07

君が夏を連れてきた
 彼の寝息をBGMにした反省文は、思いのほかスムーズに書ききることができた。時計は六時を過ぎた頃。夏至を終えたばかりの空はまだ明るい。ちょうど日がオレンジがかって、窓から差し込む光はステンドグラスを挟んだように鮮やかだ。

 不思議なもので、田舎だろうと都会だろうと、空は案外変わらない。
 田舎の人はこぞって都会の空は汚いだとか言うけれど、大差ないものだ。夕陽の色も雲の形も、何も変わらない。安心感と共に、少しだけ嫌気が差した。私みたいだなあと思うのだ。ひたすらに平穏で、ひたすらに退屈で――。そんな日常を嫌うわけではないものの、冗長だなあと、思う時もある。

 引っ越しに期待をしたのは、切っ掛けになれば良いと思ったからだ。
 今まで体験していなかったことに、思わぬ才能が芽生えたり、衝撃的な出会いがあれば――。私の心にも、友人――木原桜の涙があふれるような情熱的な想いが灯るだろうか。そんなことばかり妄想するのは、せいぜい今年が最後なのかもしれないが。
 幼いころから、可も不可もない人間であったと思う。
 通信簿で褒められることといえば、『誰とでも仲良くなれること』と『素直なこと』。
 親にもいつもそう褒められて育ってきた。確かにそうかもしれない。人の話を聞くのは好きだし、好奇心だって人一倍強かったと思う。昔はよく地元の習い事を受けにいったりもして、教えられたことは真っすぐに吸収してきたつもりだ。
 ピアノ、そろばん、体操、習字、絵画にスイミング。エトセトラ、エトセトラ。
 別に私が嫌と言ったわけじゃあないのだ。ただ、小学校を卒業するころになると、才能ある子との差は一目瞭然だった。私が大きくなればなるほど、大人に近づけば近づくほど、現実が分かる。

 親もきっとそれを分かっていて、悪気なく「まだ続けるの?」と尋ねるようになった。
 どれか一つに絞って、そのぶん練習を増やせば良いじゃない。母は言った。
 
 その通りだ。こんな何個も、同時に平行して上達するわけもない。――でも、どれかを選べと言われてすぐに答えられるほど、熱を入れたいものも、私にはなかったのだ。全部一緒で、全部下手でも上手くもなかった。

 ――まあ、良いか。

 十二にして己の平凡さを悟り、それからは高望みはしなかった。習い事もすっぱりとやめた。
 今からでも一つのことに打ち込めば、それなりには上手くなるかもしれない。けれど、そんな物事さえ見つけられない。体育だって好きでも嫌いでもないし、英語だって好きでも嫌いでもない。
 
 努力は才能であるとよく言うが、私には才能がゼロだったとは思わない。
 けれど、どこまでも心が平々凡々なのだ。何か一つを熱く追いかけることができない。

 欠点――というかは分からないが、憧れではあった。
 そんな風に、何かを想ってみたい。何でも良い。物でも人でも良いから、たった一つのことに振り回されてみたい。そんな出来事に、出会ってみたい!

 願えば願うほど、世界とはなんとも残酷に平穏だ。ゆっくりと時間が流れる。少しずつ大人になる。社会人になるころには、こんな願いも忘れていることだろうと思う。

「舞川さん、反省文書けた? もう遅くなるから、無理だったら持ち帰っても……」

 ガタン、と勢いよく椅子を引いて立ち上がってしまった。
 机の上をシャーペンがコロコロと転がって、慌てて手で受け止める。副担任はおっとりとした表情を陣平に向けて「あら」と頬に手を当てた。

「松田くんじゃない。よくもまあ、こんな体勢で寝れるわねえ」
「アハハ……。すみません、コレ……」
「はいはい、ありがとう。これからは気を付けてね」

 私はもう一度ペコリと頭を下げる。彼女はそれ以上怒ることもなく、携帯電話を渡してくれた。教室の戸締りを始めた副担任の姿を一瞥し、松田の肩を揺すった。

「おーい。もう締めちゃうって……もしもし」

 何度か揺すってみたけど、彼は僅かに唸って眠り続けている。なんという寝つきの良さだ。今度は少しだけ強く頭を叩いてみた。
「起きてー、ねえ。ねえって……陣平……クン」

 呼んだ名前、第三者の存在が少しだけ気恥ずかしくて声色が固くなる。なんだか私が滅茶苦茶緊張しているみたいになってしまって、誤魔化すように強くペシペシと頭をはたいた。

 ドリブルするような手つきが効いたのか、ようやくムクリと顔を起こした陣平は、自分の居場所を確認するように周囲を見渡す。副担任が苦笑を浮かべて彼を見守っていた。

「ほら、もう教室締めるから。ていうか、四組はもう部屋締まってたわよ」
「ハ? マジかよ……」
「冗談よ。今日は私が当番だから、早く荷物取ってきなさい」

 クスクスと笑いながら、彼女は陣平を急かすように二度手を打った。陣平がうすのろに席を立ち、私もついついその背を追った。思い返せば、そこで別れても良かったのだが、彼が部屋を出るときにチラとこちらを振り返ったから――まるで、ついてこないのかと言われているようで。

