02

 ユキが言っていたデッキを見回すが、見知った姿はない。考えた末に、喫煙ルームへ足を運んだ。窓を覗く後姿に、やっぱりと確信する。入り口を潜ると、彼は煙を軽く鼻から漏らす。
「ユキに見て来いって言われた?」
「……ううん。スマホが鳴ってたから、届けに来ただけ」
「ああ、ありがとな」
 スマホを手渡すと、彼は煙草の灰を落としながらもう片手で画面をスクロールしていく。そのスマートフォンは仕事用ではないことを、知っている。いたたまれなくなってきて、私は素っ気なく「もうすぐ着くよ」とだけ告げた。

「なんだよ、そんなビクビクしなくたっていいだろ」
 ニコ、と優し気な顔つきが笑った。
 きっと、この世に私だけなのだ。この笑顔を恐ろしいと感じるのは。慎也の笑顔は怖い。セックスをする時も、平気でユキの横に立つ時も、いつもこうして笑っている。つい後ずさると、髪に隠れた私の表情を覗き見るように顔が近づいた。

「そうやってするからさあ、搾取されるんだよ。お前……見てて楽しいもん」
「搾取、なんてされてるつもりない」
「好きなだけヤられて、親友に嘘までついてるくせに。それともそういう趣味だったか」
「そんなわけ……!」

 浮かんでいた涙を強く瞬きして引っ込める。表情を保って、慎也を睨みつけると、彼は不機嫌そうに煙草の先を此方へ向けた。

「萎える顔するなよ。ユキにそっくりで嫌気が差す」
「……嫌えば良いじゃん。私も、もう我慢の限界だし」
 低い声が、ハァ、と溜息をついた。
「――お前みたいなヤツ、最初からこうすればよかった! 全部、最初から……」
「だからさ、そういう顔するなっつってんの」

 煙草の灰が、手首に落とされた。反射的に手を庇おうとすると、その煙草の先が目前にあった。目を瞑り息を呑む。狭い喫煙ルームでは、背中を逃げるように壁へと押しつけるしかなかった。否、それしか判断ができなかった。
「お、っと……」
 喫煙ルームの自動ドアを開けたのは、断じて私ではない。その筈なのだが、確かに心地よい空気が肌を撫でる。次に、ぱしゃっと何かが零れる音がした。
 確かめるように額に触れる。熱くは、ない。
 恐る恐る瞼を持ち上げる。慎也は怒っていなかった。私から見ればまだ少々不機嫌そうだったが、すぐ横の灰皿に煙草の先をグリグリと押しつけている。

「失礼、服を汚してしまいましたね」
「あ、いえ……」

 そう、声を掛けられて初めて第三者の存在に気づく。手に持った紙製のカップが、縁からコーヒーを溢れさせていた。Tシャツに数滴飛んだコーヒーを指して、男は申し訳なさそうに謝る。
「あれ、確かさっき、毛利さんたちといた……」
 コナンの向かいに座っていた、眼鏡の男だ。センター分けの亜麻色の髪と、黒いハイネック。知的な風貌だと思っていたが、立ち姿はずいぶんガッシリとした印象を受けた。
「沖矢と言います。すみません、クリーニング代はお支払いしますので……」
「大した汚れじゃないですよ! それに……いえ。本当に」
「なら、君が急に目の前に飛び出たことと、50:50――ということで」
 目を瞑って背後の壁に後ずさったせいで、周囲を見えていなかったのは確かだ。急に飛び出てきたように見えても可笑しくはない。慎也は、沖矢に向かって申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「すみません、少しふざけあっていたせいで。じゃあ、後でな」
 そう、軽く私に手を振った。私は、震える手を何とか抑えると、いつものように「うん」と頷く。

 悔しかった。情けなかった。
 ユキのことが大切で、傷つけたくないと思っていた。結局、私は自分が傷つくことを怖がっているだけなのだ。その事実が、突き付けられた煙草よりも恐ろしかった。ぼろぼろと涙が零れる。すれ違う人が、私の顔を振り返るのが分かる。――殺したい。明確な殺意を覚えたのは、生まれて初めてのことだ。
 席に戻ろうにも涙が止まらないもので、私は一つ先のデッキに蹲って泣いた。

