05

君が夏を連れてきた
「うわぁ……」

 と、立ち尽くしたのは下駄箱の前だ。既に時は遅く、一度振り出した雨は勢いを止めないままアスファルトを打ち付け始めた。土砂降りよりは弱い雨足であったが、それでも傘なしで歩くには憚られる。
 ――どうしようか。友人のように、親に迎えに来てもらおうか。いや、でも仕事中だし。それとも、誰か知り合いを探して傘に入れてもらおうか。コンビニはすぐそこにあるから、走ってビニール傘を買いに行っても良いかもしれない。

 少しの間悩んで、ふと空を見上げる。雨粒は大きくて、目に見えて強くなっていく。それでも、雨くらいで親に連絡をするのも。パートをしている母親に申し訳ないような気がするのだ。今の内だったら、走ってもいけるだろうか。

 私は一人ウン、と頷くと、コンビニまで走っていくことにした。学校から最寄りのコンビニまで、道路を一本挟むだけだ。その信号がかわるタイミングで飛び出した。雨粒が衣替えしたばかりの腕を濡らしていく。水たまりに足を突っ込んで、バチャバチャと駆けていく。コンビニに着く頃にはそれなりに濡れてしまって、そのまま店内に入るのも申し訳なく、鞄からハンカチを取り出して髪を拭った。
 雨が降っていた所為だろう、ビニール傘は目の前にあって、私は一番安いものを手に取るとレジに並んだ。店内は冷房がよく効いていて、濡れた肌には少し寒い。鞄からカーディガンを取り出そうとして、そういえば教室に置きっぱなしだったことに気づいた。

 やってしまった、腕を擦りながらひとまず傘を買おうとした――のだが、ああ、そういえば財布に現金が入っていない。短期バイトの時の貯金は口座にある。

「すみません、ちょっとお金……」
 下ろしてきますと断ろうとした時、傍らから腕が伸びた。チャラ、と小銭がプレートに転がる。気だるそうな店員は適当にレシートを切ると、それをプレートの上に戻した。私が理解する間もないほどの時間で、私はぎょっとプレートと背後を見比べてしまった。

「良いから。大丈夫だった?」

 覚えのある制汗剤の香りがふわ、と広がった。その声に顔をしっかり振り向かせる。
 優し気な瞳がにこやかに細められる。長い黒髪の隙間から覗いた目つきに、数秒身が固まってしまった。彼はひょいっとビニール傘を手に取ると、私の背をもう片方の大きな手のひらで押しながら店を出る。

「な、なんで……今日委員会なんじゃ……」
「本当はそうだったんだけどさぁ。服装指導入っちゃって、反省文書いてたんだよね」
「服装指導……」

 復唱すると、萩原は長い前髪をチョイチョイと弄った。確かに、校則では男子生徒の前髪は目に掛からない程度とされていたような、いなかったような。前の学校のものと記憶が混ざってしまっている。何せ、男子生徒の校則など読む機会もなかったので。

「ここまで傘無しで来たの? すげえ寒そう」
「ああ〜……まあ、待ちぼうけててもしょうがないかなーって」
「言ってくれれば傘貸したのに」

 凛々しい眉が申し訳なさそうに八の字に下がった。
 鞄の中に折り畳みでも入っているのだろうか、彼は軽く鞄をトン、と指さしながらそう言った。今度から覚えておくと言ったら、彼は笑いながら「そうして」と答える。

「ていうか、それこそ陣平ちゃんの連絡先教えておけば良かった。アイツまだ学校いるのに」
「……でも、絶対折り畳み持ってるタイプじゃないよね?」
「何のために俺がいつも二本持ってると」

 広い肩を竦めた萩原に、私は笑いながら「何のため?」と尋ねてみる。萩原は珍しく太い眉を僅かに歪めた。不快そうな、ニヒルな表情だ。

「そりゃあ、ヤローと相合傘にならないためだよ」
「あは、何それ。見てみたいけど」
「うわぁ、やめてよ。変な噂立つだろぉ」

 萩原はぞっとしたように小刻みに震えてから、小さく笑った。私はとりあえず口座から現金を下ろそうとコンビニに入り直そうとしたが、萩原が咎めた。「寒いし今度で良いよ」、昼の口ぶりから見ても、彼が心を割いてくれているのが伝わる。
 赤の他人だろうと、よっぽど心配なのだろう。あまり無理をするのも彼に悪い気がして、言葉に甘えておいた。萩原はパっと表情を明るくする。なぜか彼が礼を述べるので、調子が狂った。

