06

君が夏を連れてきた
「やっほ」

 廊下からヒョコリと飛び出た顔に、肩を跳ねさせた。ニコニコと人懐っこい犬のような笑みを浮かべて私を覗き込んでいる。驚きはしたものの、どこか安心した。彼のにこやかな表情にやましいものがないと、何となく伝わるからかもしれない。私も小さく「やほ」と手を挙げた。どうやら移動教室の途中だったようで、理科の教科書とワークが大きな手の中で玩具のように遊ばれていた。

「ごめんね、昨日は置いてって」
「ううん、彼女と合流できた?」
「モチのロン。ありがとなあ」

 こうして翌朝に顔を出してくれるのも二度目で、私としては少し申し訳ない気持ちもあった。そんな僅かな戸惑いを感じ取ったのか、彼は教室を見回して話題をコロリと変えてきた。そういうところも、気遣いのできる男だと感じる。

「席替えしたんだ。舞川さんが近くてチョッカイかけちゃうな」
「ソレハヤメテ……」
「えぇ、なんで片言?」

 彼は垂れた目を細めてケラケラと声を上げた。あははとそれにつられて笑いながらも、あまりチョッカイをかけられすぎると周囲の視線が痛いのだ。別にそれで萩原を遠ざけるようなつもりもないけれど、私は萩原のことを好きではないし、好きになる予定もない。そりゃあ良い人でイケメンでモテるのも分かるが、自分が平凡すぎるのであまり高嶺の花すぎると恋愛する範囲から零れてしまうのだ。ありもしない諍いを作るのは避けたいところである。

「そうだ、明日の帰りとか空いてねえ?」
「空いてる。どっか行くの?」
「ウチのクラスの奴らとボーリング。木原さんも誘って来なよ」
「うーん、でも私隣のクラスに友達いないからな」

 転入してきてから馴染みはしたものの、何せまだ半年だ。自分のクラスの子とは喋ることも多いが、他のクラスの人たちと関りは殆どない。萩原を知っていたのは、彼があまりに校内で名も顔も知れている所為なのだ。

「そう? まあ無理にとは言わないけど」
「ちょっと相談して決めるね。ありがとう」

 行ってみたいという気持ちもあるけれど。私はあいまいに礼を述べる。
 友人である木原桜は明日部活で帰りが遅いと聞いていた。さすがに、アウェイの中に一人だけで飛び込むのにも勇気がいる。(萩原が来ると言ったら、部活を休んで来そうな気もするが――。夏の大会が控えているし、それも野暮だろう。)

 萩原のことだし、断ったとしても嫌な顔はしないだろう。
 次の授業の準備を机の上に並べながらそんなことを考えていたら、廊下からバタバタと走る音がした。重なるように予鈴が鳴る。
 ――バンッ
 ぼうっとしている私のすぐ横の窓。廊下側の窓は白く濁った色をしていて、そこに黒い手の跡がべたっとくっついた。その音も相まって、視線が一瞬でそちらに奪われた。

「ぎゃあっ!」

 ホラーハウスのような演出に、萩原に声を掛けられた時など比じゃないくらいに腰が浮く。一瞬ドキリと鳴った心臓が、その後も余韻でドクドクと早く音を立てていた。

「悪い、都築! 理科の教科書!」

 ばっと窓から飛び出た表情、焦ったように手を伸ばされた。私は都築ではないが、すぐにくるっとした癖毛を見て鞄から教科書を取り出した。目の前に顔をだした青年は、大きいがキュっと上向きに吊られた目つきを益々大きく見開いている。本鈴まであと三分。理科の実験室は隣の棟の三階である。
 
 私は静かに教科書を差し出す。「はい」、と手を伸ばすと、彼は驚いてはいたもののそれを受け取り、手のひらを顔の前に立てた。そしてバタバタと再びスリッパを鳴らして廊下を走っていく。途中、「松田ァ、廊下走るな」と教師の声が聞こえた。今からこのクラスで授業をする古文の教師の声だ。

――陣平は、ボーリング来るのかな。

 忙しない背中を見送って、手のひらで口元を隠しながらほんの少し笑ってしまった。それなら、ボーリングに行っても良いかもなあと思った。暫くあって教師が部屋に入ると、クラスメイトたちもガタガタと席に着き始める。ぼんやりとした頭のまま号令で軽く礼を済ませてノートを開いた。

「……ボーリングかあ」

 私は机の下でこっそりと萩原にメールを送った。昨晩、松田から【送れって言われた】という不愛想な文面と共に送られたアドレスだ。送信中の文字が消えて、数分と経たないうちに萩原からメールが返ってきた。授業中なのに、と少しだけ笑みをこぼす。人のことは言えないのだが。

【オッケー! 木原さんも来る?】
【桜は部活。でも後で聞いてみるね】
【分かった。木原さんって、名前さくらって言うんだ。すげえ女の子っぽい】
【かわいいよね。春生まれなんだって〜】

 そう送ると、少しだけ間があった。五分ほどの間を空けて【そうか、お祝いできなかった】と涙の絵文字を語尾にメールが返ってくる。
 おお、これは良い感じ。後で友人に文面を見せてやることにしよう。きっと喜ぶはずだ。そう思ったら、自然と口がニヤニヤと緩んでしまった。しばらくそんなやり取りを繰り返していたら、ツン、と背中を軽く突かれた。あまり話したことのない、クラスの中の大人しい女の子が、焦ったように私の名前を呼ぶ。

