07
入校式の翌日より、本格的な訓練が始まった。
訓練自体は入校前と比べ実践的なものが増えたが、やはり上官たちの態度は以前よりもやや親しみやすいような気がする。相変わらず厳しいことには変わりないが、自習時間に喫煙する姿を見かけると、多少の会話ができる程度だ。その厳しいながらにしわくちゃな笑みが父に似ている気がして、きっとこの教場を出る日には泣いてしまうだろうと思い浮かべるくらいだ。
「……また見てる」
私は教室の端で肘をつき、気まずく窓のほうへと視線を逸らした。頬にヒリヒリと焼けつくような視線を感じた。そちらのほうを向けないのは、彼らの視線があまりにも睨みつけるような、ある種熱烈なものであるからだ。春のうららかな陽気のなかで、私の片頬だけが凍てついていた。
おそるおそる、教科書を盾にしながら様子を窺う。
片や、よくも説教を受けさせたなとでも言わんがばかりに口を尖らせながら睨みつけている男。片や、不機嫌というわけではないがどこか仏頂面に、そわそわと此方を見遣る男。あの騒動の後日、互いの友人に連れられ頭を下げには来たものの、二人して心の確執は解けていないようだ。二人で喧嘩をするぶんには好きにすれば良いのだが、間にいちいち挟まないでほしい。
「あらら、今日も熱烈だね〜」
「萩原くん。何とかしてきて……」
「無理無理。あれでも反省してんだって、させてやってよ」
後ろの席に座った萩原に文句を垂れると、彼は苦く笑いながら肩を竦めた。
――反……省?
思わず背後を二度見する。あのツラが、反省しているというものだろうか。どうみても次は外さないという顔にしか見えないが。怪訝な表情のままに萩原を見つめ返す。彼は視線を合わせると、パチンと手慣れた風にウィンクを飛ばされた。
「そ、そんなファンサが欲しいわけじゃないんだけど!」
「えぇ、違った? 俺は小林ちゃんからファンサ欲しいのに」
飄々とした笑みに、うんざりと肩を落とした。知り合って数日、席も近くよく話すようになって分かったことがある。この萩原研二という男、確かに人辺りは良く松田に比べればコミュニケーションは取りやすいものの、掴みどころがなく、思いの外意地が悪い。――意地が悪いというと語弊があるか、こう、揶揄い屋なのだ。
しかも顔が整っているものだから、表情一つひとつは眼福なのが悔しいところである。女生徒がその切り替わりにキャアキャアと黄色い声をあげるのは、鬼塚教場恒例行事となりつつある。
「そんなに気になるなら、聞いてみたら?」
萩原はちょいっと松田のほうを指さした。相変わらずこちらを睨みつける視線とは、とてもじゃないが顔を合わせられない。かといって、降谷とは気軽に話すような仲ではないし――。しかしこのままでは、私の頬に穴があくか、胃に穴があくかという問題ではある。ぽりぽりと項を掻いて、私はため息を零したのだ。
実にぬくい日柄であった。
窓から差す日差しは柔らかで、緑の葉が光を跳ねて風に揺れる。その葉同士が擦れる音が、僅かに開いた窓から耳元を擽った。日も長くなったものだ。一日の訓練が終わり、自習室に向かう途中の渡り廊下、まだ白んだ明かりを見上げて思った。
――そんなに気になるなら、聞いてみたら?
