02

君が夏を連れてきた

 放課後、私は日直日誌を職員室に届けて、駆け足で廊下を走った。こういう日に限って、日直なのだ。早くカラオケに行きたいのに――! 校門前で待っているだろう友人へ心の中で謝りつつ、窓の施錠を済ませて教室に駆け込んだ。

 私の席へと視線を滑らせたら、一つモコっとしたシルエットに目がつく。――同じ席だ。あの席、誰だったっけ。男子生徒だったか女子生徒だったかも覚えてはいなかったけれど、先日そこで誰かが丸まっていたことは覚えていた。今日は躓く前に気づけたので、起こさないようにそうっと横を通り過ぎる。

「……マジで寝てる」

 つい、横を通り過ぎるときにそのシルエットを眺めてしまった。だって、そりゃあ、気になるだろう。上半身は学ランが被さっていてどういう人物かも分からないし。スウ、スウ、と何度もゆったり上下する体であったり寝息であったり、時折ピクっと跳ねる足元。上履きであるサンダルは殆ど突っかけている状態だった。

「ふ、気持ちよさそ〜……」

 口角が自然と持ち上がる。教室は電気が消えて薄暗く、窓から差し込むのは昼間とは違う傾いた日差しだ。彼(多分――)の姿を見ていたら、気持ちが暢気になる。急いでいたはずの足元はいつのまにかゆっくりと歩いていて、鼓動も落ち着いた。私は机にあった鞄からゴソゴソと菓子を一袋取り出すと、この間と同じように机に並べた。

 相変わらず、起きる気配はない。そんなところにも、笑ってしまった。

 フッと零れるような笑い声を零してから、鞄を背負って教室を後にする。この間と同じで、少しだけ気持ちが晴れたような、そんな気持ちだった。

 校門の前では友人が携帯をいじりながら待っていた。私は駆け寄る。ごめん、なんて謝れば、気にしていないよと首を振る。彼女の十八番は女性アイドルの人気ナンバーだ。必然的に恋愛ソングが多くて、歌詞を見ては「分かる〜」なんて二人で笑い合った。メールの返事が待ち遠しいだとか、手をつなぎたいだとか、キスをしたいだとか――。正直言うと、ちょっとだけ意地を張った。女子高校生だもの、そんなものじゃないだろうか。

 カラオケのフリータイムが終わるころにはすっかり日が暮れてしまって、最近は日も長くなっていたせいであまり目にかからなかった月が空にぽっかりと浮かんでいる。
「わ、すっかり暗くなっちゃったね」
「ホントだ。大丈夫? 駅からちょっと歩くでしょ」
「大通り沿いだし気にしないで」
 友人の家の場所は知っていた。彼女はそう言うけれど、大通りから一本入った道は薄暗くて一人ではとても危ないように思う。送ってあげたいと思ったけど、送ったら帰りは私が一人になる。それはちょっとだけ怖かった。暗いところはあまり得意じゃない。

 会計を済ませて店の外に出てから、彼女は良いというけれど――少しもやもやとしたまま別れようとした時、ちょうど背後に立っていた誰かにぶつかった。店の前で喋っていた私たちが悪かっただろう。拍子に財布やらが零れ落ちたので、慌ててそれを拾い上げる。

 私が屈んで拾っている間、友人が立ち尽くしていたのが気になった。

 こういう時に、荷物を放っておくような子ではない。いつもなら一緒になって拾うだろうし、そうじゃなくともぶつかった誰かに頭を下げているだろう。
 不思議に思って頭を持ち上げると、友人は顔を真っ赤にしてそこに立ち尽くしていた。金魚が餌を求めているようにパクパクと口を開閉させるものだから、どうしたのかと首を傾げた。どうやらその視線は私の背後に向いている。

「……?」
「あ、あのっ……ご、ごめんね……っ」

 私は一人ブリキ人形のように首を傾げたままだったが、友人は何やら慌てたように謝り始めた。なんだ、知り合いだったのか、彼女の口調で判断して振り返ったと同時に――私はピタリと動きを止めてしまった。

「俺たちもボーっと歩いてたから、気にしないで。怪我とかしてねえ?」

 ずいぶんと大人びた、色っぽいともとれる声色が、優しく頭上から降り注いだ。顔を見なくとも、彼が笑っていることが伝わる。その顔を見上げた。
 ふわりと、闇に溶けそうな黒髪が揺れた。私は友人とは別の意味で息を呑んでいたと思う。目の前にいたのは、先ほどまで私が怒りを覚えていた男――まあ、つまりところ『憧れの同級生くん』だったのだ。クラスは違うけれど、学年じゃ彼を知らない者はいないだろう。少なくとも女子ならば。
 友人は、何でも委員会が一緒だとかで接点があったけれど、私は間近で見るのは初めてだった。(なんて、物見小屋のようで印象が悪いか――。でも、事実そうだったのだ。)
 男にしては長い前髪から、垂れた目つきがチラと覗いた。背は同い年だというのに周りから頭一つ飛び出るくらいに高くて、私が見上げた先には男らしく浮かんだ喉ぼとけがあるくらいだ。けれど、恐らく彼が姿勢を少し屈めてくれているので、威圧感なくニコ、と微笑んだ顔と目が合った。