「送ろうか」
「彼女待ってたんじゃないの? 送ってあげなよ」
「あ〜……。うん、分かった」

 私は傘の礼を改めて伝えてから、ビニール傘を開いた。まだ真新しいビニール傘は、水をよく跳ねる。コンビニの軒先で見送る萩原に手を振って、濡れたスカートを心地悪く思いながらも歩き出した。ずびっと鼻を啜って濡れた髪を耳に掛ける。ポツポツと傘に水が落ちる音、車道の水たまりを車が通ると、水が跳ねる音が響く。この調子では、明日は予備のスニーカーにしないと駄目そうだ。

 そんなことを考えながら信号を待っていると、パシャっと背後から水が跳ねる音がした。

「っと、場所借りる!」
 ぐっとビニール傘を取り上げられ、私の横に誰かが割り込んだ。変わらずに雨は防げているので、どうやら私の上に傘を差してくれているらしい。見上げれば、記憶に新しいくるっと巻いた髪が目についた。濡れたせいだろうか、昨日よりもへたれているような気もする。

「陣平……くん、だっけ」
「あ? あー……」

 彼は否定も肯定もしなかった。その曖昧な返事が、好きにしろ、と言っているように思える。苗字も分からないから、とりあえずそのまま名前で呼ぶことにした。すぐ隣に立った衣服が湿っている。

「どうしたの、傘忘れたとか?」
「持ってたよ、萩原に持っていかれたけど」
「……えぇ? でも、二本持ってるって言ってたよ」
「大方、折り畳みじゃ彼女と入るのに小さかったんだろ。クソ、あんにゃろお」

 フン、鼻息を荒くして、恨めしそうにググと拳を握る。私は苦笑を浮かべた。
 確かに、手持ちの傘は黒の大きな傘だったような気がする。仲が良いのだか悪いのだか――そういえば、彼のことを腐れ縁だと語っていたっけか。私はこぶしを握る彼の姿が可笑しくて、フっと笑った。すると陣平も、こちらを見下げてから鼻から抜けるように小さく笑う。

「お前はなんでそんなビショビショなの」
「……いや、コンビニまで傘買いに行ってて……」
「天気予報みねえのな、意外だわ」

 今日の降水確率九十パーセントだったぞ、と陣平は揶揄うように眉を吊り上げた。そんなことを言ったって、忘れたものは忘れたのだ。濡れた髪を首に沿うように押さえつけながら口を小さく尖らせた。

「意外って何? そんなマメそう?」
「いや、全然。マメだったら傘忘れねえし」
「じゃあ何、どういうイメージ、ソレ」

 尋ねると、陣平はあっけらかんとして答えた。
 それはあまりに当然なことを言っているような表情で、しかし確かにこの一言が私を変えたのだと後から思い返すことができる。雨が降っていた。濡れた癖毛からは水滴がポツリと滴って、赤信号のランプがビニール傘越しに彼の鼻や頬の出っ張った部分を照らしていた。
 陣平とは、そういう男だったのだ。そういう、当然のように、人の感情を揺さぶる男だ。それは例えば木枯らしのような、はたまた俄雨のような。


「ひなだろ。舞川ひな。すげー天気よくなりそーじゃん」

 
 にひっ、と彼は口の端を持ち上げて、笑った。子どもみたいだ。笑うと口の端が引き攣るみたいに皺が寄る。私は小さく口を開けて、それから思わず「知ってたの!」と声を上げた。照れ隠しである。どうしてか、知っていてもらったことがすごく嬉しくて、でもそんな感情をストレートに出すのは恥ずかしいような気もして。