「どうしたの?」
「舞川さん、前……」

 ハっと振り向いた時には私の目の前には古文の教師が仁王立ちしていて、その日転入後初めての呼び出しを食らった。もちろん、携帯を没収されたことは言うまでもない。
 友人たちの励ましを受けながら、授業後虚しく生徒指導室へ足を向けるのだった。




 蒸し暑い廊下を歩く。課せられた反省文の紙を眺めて、一つため息をついた。どうやら古文の教師は部活動で忙しかったらしく、代わりに副担任である優しい雰囲気の女教師が携帯を返してくれた。説教が浮いてラッキー、と思っていたが、まさか原稿用紙をこれほどドッサリもらうとは思わなかったのだ。

「反省文って、何書けば良いんだろ……」

 授業に集中してなくてすみませんでした。これから気を付けます――。
 駄目だ、こんなもの一行で終わってしまう。私にとってこれが人生初の反省文であったので、余計に思い浮かばない。もともと作文はあまり得意じゃなかった。
 うだうだと文章を考えながら、部活動の音を聞く。この音は、ブラスバンドだ。テレビの中の甲子園で聞くようなリズミカルなトランペットの音を聞きながら、自分のクラスへ足取り重く戻っていく。
 そういえば、野球部が全国大会に出るのだとか聞いたような気がする。すごいなあ、みんな。それに比べて、と真っ新な原稿用紙を一睨みした。

 教室の扉を開けようとした時、後ろから軽く肩を叩かれた。ぱっと振り返れば、欠伸をしながら陣平が軽く手を挙げた。その手には、私の貸した教科書がある。

「マジ助かった。次忘れたら指導室って脅されてたんだわ」
「……指導室いけばよかったのに」

 なんでコイツは助かってるんだ。
 じとーっと恨めしく睨むと、陣平は「ア?」なんて不良のように口元を歪めた。顔つきが幼いので、あまり迫力はない。しかしすぐに私の手元にある原稿用紙に気が付いたらしく、彼は私と手元を交互に見比べた。

「おぉ〜……ご愁傷サン」
「うるさい!」
「ちなみに何罪よ」
「……メール見すぎて深沢の話聞いてなかった罪」

 深沢、というのは古文の教師のことだ。
 悪い人ではないのだが、何分やたら声が大きいことと生活指導には五月蝿いので、生徒の間では要注意人物だった。不満そうに言うと、陣平は私を揶揄うように片側の口角をニヤっとさせた。

「良い度胸してんな。で、こってり絞られてきたわけだ」
「怒られたのは副担だったから、良いけどさ。でも見て、この量」
「ンなもん、らくしょー。書き方ってモン教えてやるよ」

 陣平はそういうなり、私の机のほうへとズカズカ歩みを進めた。少し駆け足にそれを追う。反省文の書き方――って、人に教わるものなのだろうか。とも思ったが、一人鬱々と原稿用紙に向かうよりは面白そうだったので、彼に従うことにした。
 陣平は私の席の前に腰を下ろし、頬杖をつきながら筆箱を漁った。こちらに引っ越してきた時に買った、キャラクターのぬいぐるみのようなペンケースだ。

「なんだよ、こんなん全然ペン入らねえじゃん」
「ペンあんまりいっぱい使わないもん。陣平だって、絶対ノート真っ黒なくせに」
「とんだ差別用語だな。赤も使うっつーの」

 赤だけかよ。やっぱり筆箱いらないじゃないか。
 ぶつくさ言いながら、彼はシャーペンを理科のプリントの裏に走らせる。さらさらと謝罪の文句が何行も――よくもまあ、これほどボキャブラリーがあるものだと感心するほどだった。

「ほら、こんなかんじで埋めるんだよ。で、まずはパクられた経緯を一から書く。なんなら朝のことから書く。朝は納豆パン食いましたって」
「……それ、提出して怒られないの?」
「そもそも反省文とか、無駄だろ。教師だって叱りました〜って形を残したくてやってんだから、書きゃ良いんだよ。書きゃあ」
「ゼッタイ怒られる……」

 どうやら陣平は生徒指導の常連客のようで、得意顔になりながらアレやコレやと抜け道を教えてくれた。結局どれも怒られるような内容ばかりではあったが――。彼がそれほどに指導を受けながらも、問題児扱いされている様子がないのは、なんだか憎めないような独特の雰囲気があるからだろうか。

 何やかんやと横から添削されながらペンを進めていくこと四十分と少し。ようやく原稿用紙も残り僅かだろうか。ふと、時計の音がやけに大きく聞こえることに気づく。はじめは口を挟んできた目の前の青年が、いつのまにやら黙りこくっていた所為だ。私もしばらく集中していたので、フェードアウトしていく声にまで気が回らなかった。

 ちら、と前の席を覗き見る。
 眠たいのだろうか。重たそうな瞼が大きな目を半分ほど覆ってしまっていて、瞬きはする度にゆっくりと速度を落とした。蒸し暑い室内を通り抜けていく風が、彼の癖毛をそよそよと揺らす。

「……ふ」

 ――小さい子どもみたい。
 よくホームビデオ特集とかで、赤ん坊が食事の最中に眠気に負けてしまう、なんてシーンを見る。そんな姿と、今目の前で船をこぎ始めた陣平の姿が重なった。小さく息を漏らすと、ぴくりと彼の吊った眉が歪んで、私は慌てて口を閉じた。

 まだ原稿用紙は残っているし、起こすこともないだろうと思ったのだ。次第に頭が垂れてきて、椅子の背もたれに組んだ腕を枕にして、彼はスウスウと寝息を立て始めた。あんな体勢で寝れるなんて、器用なものである。




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