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「例えばの話をしましょう」

 沖矢は、テーブルに置かれていた煙草を取り出して、軽く口に食む。マッチで火を点けるのが、ずいぶん古風だと思った。車の中で吸った時は、車のシガーソケットを使っていたので知らなかった。知らないことばかりだ。
 私が固い声色で「はい」と返すと、沖矢は少しだけ砕けたように笑った。
「そう構えずとも。例えばですよ」
 すう、と吸い込んだ煙を、彼は心地よさそうに空に浮かべる。知っている匂い。くせのある、ハイライトの香り。煙を燻らせながら、沖矢は話を続けた。いつもの柔和さが削れていて、沖矢であるはずが、知らない男のようにも思えた。たとえば、その煙草を吸う指先が、やけに分厚そうな皮膚であることも。

「僕が彼の大切な人を貶めただとか――殺した、だとかね」

 私はバっと顔を上げる。彼が、そういう冗談を言う人ではないことを知っている。彼は私の驚いた様子を気にするでもなく、ただニヒルに笑って言葉を続けた。
「そういうことがあって、僕のことを恨んでいるとしたら? 僕を殺したいと――思っているとしたら。有り得ない話じゃないでしょう」
「……それは、沖矢さんがそういう人ってことですか」
「例えば、です」
 例えば、と復唱すると、沖矢はニッコリと笑って頷いた。
 なんだか、私の答えを試しているような言葉にも思える。私は雑把な味わいの紅茶を飲んで、暫し沈黙した。
「私は――」
 答えは、見つからない。
 沖矢が人を殺したら、だなんて考えたくもなかった。だって、違うではないか。今までの、人を意味もなく傷つけるような奴と沖矢は違う。
「同じですよ」
 まだ何も言葉にしていないのに、彼はまるで心を見透かしたようにそう言った。本当に、心を読まれることはあるのだと実感して、ギクっと体が強張った。その反応を見て確信したらしい、沖矢は笑みを深くする。


「この際だから、言いましょうか。僕は君にヒーロー扱いされるような男じゃない。むず痒いとかではなくて……」

 ふう、煙が吹かれる。彼の姿を隠すように、白い煙が薄く幕を張った。とん、と灰が落とされる。私はふと、慎也の姿を思い出して、僅かにこめかみが痛んだ。どうしてだろう、人殺しの話など、するからだ。
 沖矢もまた、何かを思い出すように頬を引き攣らせていた。私がユキのことを忘れられないように、きっと沖矢にも何かがある。それは、分かっていた。彼は今までポーカーフェイスを固めていた笑みを醜く強張らせていた。


「君に……そう言われると、罪悪感で、死にたくなる」


 声まで引き攣ったように聞こえて、胸がぎゅうと締め付けられる。彼がそんな風でいると、ひどく苦しい。深く吸い込んだ煙草の煙が、彼を蝕むように思えてしょうがなかった。どうして彼が苦しいと苦しいのだろう。彼を救いたいと思うのだろう。

「……人殺しが、沖矢さんを助けない理由にはなりません」

 私は泣きたいような気持を押さえながら、張り付く喉を無理やりに開いた。
「確かに、人を殺してほしくはありませんけど……! それは話が別です」
 そうだ、彼がそう教えてくれたのではないか。
 人を殺して良い理由などはないと。救える命があるのなら救うのだと。私はそれを知ったから、沖矢のことを――沖矢の中にある、何かを助けたいと、心から思うのだ。
「だって、じゃあなんで期待するなんて言うんですか。後悔をしているからじゃ、ないんですか」
「違う――僕は、悪事が君に知られるのを、拒んでいただけだ」
「なんで、悪いことを知って、私が見捨てると思うんですか!」
 今度は、沖矢が言葉に詰まった。彼はすっかり意気消沈したように、「例えばの話ですよ」と小さな声で吐き捨てた。