「あ、ううん……」
「財布拾ってくれてサンキュー」
「ぶつかったのコッチだし」
「木原さんも、ありがとう」

 ちらりと私の背後に隠れてしまった友人に顔を覗かせる。彼女は体を小さくしていた。
 なんとなく――なんとなく、友人が言っていた意味は分かった。確かに、優しいのだろう。彼の善意には下心は見えず、ただひたすらに優しさだけは際立って感じた。私と友人への態度に差異がないところを見ると、もしかしたら他の女子にもそうなのかもしれない。

「二人はさっきまで歌ってたの?」

 驚いた。
 どうやらこのまま会話を続けるつもりらしい。彼もきっとツレと来たのではと思うのだが――周囲を気にするような私の視線に、彼は苦笑いを浮かべた。ブラウン管の向こうにいる俳優のように、きりっと整えられた太い眉が、八の字に下がる。

 友人はしどろもどろになって「うん」「えっと」と答えられていなかったので、私も気が付くと彼と同じように苦笑いをしながら返事をした。

「うん。ちょっと失恋を慰めてた」
「え、ねえ、ひな……!」
「マジ? その男見る目なさすぎるって。木原さん可愛いのに」
「でしょ〜」

 ニヤニヤしながら友人のほうへ視線を向けると、彼女は必死に首を振って「やめて」と口パクで訴えてきた。しょうがない、彼女がかわいそうなのでこの位で手を引いておこう。

「でも、俺のこと知ってるの? 初対面だよね」
「有名人だから……ソコソコの」
「なに、ソコソコのって。有名っていうなら貫き通してよ」
「萩原くんでしょ。ほら、校外にファンクラブあるってウワサ立ってる」

 そう揶揄えば、彼――萩原は面食らったようにして大きな手をヒラヒラと振った。否定したいようで、「違うって」、と言い訳じみたことを続けている。これは別の友人からの情報だったが、確かに萩原ファンクラブなるものはあるようだ。彼の与り知らぬところで作られているのだろう――モテる男とは罪なものだ。
 確かに、彼が女子から人気なのはこうして話していて分かる気がする。
 容姿は絶世の美男とまではいかないが、整った顔立ちをしていて、同級生にしては少し大人びた風貌と雰囲気があった。物腰も同級生の男と比べて紳士的で、かといって気取っているわけでもなく、たった今初対面でも話していて楽しいと感じたくらいだ。

「ああ、違う違う。それ本当に誤解なんだって……」
「えー、萩原くんが知らないだけじゃなくて?」
「じゃなくて……。それ、俺の姉ちゃんのファンクラブ。すっげえ美人だから、男女問わず人気あるんだよ……。俺はただの、一般的な、ダンシコーコーセーってわけ」
「へぇ〜……」

 そうなの、と友人のほうを振り返ると、彼女はもはや萩原のことしか見えていないようで、ボーっとしていた意識を慌てて取り戻したように「え」と間抜けな声を零した。この調子では会話の内容は耳に入っていなかったのだろう。萩原はそれで気を害すこともなく、「木原さん、ちょっと天然だよね。面白い」なんて笑っていた。彼女の頬がポっと赤く染まる。

「あ、私こっちなんだよね……萩原くんは?」
「あ〜、俺は……」
「良かったら、送って行ってあげてよ。ちょっと遠いんだ」

 友人の背を押しながら告げると、萩原は二つ返事で了承した。友人はまるで今から売られる子牛のように、私の手に押されるまま萩原の隣に並ぶ。今日までに努力した彼女の容姿を、街灯がスポットライトのように照らす。顔を赤くして、それでもどこか萩原に期待の眼差しを向けていた。そんな姿を可愛いと思う。

「でも、大丈夫? そっちも暗いだろ」
「あ〜……。大丈夫だって、ここから近いから」
「なら良いけど……。気を付けて」

 そればかりは、実はちょっとだけ不安はある。けれどどう考えたって友人のほうが遠かったし、暗い道を通るし――何より、ここで二人をくっつけないことには女が廃るだろう。一人言い聞かせて、彼らに手を振り踵を返した。





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