高校三年の春、住み慣れた田舎から引っ越した。
クラスメイトたちは皆、寂しそうにしながらも羨むような言葉と共に私を見送る。引っ越し先は、よく言えば都会というか。都心というにはややズレていたものの、それでも故郷に比べればずっと賑わった街だったからだ。私たちの休日と言えば隣町のショッピングモールくらいであったけれど、学校から五分も歩けば聞き馴染んだ雑貨屋や服屋が並んでいた。そういう街だ。
引っ越してから、別段何か大きな出来事があったわけではない。
最初はいじめられるんじゃないか、なんて不安を覚えていたけれど、友人関係も良好だ。もともと人と話すのは好きな方だったから、新しい集団に馴染むのは苦じゃなかった。寧ろ今まで知らなかったような流行りの服やコスメを教えてもらって、そこそこに輝いた青春と呼べるんじゃないだろうか。
「じゃあ、また明日ね」
友人と手を振り合う。
じめじめとした梅雨が続く季節だった。今日も霧のような小雨が目の前に靄を掛けるような一日で、湿気でペタンと落ちた髪の毛が鬱陶しくゴムで後ろにひっ詰めた。こんな雨では、アレンジの気合も入らない。まあ、もう帰るだけだし。
いつもなら近くのバス停まで一緒に歩く友人は、今日は部活が遅くなるらしい。体育館の横を通りすがれば、バスケ部の、バッシュが床を鳴らす音が聞こえる。
――少しだけそれが羨ましいと、そう思っていた。
本当は、引っ越した時に胸のどこかで期待していたのだ。都会に出れば、きっと物語の主人公のように本気になれるものがあると思っていた。それは例えば部活であったり、そうじゃなくても構わなかった。
よくよく考えれば引っ越しで学校が変わるなんて、この世の中で一体何百万人いるかも分からないというのに、都合の良い頭である。
今の生活に不満があるわけでもない。友人には恵まれ、楽しく日々を過ごしている。授業の合間には他愛ない話をして、ノートの隅に書いた落書きを笑い合って。授業が終わったら一緒に買い物をしたりカラオケに行ったり。夏休みにはテーマパークに行こうなんて話までしていた。
だけど、それは田舎にいたときと然して変わらない学校生活だった。
嫌ではない。嫌ではないんだけど――なんて、中途半端な想いが胸を突くのは、この嫌味たらしい湿気の所為だろうか。そんなことを考えておきながら、一度として自ら部活見学にすら顔を出したことはない。運動も勉強も他の才能も、ないことは知っていたからだ。自分の体だもの、そのくらいは分かる。
――ただ、羨ましいなあ。なんて思うだけ。
思うだけだから、そのくらいは許されるはずだ。誰に思考を読まれているわけでもないのに、そう心に言い訳をするあたり、大概情けない人間だとも自覚していた。
「あれ、ない……」
丁度校門を通り過ぎるあたりで、鞄の中身を漁った。携帯型の音楽プレイヤーが見当たらない。ちょうど、昨日友人から借りたCDをいれたばかりなのに。ちらっと時計を確認して、私は一度踵を返した。
多分、教室だ。先ほど別の友人と新曲を聴き合っていたから、そのままにしてしまったに違いない。雲が分厚く空を覆っていて、人気のなくなった学校の廊下は少し薄暗かった。新しい学校なので、怪談なんて出回らないような場所だったけれど――ちょっとだけ不気味で早歩きになってしまう。オカルドは大の苦手だ。
チカチカっと点滅する切れかけの電灯を過ぎて、ようやく三年生の教室に辿り着く。なんで三年の教室って、昇降口から遠いのだろうか。年功序列で反対にしてほしい。(これ、多分一年が遠かったら、一年の時に逆のことを言っていた。)
部屋は既に消灯されていて、恐る恐る扉を開けた。見慣れた教室の自分の席にそそくさと駆け寄り、机の中を覗く。
「あった!」
ラベンダー色の音楽プレイヤーを取り出して、ホっと安堵の息をついた。誕生日プレゼントに(少々予算オーバーだったものの)強請って両親に買ってもらったものだ。まだ最新型なので、なくなっては困る。
さあ帰ろうと踵を返し、イヤフォンを耳につけながら音楽プレイヤーを操作する。ちょうど下を向いていた所為で、前がよく見えていなかったのは確かだ。
「うわっ!」
私は教室にある何かに躓いて、近くの机に倒れこんだ。がたがたと騒音が響く。前のめりだったのと、机があったおかげでどこかをぶつけたり擦りむいたりする前に手をつくことはできた。それでも軽くぶつけた膝を擦りながら体勢を直した時、ようやくのことそこに人影があることに気が付いた。ゴロゴロと、空模様は悪く唸りをあげている。
「……寝てる?」
雷の唸りなど気にも留めず、その人影はゆったりと膨らんだり、沈んだりを繰り返していた。私の席の三つ後ろ、学ランを上半身に被せているせいで人だと判断するまで時間がかかったが、横にばかっと大きく開いた足は人間のものだ。顔は見えないが、学ランとシルエットからして、恐らく男だと思う。
