しておきます」

 自分のスマートフォンからメール画面を開こうとして、するっとポケットから携帯が滑り落ちる。

 アっと声を上げて拾おうと手を伸ばした――その手の甲を、誰かの手が覆っていた。

「大丈夫ですか?」

 ――目の前にいた男の手だ。手袋をしていたから、体温こそ伝わらないが冷え切った指先には温かく感じた。私の手に重ねるようにして、携帯をしっかりとキャッチしてくれている。
 必然的にグレーがかった不思議な虹彩が間近に見えて、少しだけ動揺した。

「ありがとうございます……」

 姿勢をカチコチに固まらせたまま礼を述べると、先ほどまで心配そうにこちらを覗き込んでいた彼の表情がフっと可笑しそうに笑った。笑った顔は、思いの外男らしい。携帯をしっかりと手に握らされて、彼が腰を上げようとした時だ。


「My Gosh...」


 ばさっという音がその場に響いて、コロコロと足元にリンゴが転がって――いや、ひと昔前のメロドラマじゃないんだから。胸の内でツッコミを入れながら顔を上げたら、呆然と手荷物をすべて床に散らかす見慣れた男の姿があった。彼の年齢を感じさせる窪んだ目元から、はらっと一筋涙が零れる。

「あ、赤井?」

 ――先に声を上げたのは私ではなかった。
 どうやら我に返ったらしい金髪の男が、私の体勢を支えて起き上がらせると、赤井のほうを振り返る。そして「何やってるんだ」と呆れながら、足元に転がった荷物を拾い始めた。

「降谷くん、彼女とはいつから……?」
「はぁ? いつからって、今会ったばかりだが」
「ああ、君のその優秀さを憎んだのはあの時以来だ」
「訳分からないことばかり言うな、ついにボケたのか」

 男はひょいひょいと長い手を伸ばして拾い上げた荷物を買い物袋に突っ込んで、赤井のほうへと押し付けた。

「あの、赤井さん」
「スズ……」

 いつもクールに立っている姿が、今ばかりは耳をへこたれさせている猫のようにしか見えず、私の胸がぎゅうと締め付けられるように脈打った。私よりずっと高い場所にある彼のグリーンアイが、何故だか上目遣いのようにこちらを窺い見る。アラフォーがこんなことをして許されるのは、単にそのレッドカーペット級な美形のせいである。

「なんでそんな捨て猫みたいな顔を……」
「悪いが、俺が彼に勝てるものは今や何もない。君が乗り換えたいと思うのも仕方のないことかもしれないが……」
「ちっ、がいます!」

 人の腰をずいぶん軽く見ているのか、この男は!
 少し腹を立てて目を吊り上げたら、赤井が男と私の間を目を凝らすように見比べた。男は状況の整理ができたようで、極めて冷静な様子のまま彼のスマートフォンを見せつけた。

「貴方の送りつけた地図が解読不可能で手伝ってもらってただけだ。手を握ったのは彼女がスマートフォンを落としそうになったから。あと年甲斐もなく公の場で女に甘えるな、ここは日本だぞ」
「日本は関係ないだろう。愛情表現だ」

 あっけらかんと言い放つ赤井に、男は垂れた目を吊り上げた。苛立たし気に赤井の革靴を踏みしめる。

「今すぐ出て行ってもらっても構わないんですがねぇ」
「待て待て、今は滞在ビザだって取ってる」

 慌てたように首を振る赤井の横顔に、私は知り合いかと問いかけた。確信を持った質問ではある。先ほどまであんなに紳士的であった金髪の男が、打って変わって赤井にぐちぐちと暴言を吐いている――どう考えても、気心が知れた風であるのは伝わる。
 赤井ははっとしたように私を振り返り、口元を少しだけ微笑ませた。その時ようやく、私がいつも知っている彼の表情に戻った。男同士のやり取りをしている姿も、嫌いではなかったけれど。


「ああ、本当は今日紹介しようと思っていたんだ。友人の降谷くんだ」
「友人として紹介される日がくるとは思いませんでしたがね。こんばんは、改めて――降谷零です」

 
 彼は礼儀正しく手袋を外すと、私に手を差し伸べた。握手をする姿が、初めて出会った赤井の姿に重なったように思う。彼の掌は赤井とは正反対に温かく、しっとりとしていた。指先の皮の固さだけは、赤井と同じだなあと思うのだ。