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 姿見の中の自分は、くるりとスカートを舞わせてから唇を軽くひん曲げた。
「これ、気合入れすぎか……」
 オフホワイトのワンピースを指先で摘まみ、この後のことを考えながら頭を掻く。時計を見ると、既に予定の時間まで三十分を切った。私は白い天井を見上げて、一度重たい呼吸をした。



 ――事は、以前の指輪事件へと遡る。
 事情聴取を終え、別れる間際に沖矢を引き留めたのは私だ。世話になってばかりで申し訳ないが、ひとまず礼を言うのが筋だろうと思った。彼にはこんなことばかりだ、事件の直後は気が動転しているので、後付けのようにばかりなってしまう。
「いえ、本当にお礼をさせてください……」
 頭を下げる私に、沖矢は困ったように笑った。

「お礼を言われるようなことではないんですよ。実際君の証言が事件の役に立って、それで一人の命が助かったのですから」
「で、でも……私の気が済まないというか……」
「僕は事件を解明したかった、君は指輪の謎が解けた――それで、50:50ということで」

 フィフティーフィフティー、沖矢の流暢な発音も、私が繰り返すと台無しだ。印象的な言葉だったので、彼が以前にもそう言っていたことを覚えていた。

「それ、口癖なんですか」
 つい思ったことがそのまま口裏をつついて零れる。沖矢は私の言葉に、己の唇を軽く擦った。
「ええ、まあ――父の受け売りでしてね」
 気恥ずかしいのか、珍しく彼は視線を逸らしていた。まあ、確かに親の癖が移るのは分かるし、恥ずかしいというのも納得できた。笑うのは失礼だろうかと思いながら、ほんのり口角が上がるのを堪えられず、私も沖矢の仕草を真似るように口元を隠す。
 その後も、二、三度「大丈夫だ」と言う沖矢に「金額は問わないので」などと食い下がり、結果沖矢が肩を落とした。迷惑だっただろうか。しかし、彼の好みも知らないし、二度も家に押し掛けるのには気が引けた。


「では、お言葉に甘えて。とはいっても、僕は本当にお互い様だと思っているんですよ。ですから――」




 
 彼が提案したのは、映画を観に行かないか≠セった。そんなことで良いのかと言い返せば、沖矢は満足げに笑いながら頷いた。曰く、『最近引きこもりで、久々に観たい映画があるのでチケットを奢ってくれないか』とのことだ。映画チケットなんて、たかだか値段の知れるものなのに。そう思いながらも、私はスマートフォンで近場の映画館のチケットを取ることにした。 

 それにしても、私を誘ったのは少し意外だ。
 沖矢は年上ということもあるが、落ち着いた所作で大人びて見えたし、映画くらい好きなものを一人で観るタイプだと思った。案外、映画を観て語り合いたい性質なのだろうか――そう思うと、しっくりくる。
「って、そんなこと考えてる場合じゃないか」
 あれやこれやと引っ繰り返して、クローゼットの中はしっちゃかめっちゃかだ。知らない人が見れば空き巣が荒らしたのかと思うのではないか。
 沖矢は大人っぽいし、かといってデートというわけでもない。親しい間柄ではないが、かしこまったディナーに行くわけじゃない。その微妙なラインが私の頭を悩ませていた。結局、白いレース地のブラウスを細身のデニムにインしたところで、スマートフォンが鳴ってしまった。

「はい!」

 通話ボタンを押し、何故かこれでもかというほど元気な返事をすると、沖矢はスピーカーの向こうでくつくつと笑っていた。
『マンションの下で待ってます。慌てなくても大丈夫ですから』
「……あ、いえ、すぐに行きます……」
 肩を縮こまらせて、誰もいない部屋で一人、軽く会釈をした。



