03

君が夏を連れてきた
 パチ、パチン。

 切れかかった街灯が点滅する。なんでこんな日に限って――。空が曇っていた所為で月も見えない。少しだけ歩調が速くなっていくのは、無意識だった。二人を送り出したことに後悔しているわけではないが、それとこれは話が別だ。怖いものは怖い。

 そわそわとした心のままに、家まで早歩きで向かっていると、背後からふと足音がした。

 たったった、と私より少しだけ早い音。犬や猫でなくて、しっかり靴の踵が鳴る音。
 鼓動がいやに脈打った。胸の奥が軋むみたいだ。これで変な人だったらどうしよう、とりあえず鞄を投げつけてダッシュして――。頭のなかでシュミレーションを描きながらも、背中に嫌な汗が流れるのが止まらない。
 でも、ここで走って不審者じゃなかったら、私はすごく変な人間みたいじゃないか。そんな僅かな思考が走って逃げだすという選択肢をなくしてしまった。
 気が付けば足音は近い。すぐ近くまで、誰かが走ってきている。

 ――どうしよう、とりあえず携帯電話……。
 少し汗ばんだ手を握りしめながら、ドクドクと心臓が嫌な鳴り方をしている。周囲に他に人影はなかった。
 何かあったときの為に、と携帯を取り出そうとしたけれど、その手は誰かの声で遮られてしまった。背後から聞こえた苛立たし気な声。私は思わず体を跳ねさせて振り返る。誰だろう、暗くてよくは見えないけれど、声は男の声だった。
 

「だぁっ……! アイツ、置いていきやがった!! くそ、全然追いつかねえし……」


 ――低い声ではない。まだ青年らしい、少し掠れた声だ。ガシガシと頭を掻きむしっているのは、シルエットで分かった。ぽさっとした癖毛が頭のアチコチに跳ねている。

 兎にも角にも、どうやら私のほうへ走ってきたわけではないらしい。それだけは、ひどく安心できた。はぁ、と息をつくと同時に取り出しかけていた携帯を地面に落とす。その音で、その誰かがこちらを向いた。

「……おら、落としただろ」

 彼は気だるげに歩み寄ると、落とした携帯を拾い上げて私に手渡す。街灯の灯りで、ようやくその顔が見えた。もう一度胸を撫でおろしたのは、彼の制服が私の通っている高校と同じものだったからだ。彼もそのことに気が付いたらしい。気まぐれそうな目つきを私の制服に向けてから、屈んでいた位置からこちらを見上げる。

「あ、ありがと」
「いや、別に」
「……えっと」

 どうしてか、次の言葉が出てこなかった。
 先ほどまでの緊張があるせいだろうか。私が言葉を探してしどろもどろになっていると、青年はハァとため息をついた。そのため息で、余計に言葉が出てこなかった。まだ余韻で鼓動が鳴っている。昔から喋るのは好きな方だったから、人とのコミュニケーションに苦戦したことはなくって、そのことにも動揺してしまった。

 青年も特に何も言わなかった。だから、カチ、カチンという街灯が点滅する音だけが響いていた。先ほどは不気味にも感じたそれが、鼓動の音を落ち着かせる。
 暫くの間それをBGMに押し黙っていたら、バイブ音がする。私の携帯ではなかったので、青年のものだろうか。彼もそれに気づいたらしく、ポケットから取り出した携帯を開いた。それから画面を一瞥すると、顔を歪ませて私を見遣った。

「……よろしく頼むって、コイツのことか」
「え? よろしく、って何が……」
「だぁから、さっき会ったか。ロン毛の、いけすかねえ、こーんな垂れ目の奴だよ」

 青年は自らの気まぐれそうなツリ目を両指でぐっと下に下げた。先ほど会ったばかりの青年が頭に過る。「萩原くんのこと」と尋ねると、彼は意地悪そうにニヤリと笑った。

「萩原くん、ねえ。おー、痒い痒い」
「あ、もしかして萩原くんの友達?」
「やめろ、くん、だとか友達、だとか……。腐れ縁みてえなモン」
 
 生意気そうな顔がぎゅっと歪む。心底気に食わないと、表情に表れていた。
 シッシ、と鬱陶しがるように手を振ってから、彼はすたすたと歩き始めた。別れの挨拶くらいあっても良いのに――萩原とは真逆に、紳士のしの字もないような態度だった。それから、数秒。彼が二個先の街灯あたりに差し掛かったころ、クルリと一度振り向いた。

「……んでこねーの」
「……なに? 聞こえない」
「んでこねーんだよ。送るっつってんだろ」

 声を荒げて、青年が私を呼ぶ。その言葉に、ようやくのこと私はいつもの感覚を取り戻した。「ええ?」と聞き返しながらも、顔は勝手に笑ってしまう。クルクル、と癖の強い髪を掻きむしって、大げさなほどに欠伸を零している青年が、街灯の下でポツンと待っている。私はその街灯の下に、やや駆け足になってつま先を向けた。

「送るなんて言ってないじゃん!」
 声を上げて少し笑いを零しながら駆け寄ったら、青年は細い眉をクイっと持ち上げてヤンキーのようにこちらを覗く。彼にとっては、今の不器用な誘いがそうだったというのか。

「……言ったろ」
「言ってないよ〜……。ふふ、あはは」
「じゃあ今言った。送らせていただきますってよぉ」
「なんでそんな喧嘩腰なの!? 萩原くんに言われたんでしょ」

 笑いながら指摘したら、彼は不機嫌そうに鼻を一度鳴らした。そんな態度に、私はまた笑ってしまった。そんな態度に、私はまた笑ってしまった。正直言うと、第一印象がそこまで良かったわけではない。態度や仕草は先ほど会った萩原に比べてずいぶんと子どもっぽく思えたし、見るからに粗雑で、初対面だというのに馴れ馴れしかった。だからこそ、気が付けば笑ってしまっていた自分に驚いている。愛想笑いではない、つい素で笑い声が零れたのだ。

 名前も聞いたことのない青年は、私を自宅の前まで送る間、何かを尋ねることも自ら語ることもしなかった。何組、だとか、名前だとか、地元だとか――。
 ただただ、明日の小テストに対する愚痴を零しながら、腹が減ったと嘆いていたことを覚えている。蛙が鳴いていた。こんな都会でも、蛙は鳴くのだなあ。引っ越してから初めて迎えた六月は、アスファルトの匂いがしたものだ。私の地元では、もっと枯葉みたいな匂いがしたのになあ。

 それも別に悪くないと思ったのは、青年の髪が湿気にピョンっと跳ねているのが、毛先を跳ねさせる私と揃いに思えたからかもしれない。私は自分の毛先を軽く摘まんで、後ろにひょいっと流したのだった。




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