04


「浮気、ですか」

 高木がそう呟き返した時、慎也のこめかみがピクリと動くのが見えた。目暮と高木はアイコンタクトを交わすと、私を睨む慎也のポケットを凝視した。
「荻野さん。拝見しても」
 有無を言わせない言葉に、彼は固い下唇をぎゅうと噛みしめてから、白い手袋の上にスマートフォンを渡した。ロックを解除した中身にすいすいと指を滑らせると、高木は驚愕を表情に滲ませた。
「こ、これは……」
「彼が関係を持っている女性の、メモリーです。……秘密を洩らさないよう、脅すための」
 ユキは仕事用だと思っていたようだけど、と付け加えると、目暮が目を鋭くして慎也を見る。先ほどまで悲劇の主人公もさもありなんという態度だったというのに、彼はすっかり気を動転させて、私を睨みつけた。

「俺が浮気をしていることと、ユキの死に何か理由がありますか」
「……それは、まだ」
「ユキが百花を指さしたことに変わりはないんだよ。それに見てもらえば分かります、浮気相手は紛れもなく……今俺を告発した、彼女のことなんですから」

 彼がふっと鼻を鳴らすと、高木は気まずそうに視線を遣した。ここで視線を逸らしては、また自分の気持ちが引っ込んでしまうような気がして、私もできる限り視線を真っ直ぐにして頷いた。


「警部、検死の結果が――……」
 鑑識の声に、場の空気が揺らぐ。目暮は手を立て断りを入れると、その結果に耳を傾けていった。慎也は、苛立たし気に煙草の火を点ける。張り詰めていた喉元から、ゆっくりと空気を抜いた。

「……お姉さん、大丈夫?」

 長い溜息を聞いてか聞かずか、声を掛けてきたのは歩美だった。出会った時からしっかりした子だとは思っていたが、素直で優しい少女なのだろう。あどけない顔つきから、心配そうな色が覗き見える。心の底からの感情であった。
「うん。ありがとう、ちょっと緊張しちゃって……」
「歩美、お姉さんはユキさんを……こ、殺してなんかいないって思うよ。ゼッタイ!」
「うん……うん、殺して、ないよ」
 殺して、という言葉が僅かに震えた。同時に、ふと疑問だった。確かに私は彼女を殺してなどいない。――が、状況として見れば私が怪しいことは一目瞭然だ。歩美の絶対、というワードが妙に気にかかる。

「ねえ、どうして私のことを信じてくれるの?」
「そりゃ、掌に爪食い込ませてることにも気づかないんだから。これが演技だったら、中々のものじゃない?」
 答えたのは歩美ではない。もう一人の少女――確か名前は哀と言っただろうか。日本人らしい風貌の歩美とは異なり、ハーフじみた色素の薄い少女だった。喋り方も、どこか大人びてクールな印象を受ける。
 彼女の、小さな手が私の指に触れた。言葉通り握りしめた拳を、解きほぐすように開かれる。冷たく、細い指先だった。
「ほら、貸しなさい。消毒液くらい持ってるから」
「……あ、ありがと」
 開いた掌には確かに赤い線が横切っている。爪先が食い込んだ痕だった。感情が昂って痛覚が麻痺していたのだろう。まったく痛みはない。哀が手慣れた仕草でバックから取り出した消毒液が、掌に消毒液が掛かって初めて、ジリリと痛覚が戻ってきたことを知る。

「はい、もう片手……コレ何かしら」
 するっと反対側の手を取ると、哀は訝し気に眉を顰めた。
 私も同じになって手を覗きこむと、赤い跡とは別に手首の付け根あたりに黒い煤がついていることに気づく。はて、首を傾げる。よくよく見ると、薄っすらとだがもう片手にも同じような跡がついていた。匂いを嗅いでみると、少し焦げ臭い。
「なんだろ……どこかで擦ったのかな」
 記憶を辿って小さく唸る。身に覚えがなく、三人で掌を囲んでいると、ふわっと傍らを誰かが横切った。