 下に降りると、丸っこい車が一台道路の脇にハザードを焚いて寄っている。見たことのない車種だった。レトロな見た目で可愛らしいと思いながら窓を覗くと、携帯を弄っていた沖矢が視線をこちらに向けた。白いハイネックのサマーニットから、やはりイメージよりもがっしりとした二の腕が覗いている。
「すみません、また大きな声を……」
「いいえ、起きていて良かった」
 ――起きていて良かった、なんて。まるで私の寝起きが悪いことを知っているかのような口ぶりが不思議だった。私は少し疑問を抱きながら、丸いシルエットに乗り込む。

「……目覚まし、すごく小まめにかけてるでしょう。前送った時に、ずっと鳴ってたんですよ。多分、バイト用なのかな」
「あ、ああ〜……。そうなんです……五分おきとかじゃないと起きれなくって」
 鞄を膝に乗せて、シートベルトを締める。沖矢はハンドルを握りながら、上品にクスクスと笑い声を漏らした。先ほど通話で聴いた「くつくつ」という笑い方とはずいぶん雰囲気が違って、まるで別人の笑い声のようだった。人前では気を遣う人なのだろうなあと思う。
「沖矢さんって、本当に探偵みたい……あ。悪い意味ではなく」
「お気になさらず。詮索好きなのは事実です」
 詮索好き、と沖矢自らが言葉にすると、ストンと腑に落ちる感じがする。最初はお人よしなのかとも思ったが、どちらかといえば興味があるという方が正しい気がした。勿論、その詮索好きに救われたのは確かなのだが。

「見るのではなく観察しろというのが、ホームズからの教訓でね」
「あ、それはユキに聞いたことがあります。彼女もよくそういう真似みたいのをしていて……」
「ホォー……」

 興味深そうに、沖矢は頷きながら話を聞いた。細い目つきから、チラリと瞳を覗かせると、彼はこちらを一瞥する。挑発するように「例えば」などと言うものだから、私は言葉を詰まらせた。

「えぇ、無理ですよ。私ミステリーとか本当弱いんです」
「どうでしょう。案外観察していないだけかも……良いじゃないですか、探偵ごっこ」

 暇つぶしだと思って――にこにこと笑う沖矢の本心が掴めないまま、私は考え込む。何か聞きたいことがあるのか、本当に暇つぶしだと思っているのかはいまいち分からないが、少なくとも今の沈黙は私が思考を巡らすためにあるのだろう。
「本当に、そういうの苦手ですからね。その……期待はせず……」
「ええ、勿論」
 相槌を打つ声は、心なしか上機嫌に感じる。
 私は沖矢の横顔を見つめて、精いっぱいに今までの記憶を引っ張り出す。――結局、数分考えて引っ張り出せた僅かな記憶を口にする。
 
「お、沖矢さんは煙草を吸っている……とか」
「なるほど。根拠は」
「匂いがしたので……煙草の」
「もしかしたら、どこかでついたものかもしれませんよ」

 意地悪く言及をするものだから、私はうっと呻き、それから眉間に皺を寄せた。沖矢はやはり、どこか上機嫌に口角を上げていた。

「……分かりません。でも、彼女さんが吸うにしては重い銘柄だと思って」
「それは例えば――」
「ハイライトでしょう。匂いが独特だから覚えてるんです」

 ハイライトは、ユキが気に入っている煙草だった。喫煙家ではなかったが、よく映画の俳優に憧れてひと箱だけ吸ったりとミーハーなことをしていた。ハイライトはユキの好きなハードボイルドな俳優がよく吸っていたが、味が重たすぎて消費を二人揃って諦めた銘柄だ。
 沖矢は意外そうに、ポケットから青いパッケージを取り出すと、慣れた手つきで箱の尻を軽く叩いた。

「Obvious!ご名答!」

 嬉しそうに煙草を吸い始めた男に、私は拍子抜けする。もしかして煙草を吸う口実が欲しかっただけなのでは――と考え――。しかし、どこか無邪気にゲームを楽しむ様子が少年らしく、私はそっと口を噤んだ。