01

 雷の鳴る夢を見た。
 空は暗く曇り、唸るような音が響く。ちかっとフラッシュが光ったと思えば、轟音が空を埋め尽くしていた。どこかボンヤリと夢だとは分かっていて、私は居心地悪く耳を塞いだ。勿論夢であったから、耳を塞いでも音が防げるわけではない。――ああ、うるさいなあ。大体、こんな旅行乗り気でもなかったのに、断れずズルズルついてきているだけなのに――要らない感情まで引っ付いて、私は勢いよくかぶりを振る。

「うるさい、ってば!!」

 ばっと上体を起こすと、目の前に見慣れた顔があった。彼女はパチクリと長い睫毛をよく瞬かせる。真っ白な肌に、染めたことがないと大切にしている長い黒髪――幼馴染の道城ユキだ。ユキが私の名前を心配そうに呼ぶと、すぐ傍らから慌てたような声がした。

「ご、ごめんなさい……。五月蠅くしちゃって、起こしましたよね」
「え……、ああ。すみません、お姉さんたちに言ったわけじゃあ」
「ったく。くぉら、ガキども。分かったら大人しくしとけ」

 幾度か瞬き、周囲を見渡す。並んだ座席と、電光掲示板――そうだ。新幹線の中だ。バイト明けだったので、つい眠りこけてしまったらしい。通路を挟んで隣の座席をもう一度振り返る。先ほど謝ってくれた、ショートパンツを履いたロングヘアの女性は、私に向かってもう一度深く頭を下げた。隣に座っていた子ども三人が、ひょこひょこと顔を出し「ごめんなさい」と続く。

「ううん、私もちょっと悪い夢を見てて。驚かせちゃったかな」
「悪い夢……?」

 カチューシャをつけたボブの少女が首を傾げた。私がやや目を丸くして固まると、すぐに「歩美だよ。吉田歩美」と笑った。続いて、そばかすの利発そうな少年が光彦、大柄でガキ大将じみた少年が元太と名乗り出る。

「私は蘭です。毛利蘭――こっちが父の……」
「え、毛利小五郎!!」
 ユキが身を乗り出して、スーツを着た男をまじまじと眺めた。確かに、そう言われれば見覚えがある。ニュース番組はあまり見ないので、バラエティのゲストで見かける程度だが、東日本で毛利小五郎と言えば、名の知れた探偵だ。

「感激です! あの名探偵ですもの!」
「……この子、ミステリー好きなんです。ちょっと、ベタベタ触ると失礼だよ」

 ばっと小五郎の手を取るユキを、私は苦笑いで宥めた。不満げに返事をするユキを見て、蘭は丸っこい瞳を輝かせて笑う。人当りの良い、好感を持ちやすい笑顔をしていた。年は自分よりも僅かに下だろうか。まだ少しばかり幼さを残した顔つきは、どこかユキに似ている。
「大人数で移動だったから、うるさかったですよね。こっちはコナン君、奥の子が哀ちゃん」
 座席を引っ繰り返して、四人席で座っていたのだが、更にその後ろの席も彼女らの連れのようだ。ぴょこぴょこと小さな頭がこちらを振り向き、軽く挨拶を交わした。コナンという少年の向かいに座る眼鏡の男も名乗りはしなかったが、微笑んで会釈をする。大家族――とも思ったが、そういえば最初に名乗った少女とは姓が違う。
「ご家族、ではないんですよね? どこかにお出かけですか?」
「遊園地に行くんです。ホラ、最近話題の――」
「それって、もしかしてミステリー要塞じゃないですか! 私たちも行くんです」
 ユキがぱちんっと手を打ち、私に同意を求める。私もニコと笑って頷いた。
「私は、完全にミステリー好きのユキの連れですけど……。ミステリー物は頭が痛くなっちゃって」
「まあまあ、良いじゃない。今回はサークル旅行ってことなんだから」
「ねえねえ、サークルってなあに?」
 歩美は、好奇心に顔色を染めながら首を傾げた。子どもは好きだ。あどけない表情に、私は自然と口元を緩めて、先ほどより穏やかな口調で話した。

「ううん、なんていうのかな。好きな趣味の集まりっていうか……小学校だと、クラブとかっていうのかな」
「知ってる。三年生になったら入れるって言ってたよ!」
「そうそう。お姉ちゃんたちは映画を見るのが好きな人のクラブなの」
「ホォー、映画サークルっすか」
 感心そうに頷く小五郎に、私とユキは二人ではにかんだ。
「そんな大したものじゃ……殆ど同好会って感じなんで」
「だから映画コラボのアトラクションに行くんですね!」
「そうよ、ボク。あー、もう待ち遠しいったら!」