「失礼」

 そう告げたのは、聞き覚えのある落ち着いた声色だった。私の間抜けに開いた両手に、横から見ると尚更通って見える鼻先が近づく。かちゃりと眼鏡がずれるのを、彼の手が押さえた。
「お、沖矢さん」
「……この匂い、恐らく煙草の灰ではないかと」
「煙草の……あ!」
 煙草、そうだ。喫煙ルームだ。果たして、慎也が煙草から落としたものか、無我夢中で後ずさる際に灰皿に触れたかは分からない。しかし、煙草に触れる機会などそのくらいしか思い浮かばなかった。あの後は取り乱していたから、気づかなかったらしい。――このまま過ごしていたと思うと成人女性としては気恥ずかしい。
 にぎにぎと掌を見つめていると、ふ、と沖矢が息を漏らすように笑った。そして幾度と頷くと、私の顔を見つめる。
 
「……なるほど、確かに君は犯人には成りえないらしい」
「え……?」

 どうして――そう尋ねたくなる衝動を抑えた。信じてくれているのだから、それで良いではないか。だが、気にかかる。歩美の件もそうだ。いくら私が感情的だったとはいえ、ユキは確かに私を指した。口惜しいが慎也の言う通り、裏返らない事実であるはずで――……。
「コナンくんだよ!」
 困惑する私に、歩美がニッコリと笑った。
「コナンくんがね、お姉さんは犯人じゃない証拠があるっていうんだもん」
 コナン――眼鏡を掛けた少年を、反射的に視線で追った。ちょうど、慎也と会話を交わしているのが目に留まる。背丈は歩美や哀と然して変わらない、恐らく齢も同じくらいだろう。

「その掌が、君が犯人ではない証拠=\―落とさないでおいたほうが良い。一番に見つけたのは、あのボウヤですがね」
「……なんだか、変な言い方ですね」
「それしか判断材料がないんですよ。カメラもなしのこの空間で――犯行が可能であったのは君たち二人だけ。それは乗客の証言からしても、明白なのですから」

 ――明白。張り詰めていた表情が、僅かに緩む。引き結んでいた唇が綻ぶのを見て、沖矢は首を傾げた。「何か可笑しいことでも」と、意外そうに言うものだから、私は慌てて首を振る。
「ユキが、よく言っていたんです。明白だ……って、カッコつけて」
「そういえば、ミステリーがお好きだとか。もしかして、シャーロキアンなのでしょうか」
 僕もです、嬉しそうに笑う沖矢に、私は首を横に振った。

「いいえ、ユキはいつも、ホームズも好きだけど……私はクイ……なんとかだって」

 横文字であったような、そんな記憶はあるのだが。自慢ではないが、ミステリー物にはとんと興味が湧かず、ユキの好きそうな作品も殆ど観たことがないのだ。私がウウン、と首を傾げると、歩美も揃って首を傾けた。
「クイ……クイ……」
「ごめん、ほんとはもっと違ったのかも……。なんだか、猫の鳴き声みたいだったのは覚えてるんだけど」
 顎に手を当てて呟くと、明らかに鼻から抜けるような笑い声がした。「ふふっ」と、今度は吐息ではなくしっかりとした音になっていた。
 歩美と揃って振り向くと、口元を隠したままの沖矢が咳払いをする。聞き違いでなければ、間違いなく笑ったのは彼だ。

「笑いましたよね……」
 つい、言及してしまった。だって、あまりに彼が馬鹿にしたような笑い声を漏らすのがいけないのだ。ジットリとその澄ました顔を睨むと、沖矢は緩やかに首を振る。
「う、ウン。すみません。……それはクイーニァン、ではありませんか」
「あ。そう! そういう言葉でしたよ」
「よく分かったわね、今ので」
 やや呆れた風に哀が言うのが、嬉々として頷いた私の羞恥を煽った。少し赤くなる頬を誤魔化すように、私も沖矢と同じように咳払いをする。
「いえいえ、重要な証言です。……重要な、ね」
 ニッコリ、と笑う彼は、己の輪郭を癖のように何度もなぞりながら呟く。沖矢はミステリアスな雰囲気を纏わせながら、反面、学校の教師のように――ぴんっと人差し指を立てた。

「――さあ、消去法といきましょうか」