「ああ〜……体いて」
「そりゃ、あんな恰好で寝てるからじゃ……」
「じゃあ起こせって。ンー、ちょっと待ってろ」

 ぐっと腕を伸ばして肩を回し終わると、彼は少しだけ駆け足に自分のクラスへと向かった。ややあって、鞄を持ちながら歩いてくる。さも当然に「帰るか」と言われ、私は頷いた。ちょっとだけ嬉しくてブワっと胸に広がった想いを噛みしめていたら、陣平はそんなことも気にせずさっさと先に歩いて行ってしまう。パタパタとスリッパを鳴らしながら彼の背を追った。

 先ほどまで窓ガラス越しに見ていた夕陽が、まばゆく瞳の奥を刺した。湿気た土の香り。明日は雨が降るのだろう。厚い雲が遠くに見えて、少し気が沈む。

「お前、雨嫌いなの?」

 陣平は、こちらに視線もくれずに尋ねかけた。雨が嫌いというか、雷とか雨雲で淀んだ空が嫌いだ。昔から、暗い場所は苦手だった。けれどそれを言うのも、かわい子ぶっているみたいだろうかと曖昧に「まあ」と返した。

「まあ俺も好きじゃねーけど」
「そうなんだ……なんで?」
「そりゃあ、髪の毛が決まらねえだろ」

 クシャクシャと癖毛を搔きむしって彼は言う。彼の癖毛は良く言えばパーマっぽい。レトロな俳優みたいな髪型をしているなあと思う。日本人らしい顔つきにはよく似合っているものの、今は彼の顔が幼い所為かヤンチャさが目立っていた。

「萩原くんみたいに伸ばさないの?」
「ハ? 冗談だろ……女々しいったらねえよ」
「そうかな、格好いいと思うけど」

 襟足だけ少し長くて、前髪も目が少し隠れるくらい。なかなか今時でイケているし、何より彼の大人っぽく穏やかな雰囲気に合っている。今でさえあんなにモテているのだから、これから大人になればなるほど大変だろうと予想がつくのだ。私が萩原のことを褒めると、陣平は露骨に嫌そうな顔をする。「なんだよ」「あんなヤローが」とぶつくさ呟きながら。

「腐れ縁って言ってたっけ」
「おー……。小学校の時からずーっと同じクラスなんだよ」
「えーっ、すごい!」

 私は声を上げて横を歩く彼のほうを振り向いた。陣平はスン、と鼻を啜りながら言う。

「何がすごいモンかよ。アイツが横にいるせいでチビとノッポってあだ名つけられるし、宿題忘れてもなんでかアイツのほうが怒られねえし……」
「でも、同じ高校選ぶくらいには仲良いんでしょ?」
「たまたまだっつの。た、ま、た、ま」

 そう言ってはいるものの、本当に嫌っていたら離れた学校を選ぶだろう。互いに憎まれ口ばかり叩いてはいるが、嫌ってはいないことが一目で分かる。陣平も、嫌悪というよりはどこか揶揄って遊んでいるような、大げさな表情をしているように思えた。

「お前の地元は?」

 歩行者信号が点滅して、自然と歩みを止めた。目の前を車が行き来するのを眺めながら「何が」と尋ね返す。

「転入してきたんだろ。地元はどんな場所だよ」
「えぇ〜……。ちょー田舎だよ。電車も一時間に一本だし」

 笑うと、陣平も軽く口角を持ち上げた。「すげ、それどうやって買い物いくの」、なんて聞いてきたけれど、思い切り声を上げて笑ってこない彼に少し好感を持っていた。馬鹿にしたような態度ではなかったからだ。

「自転車で」
「自転車ァ? へぇー……それも良いな」
「本気で言ってる? 近くのショッピングモールまで、一時間ちょっとくらい漕ぐんだよ。真夏に、汗掻きながらさあ……」
「良いじゃん。今度やってみるか」

 にひ、と白い歯がのぞいた。どこか挑発的に笑って見せる表情に、私も少し悪戯っぽく笑う。

「いや〜、本場の足には勝てないと思うけどォ」
「言ったな、お前。ぜってー泣かす」

 信号機の色が変わる。横断歩道を渡る時、ぼろぼろのスニーカーが白線だけをぴょんぴょんと踏んでいく。私より少し高いところにある頭がその度にひょこりと跳ねる。子どもっぽいなあ、と思いながら、私は彼の隣を歩いた。

 私の家が近づいてくると、そういえば彼の家はどこなのだろうと思う。先日も雨に濡れた私に付き添ってくれたけれど、私の家の近くで別れてしまったから。この近くなのだろうか。

 ――家とか聞いたら、意識してるっぽいかなあ。

 陣平なら気にしなさそう――と思う反面、急に距離を縮めたら引いてしまうのではと思うところもあった。結局その日は他愛もないことばかり話しているうちに、私の家の近くまで着いてしまい、彼の家について聞くことはなかった。またねと手を振れば、背中を向けながら気だるく振られる右手を、ただぼんやりと眺めていたのだ。




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