「知ってた……てか、前期の委員会一緒だっただろ」
「そうだっけ? 全然覚えてない」
「お前すげーガチガチに緊張してたから。あと、俺二回しか出てねーんだよ」

 どこをどうすれば、毎週ある委員会の集会をサボタージュできるのか分からないが、そりゃあ二回しか参加してなければ見覚えがないわけだ。

「名前だけ見て、めちゃくちゃ能天気な奴かと思ってた」
「そっちだって、大河ドラマみたいな名前してるのに」
「んだ、それ」

 彼は髪の毛をクシャクシャと掻きながら口を開けて笑った。
 横顔だけだったけど、笑うと眉間にきゅっと皺が寄るのが、犬の表情みたいで可愛いと思った。気が付けば雨の音なんて聞こえていなくて、彼の声だけが傘の中に反響している。その時は、まだ少し良いかもくらいに思っていた。最初会ったときからそれなりに気が合う感じもしたし、こんな風に距離を詰めて来たのだから脈がないわけではないのでは。そんな風に自惚れた。

「……お、雨上がった」

 彼がそう空を見上げるまで、雨が降っていないことにも気づいていなくて。傘を閉じてしまうことが勿体ないような気もしたけれど、陣平は変わらずに私の傘を片手に持って横をついてきた。昨日の口ぶりからしても、もしかしたら家がそこまで遠くないのかもしれないと思う。

「なんだ、本当に俄雨だったんだ……もうちょっと雨宿りしてれば良かった」
「それでまた夜道ビビることになったら世話ねえだろ」
「まあ……それはお世話になりますってことで……」
「馬鹿言え、有料だ」

 有料なの、と笑うと、彼は片側の口端を持ち上げて「もちろん。コーラ一本」と一の指を立てた。逆に言えば、コーラ一本で一緒に帰ってくれるということか。なんていうのはあまりに現金すぎるかもしれない。一々言及する勇気はなかった。

「まあ、そろそろ日もたけぇし。そんな暗くなることないだろ」

 さらりと、今私が思い描いていたことを打ち砕くあたり、抜け目ない。彼が女の子に人気が出ないのも、ちょっとだけ分かる。萩原とは対極的な性格をしていたからだ。萩原は初対面の人間にでも優しく、恐らくその本心からの優しさは誰にでも伝わるだろう。悪く言えば、思わせぶりだ。陣平にはそういう態度はなくて――それでも、悪い奴じゃない、というのは上から目線かなあ。

「じゃあ、コーラ奢ってあげるから連絡先頂戴よ」
「めんどくせーから萩に聞け」
「良いじゃん、赤外線ある?」

 携帯を取り出して操作を進めると、彼もしょうがなしといった風に携帯電話を取り出した。かちかちと手慣れた手つきで操作を進めると、私の画面に彼のメールアドレスが送られてきた。――なんのアルファベットだろう。よく知らない並びだ。画面を睨めっこをしていたら、そんな私の様子に気が付いたのだろう。少しだけ恥ずかしそうに鼻先を掻いて彼は言う。

「……ボクサーだよ。知らねえ?」
「全然……。格闘技好きなの?」
「まあ、いちおー」

 どうして、こっぱずかしそうにそう答えるのだろうか。別に、男子が格闘技好きだって良いような気がするけれど。不思議に思いながらも名前を登録するからと、彼に名前を尋ねる。陣平は再び面倒くさそうな、いつもの態度に戻ってカコカコとボタンを押していた。

「松田陣平。陣羽織の陣に、平らで陣平」
「……ふっ、陣羽織……」

 肩を震わせて顔を背ける。響きでもだいぶ古風だと思っていたけれど、やっぱり古風じゃないか。陣平は噛みつくように「なんだよ」とこちらを軽く睨みつけた。

「カワイーひなチャンに言われたくねー」
「……それ挑発になってるか、イマイチ微妙だと思うけど?」

 私は眉をピンと吊り上げて、その挑発に疑問を抱きながら首を傾げた。陣平は「そうか?」と目をまあるくするのだ。男ならば、確かに挑発になるか。私からすれば可愛い言葉を有難うとしか思えない。怒るどころか呆れてしまって、それから二人でチラっと視線を合わせると揃って破顔した。一通り腹を抱えて笑うと、名前を忘れないように連絡先に打ち込む。

 ――松田、松田、陣平。

 覚えるように、心の中で何度も繰り返しながら。打ち込んだ文字はいつもと何ら変わりのない無機質な文字だというのに、少しだけ特別に思える。彼も、私の名前をそうやって打ち込んだのだろうか。それを考えたら、益々胸が躍った。湿気を含んだ空気に髪が跳ねて、耳に掛ける。「跳ねてる」なんて突かれて、どの口が言うのだかと少しだけ呆れた。




prev サマーイズオーバー next


Shhh...