「慎也の裁判に、行ったんです」


 私は乾いた唇を軽く舐めて、髪を耳に掛けながら視線を逸らした。それはつい先月のことだった。証拠が彼の自供と手袋くらいしかなく、検察が上げるまでには時間が掛かったらしい。私が知っている彼とは違うその姿を、じっと見つめていた。
 記憶よりもやつれた顔つきで、彼は死んだような顔で淡々と供述を述べていた。後悔していると口では言っていたが、殆ど感情の籠っていない言葉だった。怒りは湧いたけれど、それ以上に、こちらを見遣った彼の視線が色濃く残っている。
「百花……」
 彼はそう呟いてから、ぼろぼろと泣いていた。ユキのことを好きだった、本当に好きだったと何度も泣いていた。他にやり方を知らなかったと、後悔していると。

 許すことなどできなかった。
 怒りさえ湧いた。しかし、同じくらい悲しさを感じた。

「彼には、もう彼を救う人はいないんだって思って、悲しくて」

 ユキはきっと、慎也の性格に少し勘づいていたと思う。賢い子だったから。
 それでも彼と付き合うくらい、ユキも慎也を好いていたのだ。どうでも良い人と付き合うような子ではない。しっかりと、そう思っていたのは確かだった。彼は既に、一番の理解者を自分の手で失ってしまっていた。


「慎也は人殺しです。許せないけれど、だけど――悪人が救いを求めないとは思えなかった。だって、人間です。沖矢さんも人間じゃ、ないですか」

 私は前のめりになって、彼の顔を見上げる。煙が晴れてようやく覗いた表情は、複雑そうに歪んでいた。彼は一度口を開いて、何か言いたげにしてから、隠すように噤まれた。感情が昂って、余計なことまで言っただろうか。つい口を突いてしまったが、次第に後悔が胸を渦巻いた。

「――違う」

 沖矢は、端的にそれだけポツリと呟いた。違う――私の話したことに対する言葉だろうか。私は覗き上げた視線を逸らして、「すみません」と謝る。やっぱり、余計なことだったかもしれない。
「違う、俺が言いたいのは」
 煙草が、ぽろ、とテーブルに落ちた。煙草の吸殻が綺麗なテーブルを焦がす。灰はなかなか落ちないのに、だなんて他人事のような考えが脳裏を過ぎった。彼は視線をこちらに持ち上げて「そんな、まさか」と独り言ちる。

「沖矢さん……?」

 唇をほとんど動かさない呟き。恐らく本当に独り言なのだと思う。彼はその澄んだ瞳でこちらを見ると、ぐっと眉間に皺を寄せた。それから――。覗き込んでいた頬が、ぐっと掴まれた。硬い指先は少しささくれていて、掴まれた頬がチクリと痛む。

 口の中が、苦かった。

 何があったか分からなくて、頭のなかはただただ真っ白だった。いつかユキと吸った、ハイライトの味。苦くクセのある、重たい味。それが、何故今――。次に感じたのは、唇に何かが押しつけられるような感触。目の前にあったのは、澄んだグリーンアイ。

 食いつくようなキスだった。
 覗きこむ私の顔に対し、覆うように上から被さった唇だ。驚いて声がでなかったが、その固く苦い唇は角度を変えてもう一度、上から重なった。

 ――苦いものは嫌いだった。慎也とのキスを思い出すからだ。
 そう思っていたのに、沖矢とのキスが嫌だと思えない自分が尚更嫌だった。なんて現金な奴なのだと、自分への嫌悪感でいっぱいになった。強引なキスは苦しくて、息を鼻から「ふぅ」と漏らしたら、ようやく沖矢の顔が離れる。かさついた唇が、少し湿った。

「お、沖矢さ……」
「出て」

 彼は、間近にある唇を小さく動かして告げた。私は、「え」と聞き返す。沖矢は何を考えているか分からない、ポーカーフェイスを張り付けた表情のままだ。けれど、笑ってはいなかった。

「出てください。早く」

 冷たい声色に、私はひたすら玄関へ走った。頭の中が無茶苦茶だ。私は、何の話をしにきたのだか、この時にはもう分からなくなっていた。ただ、口のなかが苦くて、それだけが現実だと思わされた。