 ユキは赤いサンダルで地団太を踏んだ。まったくもって、子どもらしいのが彼女の魅力ではあるのだが。行儀が悪いよと宥めようとすると、近くからバイブ音が響く。自分のものではない。
「アチャー、慎也のじゃん。仕事用のスマホ放っていったんだ」
「……新幹線乗ってから、テンション上がってたからね」
 三人席の端に置かれた、シルバーのスマートフォンが継続的に震えていた。その音が、浮かれていた心を急激に沈める。表情を陰らせないよう、無理に顔を持ち上げた。
「トイレかなあ、私ちょっと見てくる」
「え、放っておきなよ」
 私は彼女の薄手のブラウスを引き留めたが、ユキはニッコリと幼い顔を綻ばせて首を緩やかに振った。はあ、と重たい溜息が漏れ出してしまう。空は青く、清々しいほど晴れているというのに、頭の中には雷の轟音が木霊していた。






 ユキとは、幼稚園の頃からの幼馴染だ。
 家が小川を一本挟んだ向かい側にあって、まるで互いを繋ぐように一本の橋が架かっていた。私は人づきあいが得意な方ではなくて、活発なユキの背中をよく追いかけていた。変わった子だった。明るくて友達もたくさんいた。しかしどこか風変りで、昔から小難しい映画や本を好んでいた。そしてそれを悪いとは思わせないような、魅力のある子だった。

 幼稚園から小学校まで、ずっと彼女の後を追っていたものの、中学校になると話が変わる。目の前の小川を一本挟んで、学区が分かれた。それを知った六年の秋、駄々を捏ねて家で泣き散らかしたのを覚えている。後にも先にもあれほど取り乱したのは一度きりだ。

 ユキの後をついていたおかげで、人と話すことは不得手ではなくなっていた。大学は福祉系の大学を受けた。広く緑の茂るキャンバスで、ユキの後姿を見つけた時、目の前が霞むような気持ちで背を追ったものだ。


 慎也は、ユキの高校の同級生だった。
 大学生らしい好青年で、第一印象はユキによく似た男だと思った。人当りが良く懐っこいが、どこかミステリアスな人。ユキに似た黒髪で、ユキに似た白い肌。二人が並んでいると、小説の中の風景のようで惚れ惚れした。二人が付き合うまで時間はそう長く掛からなかった。
 ――変化が起きたのは、大学三年の夏。
 飲み会の帰り道に、慎也を見かけた。偶然だ。バイト帰りかと思って、つい声を掛けた。私もずいぶん酔っぱらっていて、当時の彼の姿はよく思い出せない。
 気が付けば、彼とキスをしていた。
 力のない手で胸を突き返して、なんとか逃れようと胴を蹴りつけた。不明瞭な声を上げて、ベッドから這いずるのを、想像よりずっと厳つい手が引きずり戻した。
 
 ――その日から、私と慎也は共犯者だ。
 彼は変わらない。穏やかに、ユキと一緒にご飯を食べて、一緒に映画を観て――。まるで私に、変わるな、と脅しているように。変わればお前のしたこともバレるのだと、念を押すように――彼は変わることのない穏やかな顔で、私とセックスをした。





「ごめん、遅くなっちゃった。なんか電話中だったみたい」

 ユキが帰ってきたのは、席を外して五分程後のことだ。私はハっと顔を上げ、お帰りと笑った。白い肌を僅かに赤らめて、彼女は肩を竦める。
「今度の記念日のホテル予約してたみたい。えへへ……楽しみだなあ」
「わあ、ステキ!」
 すっかり馴染んだ様子で、通路を挟んだ席の蘭がニコニコと手を鳴らす。
「良いなあ、そんな記念日迎えてみたいです」
「蘭さんは、恋人とか?」
「あはは……一応……う〜ん……一応……」
 分かりやすく言葉が詰まった蘭に、ユキはオオーっと大袈裟に喜ぶ。
「や、やだ! そんなこといっても、恋人なんて呼べるかも分からないんですけど……」
「カッ、あんな奴放っとけ。どーせ今日本にゃいねえんだ」
「え、遠距離ですか。スゴーイ!」
 蘭はみるみるうちに頬を真っ赤に染めると、掌で冷ますように顔を扇いだ。小五郎はひどく面白くなさそうにビールを呷る。途中から歩美も加わって、きゃいきゃいと花を咲かせていると、時間が経つのはあっという間だった。(なぜだか、コナンと言う少年が途中途中咳き込んでいるのが印象的だった)

 時計を見たのは、慎也のスマートフォンが二度目のバイブ音を鳴らしたからだ。ユキが不安そうにするのが、横顔でもはっきりと分かる。インターン中の慎也のことが心配なのだろう。
 複雑な気持ちだった。心に何本もひっ詰めた線を、不安が弦のように鳴らした。
「……私、トイレ行きたいから。ついでにちょっと見てくるよ」
「そう? ごめんね……」
 会いたくはなかったが、ユキと二人にするのは嫌だ。新幹線の時間も差し迫っていたから、私は足取りを重く席を立つ。漏らすつもりのない溜息が、つい、何度も溢れてしまった。