04
その癖毛頭を見かけたのは、次の日の朝食だ。
一度覚えるとその頭は実に見つけやすく、私は視線だけをそちらに向けながらトレイに焼鮭定食を乗せながら、座席をうろついた。食事は自由席だ、とは言うものの、何となしに教場で固まっている風はある。その外れに、癖毛頭は見当たった。
――わざわざ彼のほうに向かうのも、なんだかわざとらしいだろうか。
そわつきながら座席を一周するころ、背後から「あれっ」と陽気な声が聞こえた。トン、と背を叩かれる。はたと振り返れば、私よりも大分上にニコニコと愛想の良い笑顔が浮かんでいる。思わず、口籠った。――先日の男だとは知っていたが、名前を知らなかったのだ。
そんな口の淀みを見抜くようにして、彼は朗らかに萩原と名乗った。私は口に馴染ませるように復唱する。
「萩原くん。えっと――」
「小林ちゃん、だろ。同じ教場だし、覚えてるって」
彼はにこやかに言ってのけるが、その一言が心にグサと刺さった。その教場のメンバーなど、部屋の近い女生徒しか覚えていない。気まずく視線を逸らすと、笑いながら「まあまあ」と宥められた。
「もしかして、陣平ちゃんに用事?」
「あ、うん……?」
――陣平? 誰だったか。案の定覚えていなかったものだから、先ほどのくだりもあり苦笑いで言葉を濁す。萩原はパっと顔の向きを変え、声を大きくして遠くにいる男を呼びつけた。「松田ァ!」――、彼の大人びた声はよく通り、食堂に響くものの、案外それは人の喧騒に馴染んでいった。が、その癖毛頭だけがのっそりと振り向いたのだ。
「……ア?」
その体躯や容姿はいかついわけでもないのに、目つきもやけにノソっとした動きも、まるで冬眠を妨害された熊のようだ。私は顔が引きつるのを隠すこともできず、「エ!」と声を上げてしまった。
「ありゃ、違った?」
萩原は傍らで苦く笑って頬を掻いていたが、まあ、その、間違ってはいないので。私は「ううん」と「うん」を繰り返しながら、頭のなかをパニックにさせて、おずおずと男のほうへ近寄った。
――そうだよ、話すと決めたではないか。
だけれど、話す内容など考えていなかった。いきなり「どうして警察官が嫌いなの」と尋ねるのはデリカシーがない気もするし、いきなり初日のことを謝れ! と言ったら怒られるのではないだろうか。どうしたものかと考えていたら、トレイを持つ手が僅かに震えた。その指先を見て、口端を軽く引き結ぶ。
幼いころ、握ってくれた手の感触だけは、今になっても痛いほど覚えていた。
私は少し言葉を探すように視線をうろつかせてから、スプーンを咥えたままの男を見下げた。息を吸い込み、何度か口を開閉しながら、ようやくのこと空気を震わせた。
「――……おはよう!」
探した挙句に、ようやく飛び出た言葉はそれだった。
顔がグンと熱くなるのが分かる。別に引っ込み思案というわけではない。誰かに声を掛けるのに、何故だかここまで勇気を要したこともなかった。今だけはまるで一生分の勇気を使ったのではないかというくらいに心が疲労していて、心臓がいやに大きく鳴っていた。
数秒、間が空いた。男はその目を丸くして私を見上げ、咥えたスプーンを口元でぷらぷらとさせる。様子を窺うようにして男を見つめていると、彼はそのスプーンをカランっと地面に落とした。驚いて私も瞬いてしまったが、次の瞬間に、笑い声が響く。
「あ、相変わらず声がデケーんだよ! ふ、ははは!」
目の前で、男が顔をクシャっとして笑っていた。
先日よりも、一層口を開けて、腹を抱えながら。精々不愛想に返される程度だと思っていたものだから、その姿があまりに意外で、今度は私が驚いた。彼は目じりを軽く拭うと、可笑しそうに眉を下げながらもう一度、ハッキリと私の顔を捉えた。
「……はよ」
と、確かに彼はそう返したのだ。
大きな手が地面に落ちたスプーンをひょいと拾い上げる。萩原はスプーン片手に男の横に腰かけて、テーブルをとんとんと叩いた。
「小林ちゃんも座りなよ。メシ食う時間なくなるぜ」
「ありがとう、お邪魔します……松田くん?」
先ほど萩原が呼んでいた名前を思い返して、確かめるように名前を呼ぶ。彼は「おー」と、短く返事をした。そういえば、昨日教官から怒られているときにも何度も「松田ァ」と怒鳴られていた気がする。
「お前は」
まるでその後に言葉が続きそうな抑揚のなさをしていたから、私は鮭を箸でほぐしたままでいた。何を聞かれるのだろう、と私なりには会話を待っていたつもりだ。しかし、暫くすると苛立たし気に「お前は」ともう一度言葉を投げられる。
「そぉんな怖い言い方すんなって。分かりにくいのよ、お前さあ」
「ハァ? 名前聞いてるだけだろーが」
「なら名前なんて言うの、で済む話だろ」
ぱっと顔を上げれば、水の入ったコップを萩原に押し付けられながら、松田が鬱陶しそうに解せない表情を浮かべている。それを捉えてようやく、先ほどの『お前は』というのが疑問文だったことに気が付いた。
「分かりにきぃんだよなあ。ごめんねぇ、小林ちゃん」
「いや、言ってなかったし……小林だよ。小林未桜」
名乗れば、彼は素っ気なく「フーン」と聞き流すだけであった。やはりよく分からない男だ。だが、確かに厭味な感じはしなかった。よくよく見ればジトリとした眼差しも、不機嫌――というよりは、ぶっきらぼうというか、無関心そうというか。
「……何?」
だが、そのぶっきらぼうな眼差しがやけに私のことを見つめた。
私は思わず箸を握った手を止めて、聞き返してしまう。私が尋ねれば、松田は「別にィ」、と萩原から受け取った水を飲み干した。
――ヘンな人。
悪人とは言い難いが、人が好い感じはしない。萩原は私が怪訝そうな顔をしたのを目に留めると、朗らかに笑った。なんだか、ヘンなコンビでもある。性格は真逆なような感じがするのに、よくまあ、これほど親し気にしているものだ。まだ着校して一週間も経っていないというのに。
「小林ちゃんってマジでタフだよなあ。いつも教官にしごかれてんじゃんよ」
「ああー……だって、怒られるより走ったほうが早いんだもん」
「あんだけ走れるなら大したモンよ! 一緒に入校できっと良いなぁ」
彼はニコニコとしながらそう言った。決して世辞――という感じもしないが、言いなれている風ではある。松田とは反対に、きっと人当たりが良い男なのだろう。私は「ありがとう」と頬を綻ばせる。味噌汁を飲みながら、会話を交わす二人を見遣る。
萩原は真正面から見ると、その顔の美形さに今まで気が付かなかったことに驚くほどだ。イマドキな顔ではないが、少しレトロな映画俳優のような華やかな風貌であった。すれ違う女生徒がチラチラと視線を遣るのも頷ける、人当たりも良いし、もう少し環境に慣れれば囲まれるのも時間の問題かもしれない。
私はほぐした鮭を摘まんで口に入れながら、ぼんやりと朝食を進めていた。――萩原の顔を見ていたものだから、ふと気づいたとき、松田がこちらを見ていることに思わず咽かえった。ジ、とまるで獲物でも観察するような、微動だにしない眼差しだ。
「な、何?」
さすがに、気のせいではないだろう。私の声に萩原もまた松田のほうをはたと見遣る。松田はやはり「別にぃ」と拗ねたように零すのみであった。