誰だろう。私のクラスはそもそも男女列が決まっているので、彼の席ではないはずだ。私が先ほど足に引っかかったばかりだというのに、起きる気配はない。途中でフガっと大きく体が跳ねたけれど、再びスウスウと深い眠りについてしまった。
教室にいるということは、クラスメイトだろうか。
それともこんな時間まで、誰か友人を待っているのだろうか。
どちらにせよ、もうすぐチャイムが鳴って教員が見回りにくるだろう。そろそろ部活動以外の校舎は施錠時間だ。私は起こすかどうか悩んだ末に、彼の寝ている傍らにそっと個包装の菓子を置いてから踵を返した。
一応、足をぶつけてしまった詫びのつもりだ。彼は覚えていないだろうけど。こんなに気持ちよさそうにしているので、寝かしておいてやろう。
私は黙って教室を後にしたことに、妙に良いことをしたような気持ちになっていた。あんなに心地よさそうに眠っていたわけだから――そんなことを考えた自分が、少しだけ可笑しかった。けれど気持ちは晴れ晴れとしていて、厚く覆った雲がいつのまにかあまり気にもならなくなっている。イヤフォンをつけてプレイヤーを再生すると、ちょうど最近気に入っている曲が流れた。女性ボーカルだけれど低くて落ち着く、私の好きな曲。もしかしたら、恩返しにきたりして。恩を売ったつもりもないけれど、想像したらちょっとだけ口角が持ち上がる。
「ただいま〜」
玄関を潜れば、少し生意気な弟が小さな声でお帰りと告げる。私の、変哲もない日常でもあった。
◇
「おはよ……あれ、どうしたの」
馴染みの席に座っている友人が、今日は少しだけ項垂れていた。いつもははつらつとした笑顔が印象的な子だったので、すぐに様子が違うことは分かった。キョトンとして尋ねると、彼女はジワジワと目じりに涙を溜めた。
「ひな〜……」
「何かあった? あ、もしかして」
ぐずぐずと私のベストの裾を掴む手入れの行き届いた指先。一つ心当たりはあった。近頃彼女が熱を上げていた『憧れの同級生くん』の存在である。彼女は私の何か思い当たるような態度に、ワっと泣き始めた。
「昨日告られたんだって……そ、それで、付き合うことにしたって……」
「付き合うって、前別れたトコでチャンスって言ってなかった?」
「だから、言ったじゃん。来るもの拒まずな人なんだよ〜……」
もうちょっと早く告白しておけば良かった――彼女はそう嘆くものの、私は知っている。彼女が告白をするために、少し良い美容院で髪を整え、学校にバレない程度のネイルで爪先を彩り、あと二キロ痩せたら告白しよう、なんて痩せる必要もない細い脚をモジモジとさせて言っていたこと。少しずつ、努力を重ねていたこと。
無性に、然して知りもしない『憧れの同級生くん』に腹が立った。
大体、こんな良い子には勿体ないような男だったのではないか。私が転入してからでも、少なくとも二回は彼女が変わっている噂を聞く。きっと遊び人のような男なのだ。「そんなやつやめた方が良いよ」、それほど詳しくもないくせに、ありきたりなフォローが零れた。艶やかな唇は意外そうに開かれて、それからへにゃりと笑う。
「う〜ん。そんな人じゃないよ、多分ね……。すごく優しくて、私もそんなところが好きだったの」
彼女は柔く、どこか愛おし気に、照れくさそうに微笑むのだ。
最近変えたばかりだというマスカラは彼女の雰囲気にピッタリなブラウンカラーで、優しくその目元を彩っていた。自然な淵のカラーコンタクトが潤む。教室の窓から零れた、それほど美しくもない日差しがその瞳をキラリと輝かせた。
――綺麗だなあ。
そう思う。綺麗だ。それは、彼女が綺麗なのか、それとも恋という感情が綺麗なのか。
まただ、そんな感情を羨ましいと思った。何かに夢中になるとは、考えただけで涙が浮かぶほど一心不乱になるとは、どんな感じなのだろうか。恋をしたことがないわけじゃない。付き合ったことだってあるし、気になる人だっていた。ただ、それが今の彼女と同じ感情かと思えば違う気がする。別れた時だって、喧嘩した時だって、気持ちは沈みはしたけれどこんな風に涙を溢れさせることはなかったからだ。
それは、苦しいものか。それとも、漫画で見るような世界が輝いて見えるようなものか。
彼女のように、世界が色づくような、美しいものなのだろうか。
今はただ、コンビニで買った菓子パンを一つ、ダイエットなんてやめると涙を零す彼女に分けてやる。どうか優しく可愛らしい彼女の心を報うような人が現れると良い。それは本心だ。けれど、心の奥にはチクリと羨望があった。何か一つのことに夢中になれる彼女に、少しだけ――。
「ひな?」
そう首を傾ぐ友人を見て、私はゆるく首を振った。今日の帰りはカラオケで騒ごうと笑いながら話せば、彼女もニコニコと涙をぬぐって頷く。その日はやけに、授業の進みが遅く感じた。放課後が待ち遠しい。カラオケのクーポン、確かあったけれど。財布に入っているかな。気に入っているシャーペンをくるりと指の上で遊ばせながら、そんなことを考えていた。