「ユキ、ごめんね、ユキ……」

 誰に届くでもない謝罪を、ぽつりとぼやき落とす。トンネルに入った音で、きっと誰にも聞こえなかっただろうと思う。






 新幹線の機内放送に、ハっとした。もうすぐ目的の駅に着く。時計を見ると、確かに予定時刻の五分ほど前である。いつまでも戻らない私を、優しい彼女はきっと心配していることだろう。ぐずぐずに崩れた化粧を軽く直すと、私は元の号車に踵を返す。ちょうど、喫煙ルームのある、最寄のデッキを通りかかった時だ。
 ――がた、バタバタンッ
 大きな物音がした。何かが倒れた音――。音の方向へ視線を遣ると、トイレの扉が大きく開閉を繰り返していた。まるで勢いよく閉められて、バウンドしているような動きだ。
 ゆっくり、つま先をそちらに向ける。大きな音で脈打った心臓が、まだ常より早く鳴っている。恐る恐る歩み寄ろうとすると、反対側の扉が開いた。――見知った姿は、私のことを捉えると不思議そうに目を開いた。
「あれ、ユキさんと一緒じゃなかったんですか」
「ユキ? いいえ、今戻ってきたところで……。今、そこから大きな音がして、それで……」
 蘭たちは荷物を持っているので、降りる準備をしていたのだろう。私が控えめにトイレを指すと、小五郎が扉を覗きこみ、「でも空いてんぞ」と。確かに音はしたが、何の音かは確かめられていない。自信なく首を傾げると、さすが名探偵、とでもいうのだろうか。彼は臆することなく、その扉を開ける。

 瞬間、蘭や歩美がキャアと息を呑むのが分かった。何があったのか、知りたくないほど彼らの顔つきが真剣味を帯びる。ドクドクと鳴る鼓動が指先まで震わせる。
「ユキさん、ユキさん!!」
「ユ、キ…………?」
「見ちゃダメだ!」
 咎めたのは誰の声だっただろう。その声よりも早く、私は扉を覗いていた。
 ぐったりとトイレの床に座り込むユキは、普段から白い肌を真っ青に染めている。指先や唇の色まで、真っ青に――。虚ろに焦点の合わない視線が、真っ黒な瞳が、私を見ている。
 青く薄い唇が、力なく、僅かに戦慄いた。血の混じった泡が口の端からこぽっと溢れる。
「ユキ、ユキ……ッ!」
 名前を呼ぶ。いつものように「なあに」と笑い返してほしかった。変わりに返ってたのは息苦しそうな呼吸音と、それから――……。力なく、その手首が僅かに持ち上がる。最期の意思を伝えるように、くったりとした手は人差し指を立てる。一、の指のような仕草だった。

「……え?」

 そして、私に向かって、人差し指の関節をくいっと曲げたのだ。

 瞬間的に、周囲の人も私を振り向いた。彼女は暫く、指先を私へと向け――数秒後、力尽きたように手の力が抜けてしまった。彼女の顔も、指先も、二度と動くことはなかった。






「なるほど、それで扉を開けると道城さんが倒れていたと……」
「はい。凶器は同じくトイレに落ちていた注射器、毒物の注入による中毒死かと思われます」
「ふむ、注射痕の位置からも他殺だろうなぁ」

 目の前で起こっていることが、まるでドラマのようだった。
 ユキの体を囲んだ白い線や、ぱしゃぱしゃと証拠写真を撮る音。それを見下ろし淡々と状況を整理する警察に、ぐすぐすと泣く人たち。すべてがフィクションにしか見えなくて、不思議と涙は出なかった。
 代わりといってはなんだが、慎也はボロボロと泣いていた。嘘なのか本当なのかは、分からない。私には、慎也とユキの間にあった感情を測ることはできなかったのだ。
 事情聴取を担当したのは、若い警察官だった。グレーのスーツを着た男の警察官だ。彼は軽く手帳を見せると、「本庁の高木です」と名乗る。
「えっと、あなた達が彼女と旅行に来ていたという……」
「はい、荻野慎也です」
「詳しくお話をお聞かせ願えますか。できるだけ、詳細に」
 ちらり、と高木が気づかわし気に私を見遣る。私は、呆然とする頭で口を動かした。


「……百花。高槻、百花です」