簡単に言ってくれるものだ。私は、ついこの間、たった一歩の「おはよう」を踏み出したばかりだというのに。まさか、ずけずけと聞くことなどできやしなかった。結局訓練中もその視線を一身に受け、思わず避けたくなる衝動を、鬼塚のひと睨みで必死に押し殺していた。
もう一度ため息を零そうとしたとき廊下に落ちた影の形が変わった。先ほどまで明瞭に落ちていた己の影がもわっと変化していくのを見下ろす。なんだ、この形――木というか、もっとクルクルとあちこちへ跳ねているが――。
「おい」
抑揚のない話し方。
それには心当たりがあった。パっと背後を振り返れば、己よりも少しだけ高い位置にある生意気そうな目つきがこちらを見た。いつだったか、彼が鞄をぶつけてきた日のまなざしと同じだ。振り返ったそのまま、私は表情をかたくして言葉を詰まらせた。
「おい、っつってるだろ」
「えと、なに……」
「アー……だからさ、その」
松田は私が尋ねると、途端にしどろもどろに言葉を選び始めた。それから軽く眉間に皺を寄せ、己を納得させるようにかぶりを振る。その癖毛頭が、深く目の前に下がった。ぎょっとして身を固まらせる中、松田が思いの外静かな声で続けた。
「……すまん」
私は困惑して、「はあ」と曖昧に頷いてしまった。
謝罪なら先日受けたばかりなのだ。重ねて謝罪をする意味も――もしかしてそれの所為で視線を送っていたのかと思えば思うほど、この男が分からない。私が黙りこくっていれば、彼は気まずそうにもう一度、「悪かった」と呟くように告げた。
「あ、あの、前謝ってもらったし、別に……」
「降谷も一緒だっただろ。あんなの謝ったって言わねえ」
「そう……?」
「そうなんだよ」
彼は何故だか拗ねたように鼻を鳴らした。
確かに以前は諸伏と萩原に引っ張られてきたものだが――かといって謝罪がおざなりであったわけでもなし。別段気にとめてはいなかった。私は首を振って、その下がった顔を覗き込むようにその場にしゃがみこむ。
「あのさ。その……だって、直前で避けてくれたでしょ」
覗き込んだ顔が驚いたように私を捉える。思いのほか大きい瞳の中に、複雑そうな表情の私が映りこんだ。彼は図星といった風に首を掻く。
――当たり前だ、成人男性二人から殴られて、痣一つ残らず済むわけがない。それに、私が気絶する前に見たのは拳であったのに――鼻も頬も無事ということは、直前に彼らがブレーキを掛けたからだ。唯一冷やされていたのは後頭部であったから、恐らくぶつかって後ろのめりになったまま倒れこんでしまったのではないか。
萩原たちは真実を口にしなかったが、いくらクロスが決まったとは言え、きっと本気で直接殴りつけはしていないのではないか――と思うのだ。
「確かにあんな場所で喧嘩したのは駄目かもって思うけど……私のことは気にしなくて良いよ。ちゃんと謝ってくれたから、それでじゅうぶんだし」
そう口にして、小さく笑う。彼の目の下には薄っすらと隈があり、このことが原因かは分からずともよく眠れなかったのだと思った。彼は小さく瞳を揺らすと、顔を背けて「ん」と頷く。先ほどまでひん曲がっていた口元が少し素直に緩んで、廊下に落ちた葉の影と影が溶けあったことに、私も心が楽になった。
二人で並び廊下を歩く途中の売店で、松田が足を止めた。
彼が自販機を指さし、私を軽く手招いた。
「ジュース一本奢るわ」
「だから、良いのに……。あ、ココアが良い!」
遠慮する言葉に反するように、その指先がボタンを押そうとする。彼が選んだのはスポーツ飲料で、断った身でありながら思わずその指を引き留めてしまった。松田の指先がピクっと跳ねて、一瞬目が丸くなる。それから「ぶはっ」と破顔すると、彼は腹を抱えてその場にしゃがみこんだ。肩が震える――笑っているのだ。
「ご、ごめん……。つい……」
「いや? くく……、お前マジで声でっけぇし……んな甘ったるいモン訓練の後に飲めるか?」
「ホットじゃないし」
「謎理論すぎ」
けらけらと笑いながらも、彼はアイスココアのボタンを押してくれた。ありがとうと述べれば、生意気そうな目つきがほんの僅かに和らぐ。それ以来、彼が私のことを睨みつけることはなくなったのだ。