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 安室はよく気が回る男だ。
 彼の言葉通り、同じ時間帯にバイトをすることは殆どないが、彼がモーニングに入った日はストックが余ることも足りないことも殆どないし、シンクの角に至るまで綺麗に磨き上げられている。最初は勘違いかとも思ったが、かれこれ二週間が経ち、これは偶然ではないと確信した。

「はぁ〜、疲れた……」
「お疲れ様です、あとの作業はやっておきますよ」
「すみません、来たばっかなのに」

 ニコ、と愛想よく笑う安室は、いつものエプロンに頭を通して、腰の後ろのスナップを留める。梓の言う通り、安室は私のいる時間帯だけすっぽりと抜けていて、大抵は朝か私の後番にいた。
 カフェタイムが終わり、今からはメニューがディナー用に切り替わる頃合いだ。店内も、テーブル席にお得意様が一人コーヒーを飲んでいるだけで、少し雑談をする余裕もある。カフェタイムの食器をそのままにしておくのも忍びないので、それだけは片しておこうと手を付けた。
「だいぶ慣れましたか? 大学との両立は大変でしょう」
「もう四年生なので、取ってる講義はほとんどないんですよ」
「なるほど。なら就職活動のほう?」
「ですね〜。でも、バイトしないと暮らせないんで……」
 はあ、と軽くため息をつくと、安室がクスクスと笑った。最初は同い年くらいかと思ったが、梓が敬語を使っているし、どことなく落ち着いた雰囲気を見ると年上なのだと思う。沖矢も雰囲気が年上らしかったし、年齢は割かし空気に出るものだなあ。
 私が食器を洗い終えると、安室は苦笑いして「良かったのに」と言う。
「いえ、あとは帰るだけだったし」
「最近には珍しく、丁寧な人ですよね。ああ、嫌な意味じゃないんですが」
「安室さんこそ、いつも隅のほ〜うまで掃除するじゃないですか」
「僕のは性格なので……」
 男の人には潔癖な性格が多いというが、そういうことなのだろうか。にしては、人の言動には大らかな気がするので、尊敬する。(今日も女子高生に手を取られたりしていたが、さらりと流していた――)
 安室は私が手に取った皿をひょいっと掠め取ると、私のエプロンのスナップを指先で外した。

「さ、今日はこのくらいにして。外も暗くなりますから」
「あ……ありがとう。安室さん」

 外されたエプロンを脱いで、私は自然と微笑んでいた。彼は私に向かって『にっこり』という効果音が聞こえるような笑みを見せる。ドアベルがカラカラと鳴ると、すぐに接客を始めたので、私も邪魔にならないよう荷物を纏めた。

 

 私は荷物を持って、ついでにスーパーに寄って帰ろうと、いつもの道とは少し逸れた道を歩いた。少し暑さも和らいで来たので、丼ものでも良いかもしれない。夕飯の献立を思い浮かべながら歩いていると、パっと軽いクラクションが鳴った。邪魔だったかな、と振り向くと、丸っこいボディの車に、私の心がドキリとする。
 ウィンドウが開く音に、私は少しだけ駆け足で車に近づいた。

「こんな人通りのない道、一人には危ないですよ」

 声を掛けた時の沖矢は、やや険しい顔をしていたが、私が少し口ごもるとすぐに柔く落ち着いた笑みを見せた。こうして意識してみると、やはり安室と沖矢は笑い方が似ている。ニコニコマーク、みたいなイメージだ。
「あの、スーパーに寄ろうと思ってて」
「送っていきましょうか……と言いたいのですが、今は手が離せなくて」
「気にしないでください。最近このあたりの道よく通ってるので」
 私が軽く手を振って言うと、沖矢はホォ、と相槌を打つ。短い相槌だが、なんとなく沖矢が「どうして?」と尋ねているように聞こえた。

「最近、バイトはじめたんです。この辺り、大学の帰り道だから……」

 バイトを選んだ時の下心が、私の口調を早口にさせた。まるで自供させれている犯人の気持ちだ。それほど隠すことでもないとは思うのだけど。沖矢は私の動揺など勘づかない風に、頷いて笑った。
「そうでしたか。なら、また会うこともあるかもしれませんね」
「そ、そうですね」
「また、映画でも?」
 ――え。
 え、という言葉は、声には出なかった。口の形だけが『え』と象って、空気は震わせずに終わってしまう。正直、彼には突き放されたのだと思っていた。私が少し意識するような素振りを見せたから、敢てそう言った風に振る舞ったのかと。
 沖矢を見つめても、彼は相変わらずニコニコと笑っているだけで、それが世辞なのか本気なのかも分からない。――が、本気として捉えるには、私の心に少し勇気が足りなかった。
 できる限り、愛想を乗せた声で「ぜひ、また」と答える。すると、彼は読めない表情をした。常に上がっている口角を下げて、考えるような、はたまた驚いたような顔。それから、フっと抜けたように笑う。ニコリ、ではなくて、口角を片側だけ上げるような。ハザードが、私の視界を赤く染めた。
 優し気な顔が急にいじわるっぽく表情を変えるから、つい胸が鳴る。駄目だ。意識しないようにと思うと、益々動悸が早くなった。

「……少し、賢くなりましたか」

 彼は、普段と変わりない優しく落ち着いた声でそう言った。私がぱっと顔をあげると、いつもどおりニコニコと笑って、わざとらしく首を傾げる。

「さあ……しかし、本当にもうすぐ暗くなりますから。帰りは人通りの多い道を通っていってくださいね」
「……沖矢さんって、本当は優しくないんですか」

 ――『上っ面が優しいだけの男』という言葉。親指を擦り合わせながら、ニコニコと笑む彼に尋ねると、彼は笑みを崩さないままゆったりと頷いた。

「ええ。優しくないですね」
「そうは見えなくて、困ってます」

 沖矢はクツクツと喉を鳴らして笑った。似ているが、安室とは違う笑い方だ。低い声が、喉奥で堪えるように笑う。――「それは困った」困っていなそうな、余裕ぶった声が告げる。
「やっぱり、その、騙されているんでしょうか」 
 尋ねると、彼は軽く肩を竦めた。ハザードが消える。
 ――優しくないのだろうか。慎也との口論を止めてくれたのも、ユキのダイイングメッセージの宛先をわざわざ言葉にしたのも、自信なく俯く私に大丈夫だと背を押したのも、私を、助けてくれたのだって――。
 彼は、しっかりしているがやや小さめの下唇を湿らせるように軽く舐めた。洋画のなかの俳優のような仕草だった。色素の薄い瞳が、チラリと私を覗く。

「……おやすみなさい」
 この間と同じはずなのに、違う人が告げたセリフのように静かな声だった。ちかちか、と近くの街灯が眩しく光った。